8.慰めの報酬
猫耳を生やした親子が金色の瞳で直人を睨んだ。
母は怒り、娘は悲しみの涙を流す。
直人は何度も謝っているのに2人は訊く耳を持たず、いつまでもいつまでも彼を睨みつけるのだ。
そうだ、逃げればいい。
サライは逃げ出す選択肢を何度も示唆してたではないか。
でも、ここで逃げ出したらどうなる?
直人を笑いものにした女冒険者は更に厭らしく笑うだろう。
それにアリッサの料理を食べるには、2人を殺して報酬を受け取る必要がある。
(そういえば、腹減ったな)
気がつけば、親子は茶色の包みを開いて料理を食べてた。
母は怒り、娘は泣き、手づかみで貪りついている。
(俺にも分けてくれないかな?)
物欲しそうに見つめてみるが、2人は目もくれず獣の様に料理を食らう。
このままでは空腹のあまり死んでしまうかもしれない。
直人はその場でうずくまり、ついには泣き出してしまった。
「ナオト、ご飯できたよ!」
ダイニングキッチンのカウンター越しに、アリッサはいつものように笑う。
朝のワイドショーを眺めながらコーヒーを飲んでいた直人は、涙を拭ってアリッサがテーブルに並べた皿に視線を落とす。
「死ね」
「ゆるさない」
「死ね」
「ゆるさない」
黒こげになった母親と胸につまようじが刺さった娘は、皿の上から何度も訴えかけていた。
(可哀想に。アリッサのやつ、ここまですることないだろ)
文句を言おうと思ったが、緑色のアリッサは赤毛の女冒険者を短剣でなんども突き刺している最中だったので、邪魔をしないことにする。
そんな直人の様子を見ていた大勢の冒険者たちは、嘲るように笑うのだ。
「ほら、これを付けるといいよ」
サライが差し出すマギアは歪に変形していて、紫の炎に包まれていた。
(そんなのつけられるかよ)
仕方が無いので、直人はスロットのレバーを叩いた。
リールに手袋のマークが揃い、出てきたマギアを手にはめる。
「準備はできましたね。では、魔王討伐にお行きなさい」
白い翼を生やした女神はにこりと笑うと、直人を空に突き落とした。
「……お母さん」
* * * * * *
頭を撫でる手の感触で直人はうっすらと瞼を開いたが、まぶしさのあまり再び目を閉じた。
「ごめんアリッサ……もうちょっと寝てるわ……」
「あ、あの。そろそろ起きていただきたいのですが……」
「…………んぅ?」
聞き覚えのある声に今一度寝ぼけ眼を開いてみると、白髪少女の碧眼が直人を覗き込んでいた。
「えと……マリーナ?」
「ミ、ミラーナです!」
「ああ、そうだ。ごめんごめん」
直人が目覚めたのは、ギルドの隅にあるソファーの上だった。
寝ぼけ眼であたりを見渡すと、多くの冒険者たちが酒を飲み交わし、あーだこーだと騒いでいる最中だった。中には酔いつぶれて眠りこけている者もいる。
「やあやあ、お目覚めのようだね。変な時間に寝ると生活バランス崩れるよ?」
「……あれ? サライさんも。どうしたんすか、こんな時間に。ていうか俺はなんで……?」
「おや、まだ寝てるのかい? まぁ、仕方ないか」
飄々とした態度のサライは腕を振り上げ、直人の頬を思い切り引っ叩いた。
その音に気づいているのかいないのか、冒険者たちは相変わらず騒がしく賑わっている。
「――ってぇなぁ! なにすんだよ!?」
「なにって、起こしたあげたんだ。目は覚めたかい?」
「サ、サライさん! 乱暴はやめてくださぃ……ナオトさんも、落ち着いて……」
サライの胸ぐらを乱暴掴む直人、ミラーナは慌てて二人の間に割って入った。
こんな夜更けに呼び出され、つい先程直人の治癒をしたばかりだというのに、ここでまた怪我でもされたら堪らない。
「……なんなんだよ」
ソファーに座り直した直人の頬には、サライの手形がくっきりと浮き出ていた。
ミラーナはすかさず彼の隣へ移動して、その頬に手を当てる。
「……聖なる光よ、此の者を癒やし賜え」
魔力を込めて呪文を唱えると、彼の頬から痛々しい手形は消え去った。
「おや、ミラーナ嬢。余計な手出しは無用だよ。何でもかんでも癒やしてしまうのはアナタの悪い癖だ」
「す、すみません……でも仕事なので」
「じゃあアナタが治すたびに、アタシが彼を引っ叩くとしたら?」
「そ、それは……」
珍しく、サライの口元がニヤけていない。
2人の付き合いはそれなりに長いが、こんな彼女を見るのは久しぶりだ。
「まぁいいや。彼も目が覚めたようだしね」
傷を癒したばかりだというのに、直人の顔は酷く青ざめていた。
自らの衣服を染める真っ赤な血に気づいたようだ。
ミラーナが駆けつけた時、それが彼自身のものだと思い酷く焦ったが、実際に彼が負っていたのは、脹脛に付けられた引っ掻き傷程度くらいのものだった。
「そうだ俺、勝ったんだ。クエスト成功したんだ」
彼のその表情は、決して勝者のものではない。
虚な目で、彼はよろける様に立ち上がった。
「これで50万か。そうか、50万。たったの50万……」
彼になにがあったのか、ミラーナは多少聞いていた。
どうやら、誰もが敬遠していたマダム・ドグラルの依頼に挑んだらしい。
50万Gという報酬は、正規のクエストでは到底お目にかかることのない破格の値段である。
しかし、ほとんどの冒険者がその張り紙を無視していた。
それは、討伐対象がバースティア、猫型の亜人種だったからだ。
亜人種について、様々な意見が有るのは確かだ。彼らは人間とも魔物とも取れる生物であり、種族や個体によっては、人間社会の中に溶け込んでいる物も少なからず存在する。
その時に重要なのが、見た目と知能である。
より人間に近い姿で、より人間に近い頭脳を持った亜人種は、人間社会でも歓迎されるのだ。
しかし、そうで無いものは魔物と変わらない扱いを受けている。当然のように討伐クエストは張り出されるし、誰もが迷わず息の根を止める。
バースティアの見た目は非常に人間に近く、それでいてとても賢い種族である。話す言葉は人間とほぼ共通だ。
特定の拠点を持たず、人前にはほとんど姿を見せない希少性も相まって、裏市場では高値で取引されるなど、亜人種の中でも特に人気が高い種族だ。
それを自らの手で殺めるなど、いくら大金を積まれようが、おいそれと出来ることではない。
サライによれば、直人はバースティアという種族を知らぬまま、今回の依頼を受けてしまったらしい。
そのうえ見事に討伐してしまったというのだから、こんな表情になるのも無理はない。
「報酬って受付に言えば貰えるんすか?」
「そうだね、達成条件を満たした状態でライセンスカードを提示すれば、すぐに報酬が手渡されるようになってるよ」
「達成条件……あ、先代の爪か。あれ……どこだ?」
直人はジャージのポケットや寝ていたソファーの周りを確認するが、それらしいものは見つからない。
「ない……先代の爪が! サライさん、15センチくらいの長い爪、見ませんでしたか!?」
「残念だけど見てないね」
「クソッ! 廃墟に落としてきたんだ! ちょっと俺とってきます!」
「そう焦るんじゃないよ。一先ず受付に報告してからでも遅くは無いさ」
「え、ああ。はい……」
サライに諭され多少落ち着いた様子の直人は、よろよろと受付へと向かった。
その背中に、ミラーナはどうしても罪悪感を覚えてしまう。
「サ、サライさん……言わなくてよかったんですか?」
「ん? なにがだい?」
「な、なにがって……」
あくまでも惚けた様子のサライに、ミラーナは口を噤んだ。
どちらにせよ、遅かれ早かれ知ることにはなるだろうが、直人が不憫で仕方ない。あまりにも可哀想だ。
「はぁ!? どういう事だよ!?」
「お、落ち着いてください! ご説明した通り、このクエストは他の方が達成済みです!」
「いや、だから! なんでだよ!? クラスメイディを討伐したのは俺だぞ!?」
「そうはおっしゃられましても……」
予想通りの展開だ。
周囲の冒険者のことなど気にする素振りもなく、直人は受付嬢に激しく噛み付いている。
「そうだ、今から証拠を持ってくる! 先代の爪だ! だから待ってくれ、もちろん報酬はその後でいいから!」
「で、ですから……」
「あら。小動物が鳴いてると思ったら、マギア君じゃない」
噛み合わない二人の言い合いに、割って入る1人の冒険者がいた。
ドレスの様な鎧を纏う赤毛の女、ミーシャである。
端正な顔立ちと綺麗な声で、彼女は直人を嘲笑う。
「なんだよ……アンタには関係ないだろ!」
「そうかしら? そんなにピーピー鳴かれると折角のワインが台無しなのよ。自分のことでいっぱいいっぱいなのは分かるけど、少しは周りも見ましょうね?」
「なっ……」
気がつくと、ギルド中の視線が直人に向けられていた。どれもこれも彼を馬鹿にした、見下す様な視線である。
直人はその視線から逃げるように、受付嬢を睨みつけた。
「……すみません、あの。落ち着いたんで、整理させてください。俺が受けたクエストは『クラスメイディの討伐』、達成条件は『先代の爪』の回収で合ってますよね……?」
「は、はい……」
「俺はクラスメイディを確かに殺し……討伐しました。先代の爪は現場に残ってるはずなので、今すぐに取りに行ってきます。多分30分もかからないので、それまで待って貰えませんか?」
「いえ、ですから。先程も申し上げました通り……」
「あら。マギアくん、先代の爪が欲しかったの?」
二人の会話にまたもやミーシャが横槍を入れる。
今度はそれを無視し、見向きもしない直人だった。
「それって、これよね?」
しかし、目前に差し出されたそれを見て、思わず声を上げた。
「これだ! クラスメイディが持ってた先代の爪! 俺の、俺の爪だ!」
「あら、そうだったの? じゃあ返すわね」
「いいのか?」
「ええ。人の物なら返さなきゃ。当然でしょ?」
「あ、ありがとう……」
「いいのよ。それと、昨日はごめんなさいね、あんなことをして」
あんなことと言うのは、昨晩直人の足を取り、恥をかかせたことだろう。
まさか謝罪されるなど思っても見なかった直人は、あんぐりと口を開いて固まった。
「ここの伝統なの。見ての通り荒くれ者ばかりだから、どうしても新人にはイタズラしたくなっちゃうのよ。でもみんなでするわけにはいかないから、私が代表者みたいになっちゃってるの。洗礼みたいな物だから、悪く思わないでね?」
「え? そう……だったんすね。なんにしても、ありがとうございます。すげぇ助かりました」
「いいのよ。冒険者は助け合いだから……ね」
直人は嬉々としてそれを受け取ると、受付嬢の眼前に突き出した。
「これです! 先代の爪! 確かにクラスメイディが持ってた物なんです! よかった、これでクエスト達成ですよね?」
「いえ、ナオト様。まずは私の話を聞いてください」
「なんすか? 報酬が貰えるんならなんでもいいっすけど……」
「ですから、その報酬についてです。まずは黙って聞いて頂けますか?」
「……はい」
受付嬢は直人が聞く体勢に入ったことを確認し、1つ咳払いをした。
そして直人の両目を見つめ、報酬の話を始めた。
「誠に残念ではございますが、討伐クエスト『盗賊バースティア《クラスメイディ》の討伐』は、既に他の方が達成済みです。その時点でこちらのクエストは登録から削除されています。2度目以降の報酬受け渡しはございません。それをご理解ください」
「……えっと? つまり、どういう?」
「わかりやすく言えば、『早い者勝ち』ということです。あなたより先に、先代の爪を回収した冒険者がいらっしゃいましたので、報酬はその方にお渡ししました。分け前の交渉などは私共の業務範囲外となりますので、ご自身でお願い致します。説明は以上です」
直人もやっと、受付嬢の言うことが理解できた。
クラスメイディを討伐したのは間違いなく自分である。だが、その爪を持ち帰り、報酬を受け取った者がいるのだ。
戦闘の後、気絶し、意識が失われていたその間に、何者かが。
「あらあら、その爪じゃお小遣いは貰えなかったの? 可哀想だからこの2つもプレゼントするわ」
そう言って、ミーシャは2本の爪を直人に差し出した。
恐る恐る受け取ると、それらは似ているようで、長さも形も色も、微妙に異なるものだった。
「ひとつは子供のバースティアの懐にあった爪、もうひとつは、子供のバースティアの爪よ。どれが先代の爪かわからなかったから、一通り持ってきてたの」
先代の爪と、バースティアの爪、そして名も知らぬ子供の爪。
3本の爪を握りしめ、直人の身体は震えていた。
「お礼はいいわよ? そんな汚いの、すぐに捨てるつもりだったから」
「……てめぇ」
恐怖、怒り、悲しみ、悔しさ。
直人の身体はこれ以上なく震え上がった。
「てめぇが、報酬を横取りしたのか?」
「横取りって、聞き捨てならないわね。私はただ、冒険者としてクエストをこなしただけよ」
「てめぇは、あの子から……子供のバースティアから爪を剥いだのか?」
「ええ、もちろん心は痛んだけれど。念のために頂いてきたわ」
ミーシャは俯く直人の顔を覗き込み、ニコリと笑ってこう言った。
「誰かさんに剣で刺し殺された、小汚いバースティアの死体からね」
その瞬間直人の中で、何かが千切れる音がした。
この女だけは許せない。
この女……この女だけは。
「殺す」
直人は握りしめた3本の爪を、ミーシャの顔面目掛けて突き出した。
油断していたミーシャは反応が遅れてしまい、その全てをかわし切ることができなかった。
「あ、あああ」
3本のうち最も短い1本が、彼女頬を貫通した。
「サ、サライさん!」
「はいはい」
静寂に包まれ、時間が停止したかのようなギルドの中で、サライだけが走り出していた。
「止まれ。2人とも動くんじゃない。動いたら殺すから」
彼女は目にも止まらぬ速さで、装飾過剰な2本のダガーをそれぞれの首元に添えていた、
「キミ、爪から手を離すんだ今すぐに」
「嫌だ。俺はこの女を殺す」
直人の眼は本気だ。
それを疑う余地はない。
「あのねぇ、復讐のつもりかもしれないけど、そんな立派なものじゃない。キミがやってるのはただの八つ当たりだよ」
「うるさい。こいつは……こいつは!」
「黙りな。正直キミにはガッカリしてるんだ」
普段の彼女からは想像も出来ない冷たい口調に、直人は息を呑んだ。
前髪の隙間から覗く紅い瞳は、背筋が凍るほど恐ろしい。
「色々とアドバイスしたよね? それなのに、キミは今回5つのミスをした。反対を押し切ってあのクエストを受けた事。彼女の尾行に気づきもしなかった事。逃げれば良かったものを、戦闘を始めてしまった事。抜くなと言いつけた付け焼き刃の剣で対象外の子供まで殺した事。そこまでしたのに呑気に昼寝なんかして、大切な獲物を奪われた事。どれもこれも冒険者としては致命的だよ」
突き放す様な物言いに、直人は少なからず傷ついた。
だがそれ以上に、彼女対する怒りが沸々と音を立てて湧き上がる。
「じゃ、じゃあ、なんでもっと強く引き止めてくれなかったんだ!? バースティアが何なのか知ってれば、俺だって素直に引き下がったさ! この女の尾行も、知ってりゃ対応出来たかもしれないだろ! それに好きで戦った訳じゃない、俺は話し合おうとしたんだ! なのにクラスメイディが襲いかかってきたんだ! 殺されるところだったんだぞ! あの子だって、魔法が使えてりゃ威嚇だけで済んだはずなんだよ! なのに、アンタに渡されたマギアは一発でお釈迦だ! 見ろよ! こんな不良品掴ませやがって……! そもそもなぁ、アンタらが無理矢理俺を冒険者に仕立て上げたんだろ!? こんな事になったのは、全部アンタが原因なんだよッ!」
静まり返ったギルドの中に、彼の叫びが轟いた。
嘘偽りのない心からの叫びである。
だが黙って聞き終えたサライは、眉のひとつも動かさず、ただ鼻で笑うのだ。
「あのさぁ。アタシはキミのママじゃないんだよ。先生でも師匠でもない。言ったよね? アタシはただの情報屋。これ以上話しても時間の無駄だ。これが最後のアドバイス、今すぐ爪から手を離せ」
「……クソ」
今の直人に、それ以上反発する気力は残っていない。
歯を食いしばり、苦虫を噛み潰した様な表情で、ゆっくりと爪を手放した。
「なんなんだよ……ふざけんじゃねぇよ……」
そしてあまりの悔しさに、嗚咽を上げて泣き崩れてしまう。
「うん、賢明な判断だ。たかが50万で人殺しなんて割に合わないからね」
言いながら、サライはミーシャの頬を貫通した鋭利な爪を乱暴に引き抜いた。
真っ直ぐ引き抜かなかったせいで、1センチ程度だった傷は倍近くに広がった。
「あぎゃっ」
「ははっ。畜生の鳴き声みたいだよ? どうしたんだいミーシャ嬢。美しいキミらしくもない」
依然として首筋にダガーを押し付けられたままのミーシャは、涙と唾液、頬から溢れる血液で顔をぐしゃぐしゃにしたまま、サライを睨みつける。
「まぁ、彼に比べてキミの行動は正しかったよ。方法はどうであれ、本来見つけることすら叶わなかったバースティアの寝床を見つけた。無駄な戦闘を避けて、目的の爪を手に入れた。冒険者としては上出来だね。けどさぁ、キミはもうちょっと身の程を弁えた方がいい。こんな場末のギルドでお山の大将気取りは正直痛々しいよ? 頬の傷はそのツケだ。自分の力量を見誤るのは冒険者として落第点だね」
サライがダガーを外してやると、ミーシャは3歩後退りして、その場にへたり込んだ。
「あ、あなひゃ、なにがいいひゃいのよ!? あぐっ! い、いだい!」
頬の傷口を抑え、回らない呂律で怒鳴るミーシャの赤毛を、サライは乱暴に鷲掴みにした。
「わからなかった? 調子に乗んなつってんの」
「や、は、はなひて!」
「え〜。どうしよっかなぁ?」
「……サライさん、その辺でやめてください」
誰もが傍観に徹するなかで唯一、ミラーナだけが彼女を制した。
サライは大きな溜息をついて、ミーシャの赤髪から手を離す。
「キミ、ミラーナ嬢に感謝しなよ? また同じようなことがあったら、冒険者を続けられなくしてやるからね」
「サ、サライさん! いい加減にしてください!」
「わかったわかった。アナタを敵に回すほど馬鹿じゃないって」
サライはまた大きな溜息をついて、脇目も振らず飲食物提供カウンターへ向かった。
散々な目にあった直人は元より、ミーシャもかなり疲弊してしまっている。
サライが怒るといつもこうだ。
手当たり次第に、怒りの対象を叩きのめす。
ミラーナが止めなければ、ミーシャの美しい赤髪を一房刈り取るくらいの所業は簡単にやってのけただろう。
オーディエンスに飛び火しなかったのも、不幸中の幸いだ。
「ミ、ミラーニャ……このきず、なおひてくれないかしら」
血を流しながら、涙ぐんだミーシャは弱々しく治癒を懇願する。
普段のミラーナであれば、そんな傷は頼まれる前に治療している事だろう。
だが、膝を抱えて嗚咽を漏らす直人の姿が、彼女に躊躇をもたらした。
『何でもかんでも癒してしまうのは、アナタの悪い癖だ』
つい数分前に言われたことだ。
こんな傷を治癒するなど、ミラーナにとっては造作もない。
ものの数秒で痕も残さず完治させることが出来る。
だが、その傷を付けた彼の思いは何処へ行くのだろうか。
その傷を付けられた彼女の過ちは、傷とともに消え去るのだろうか。
身体の傷は治せても、心の傷はどうにも出来ない。
彼は大金を手にしようとして心に傷を負い、手に入れかけた大金を彼女に奪われた。
彼女は大金を奪い、彼の心を抉ったことで、身体に大きな傷を付けられた。
傷を癒す。
これまで当たり前にしてきた事に、ミラーナは初めて疑いの目を向けていた。
「……ごめんなさいミーシャさん。その傷は治しません」
「へ……? な、なんで……?」
「たぶん、それは貴女が負うべくして負った傷だから……という答えでは納得できないでしょうか?」
「…………っ」
ミーシャは何も答えることが出来ず、唖然としたまま固まった。
そこへ、ふたつのジョッキを手にしたサライが上機嫌な様子で戻ってきた。
「お、傷の治癒は断ったみたいだね。よかったよかった。もしも治してたら、今度はアタシのダガーが突き刺さるところだったよ」
「も、もう! サライさん!」
「軽い冗談さ」
十中八九、冗談ではなかっただろう。
ミラーナが何度癒そうと、その度にサライが傷つける。その光景は容易に想像ができた。
「そんなことより、ミラーナ嬢も一杯どうだい? 珍しく無料でサービスしてくれるっていうから、アナタの分も貰ってきたんだ。こんな湿った連中は放っておいて、たまには女子らしく、恋バナにでも花を咲かせようじゃないか」
もはや無関係とは言い切れない、酷く傷ついてしまった2人の冒険者。
そんな彼らを横目で見ながら、ミラーナは差し出されたジョッキを受け取るのだった。




