14.情報屋の荒療治
直人が見つけたのは、小学生か中学生くらいの可愛らしい少女だった。
彼女は艶やかなアッシュゴールドの髪を腰まで伸ばし、淡いピンクのパジャマを着ている。
胸の上で手を組んだ姿勢の良い寝姿は、童話のお姫様を連想させた。
「おーい、起きてくれ」
気持ち良さそうに寝ている少女を起こすのは気が引けたが、無害そうな彼女の姿に安心した直人は声をかけた。
しかし、彼女は起きる気配がない。
「おーい! おはよー!」
クソヒモパチンカスなりに必死に声を張るが、しかし少女は起きるどころか、ぴくりとも動かない。
その様子に、直人は顔を引き攣らせた。
「寝てるんだよな……? お、おい!」
直人は身を乗り出し、声を張り上げながら少女の肩を揺するが、少女が目を覚ます気配はない。
「お、落ち着け、体温は……ある」
胸の前に置かれた手の甲に触れると、しっかりと体温を感じることが出来た。
さらに、鼻先へ耳を近づけると静かに寝息を立てている。
「ビビった……いくらなんでも熟睡しすぎだろ……ん、なんだこれ?」
呆れつつも胸を撫で下ろした直人は、ふと少女の腹部に不思議な物を見つけた。
その大部分が下穿きに隠れているため全貌は確認できないが、彼女を揺らした際に上着がずれて露出した臍の下に、紫色の紋章らしき物が見切れているのだ。
「……ガキのくせにタトゥか。異文化って怖いわぁ」
直人は態とらしく呆れたように呟いた。
そして証拠を隠滅するように少女のパジャマを整えると、彼女の顔をまじまじと見つめる。
「……どっかで見たような、見てないような……?」
「あら、起きたのね」
「うおっ! って、うわぁあああ!」
カルチャーショックに慄きつつ、崩してしまったパジャマを整えていた直人は、不意に扉を開けた女に思わず叫び声を上げた。
彼女が突然現れて驚いたのもある。
だがそれ以上に、その女がバスタオル1枚で現れたのだから、驚かないわけもないのだ。
肉付きのいい太ももと、くびれた腰、そして何より、バスタオルから溢れんばかりのおっぱいに、直人の熱い眼差しは釘付けなのである!
「あばばばば」
「…………?」
叫びながらもガン見する直人に女は首を傾げていたが、やがてその原因が自分の格好にあると気づいたらしく、「まぁ私ったら。ごめんなさいね」と、無表情なまま扉を閉めた。
カルチャーショック最高!
などと全力でガッツポーズをしてもおかしくない場面だ。
しかし彼はどこか浮かない様子で溜息をついた。
それは彼女が、直人に緑の魔石を渡した女だったからだ。
「やっぱり、夢じゃないよな……」
誰にでもなく呟いて、少女が眠る対面のソファーに腰を下ろした。
出来ることなら、もう一度眠ってしまいたい。
叶うのなら、楽しい夢の中に浸っていたい。
直人は現実から逃げ出したい一心で瞼を閉じたが、眠りに落ちる前に、小綺麗な半袖のブラウスと灰色のロングスカート姿の女が戻ってきた。
その格好もなかなか魅力的だが、ガン見するような気分にもなれなかった。
「あ、あの」
「今お茶を淹れるから、座っててちょうだい」
「……はい」
女はリビングの隅にあるキッチンへ行くと、銀のポットに蛇口から水を汲み、引き出しから取り出した赤い魔石をその中に落とした。
「ササキくん」
「は、はい」
久しぶりに苗字で呼ばれ、直人は思わず背筋を伸ばした。
女は茶葉やカップを用意しながら、横目で直人を一瞥する。
「ナオトくん」
「はい……?」
「ササキナオトくん」
「な、なんすか?」
「珍しい響きだと思ったのよ。ササキが名前でナオトが苗字かしら?」
「あぁ、いえ。ササキが苗字でナオトが名前です」
「そうなのね。なら、ナオトくんって呼んでも?」
「それはもちろん……というか、なんで俺の名前を?」
「ギルドカードを見せて貰ったのよ。勝手にごめんなさいね」
「別に謝るような事じゃ……あ、お姉さんは?」
「私はイリス・フェルトよ。イリスが名前でフェルトが苗字」
「じゃあ、イリスさん……で、いいですか?」
「もちろん」
無難な呼び方をしたナオトの前にイリスは紅茶の入ったカップを置くと、一人がけのソファに腰掛けた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
その紅茶はとても良い香りがして、仄かに甘い。
「お口に合うかしら」
「はい。めっちゃ美味いです」
「良かったわ」
この世界に来てから雑草ティーしか飲んだことがない直人にとって、その紅茶は本当に美味しくて、温かかった。
「そ、それにしても、お湯が沸くのすげぇ早かったっすね」
「ええ、そういう魔石を使ったから。気になる?」
「あ、はい」
沈黙に耐えきれず適当な質問すると、イリスは席を立ち、キッチンの引き出しから一粒の赤い魔石を持ってきた。
「これは収魔石と増魔石を加工した物よ。火炎の魔力が高熱を放出する仕組みなの。まだ試作段階だから少し危ないけれどね」
「へぇ……よくわかんないけど、綺麗ですね」
「綺麗?」
イリスは摘んだ魔石をまじまじと見つめた。
「……そうね。確かに綺麗だわ」
「えっと……見た目は気にしてなかったんですか?」
「ええ。そういう物じゃないもの」
「なるほど……あ、それ」
興味深そうに魔石を観察するイリスの腕が少し上がった時、わずかに落ちた袖から覗く二の腕に、直人は既視感のある紋章を発見した。
「……? なにかしら?」
「イリスさんの腕のそれ、その子ーー妹さん? の腹にも似たようなのがあったの見ちゃって」
「あら、妹だなんてお上手ね。私は今年で44歳よ」
「44!?」
衝撃の言葉に思わず叫んだ直人は、寝ている少女の存在を思い出し、咄嗟に片手で口を塞いだ。
とは言え、どう厳しく見ても20代としか思えない外見に直人が驚くのも無理はないだろう。
「じゃあ娘さん? なんにしても、40代には見えませんよ。あれですね、美魔女ってやつーー」
その瞬間、直人の視界に幾つかの蒼白い魔石が煌めいた。
そしてそれは瞬く間に輝きを放ち、ソファごと直人を囲む分厚い氷の結界を作り出す。
「――っ! イリスさん!? なんだよこれ!?」
「どこまで知っているの?」
「はぁ!?」
氷越しでくぐもったイリスの声に怒鳴ったが、彼女は相変わらず無表情のまま、氷を殴る直人を見据えた。
「招いておいて申し訳ないけれど、私を『魔女』だと知っている人間を、ただで返す訳にはいかないわ」
無表情だが、氷のように冷たいその視線。
直人は思わず息を呑んだ。
その眼差しがどことなく、クラスメイディに似ていたから。
* * * * * *
「は、離して!」
無人の訓練場にミーシャの情けない声が響く。
ギルドの地下に位置するテニスコートほどの広さの空間は、石造りの壁に備えられたランプの灯りでぼんやりと薄暗い。
「離しなさいよっ! このっ!」
美しい赤毛の長髪をサライに鷲掴みにされ、人形のように易々と引き摺られるミーシャの姿は誰の目にも滑稽に映るだろう。
先程サライに殴られた頬は腫れ上がり、歯の折れた口元からは血を流し、片足だけ鎧を脱いだことも相まって、暴漢にでも襲われたかのような様相である。
「や、やめて! やめなさいよっ!」
「うるさいなぁ」
「あっ――」
ミーシャの耳にプチプチと髪が抜ける音が聞こえ、次の瞬間には板張りの床に放り投げられていた。
「ぐっ……」
ギギギ――と、立て付けが悪く重い扉が閉まる音がして、顔を上げたミーシャの目には、その不気味に輝く赤い瞳で彼女を見下すサライが映し出されていた。
「おや? どうしたんだいミーシャ嬢。そんなに怯えた目で見ないで欲しいな」
「お、怯えてなんかないわよ!」
すくむ脚でなんとか立ち上がり、精一杯の睨みを利かせるミーシャだが、サライはそんな彼女を鼻で笑う。
「キミはどうしてそんなに愚かなんだい? ついこの前、忠告したばかりじゃないか」
「だ、黙りなさいよ……! Dランクの分際で……Bランクの上級戦士である私に偉そうな口を利かないで!」
「あはっ! そうくるかぁ。まぁいい、この際だからハッキリさせておこうかな」
サライは嫌味たらしく口元に笑みを浮かべると、かかって来いと言わんばかりにハンドサインを見せつける。
「……舐めるな、薄汚い蝙蝠がっ!」
ミーシャはサライの強さの秘訣を知っていた。
それは彼女が持つ一対のダガー『魔刃ヘリオス』と『魔刃セレーネ』である。
一見すると装飾が過剰な宝石まみれの観賞用だが、その実、精密な設計で大量の魔石が施されており、本来魔法として中距離から遠距離で威力を発揮する『魔力』を接近戦に転用可能とした代物だ。
しかし今、彼女の手に魔刃は無い。
そして二人の距離は約2メートル。
剣技のみならず、徒手空拳の鍛錬を積み重ねてきたミーシャにとって、最も得意と言える間合いである。
「くたばりなさいよぉっ!」
ミーシャは即座に重心を低く構え、しなやかな筋肉がもたらす全身のバネを用いて一瞬の間にサライへ接近した。
そして勢いをそのままに、最小限に振りかざした鉄拳で、いけ好かない黒ずくめの女の腹部を殴打する――はずだった。
「荒れ狂え疾風」
「――ッ!」
しかし、安定していたはずの重心が、一瞬のうちに崩れ去る。
下方から叩きつけられた強風によって仰け反った身体は跳ね上がり、なすすべなく吹き飛ばされていた。
「くっ――」
「凍てつけ氷華」
なんとか空中で体勢を立て直し、宙返りをしながら着地したミーシャだが、次の瞬間、目前に大量の氷塊が迫っていることに気づく。
反射的に左方向へ転がり回避すると、数メートル後方の石壁から激しい炸裂音が響き渡った。
「轟け雷鳴」
「――サライッ! がっ!」
相対する女の名を叫んだ直後、目の眩むような閃光が走り、ミーシャの身体は雷に打たれたかのような衝撃に襲われる。
いや、実際に打たれていた。
体勢こそ保てているが、全身の筋肉が痙攣し、まともに身動きが取れないミーシャは、ただサライに殺気を向けることしかできない。
「どうしたんだいミーシャ嬢? 詠唱はもう終わっているよ」
「サァライ――ッ!」
ミーシャが叫ぶと同時に、彼女の周囲を火柱が包んだ。
「あっ……あぁ……」
呼吸する度に肺が燃えそうなほどの熱量に、意識と視界が揺らいでいく。
火を見るより明らかな力量差を目の当たりにし、ミーシャの耳には、自身の心が折れる音がハッキリと聞こえていた。
「流れよ泡沫」
「…………っ」
そして、桶をひっくり返したかのような水流によって炎は消滅し、意識の覚醒と共に全身の熱が引いていく。
「はぁ、やれやれ。どうしたものかな」
態とらしく、呆れたように、茫然自失のミーシャに対してサライは溜息をついた。
「弱いよ、弱すぎる。控えめに言っても雑魚だ。想像以上――いや、予想を遥かに下回ってるよ。これが仮にも上級冒険者だなんて聞いて呆れるね。っていうかキミ、私以外の魔導士と手合わせしたことはあるかい? いや、答えなくていい。ないでしょ。魔法をまともに扱える――そうだね、例えばCランクの魔導士と戦ったらまず間違いなくキミは勝てない。魔法を使えないハンデはそれほど大きいんだよね」
一方的に言葉を投げかけるサライに、ミーシャは殺気を向ける気力すら残っていない。
ただ、ぽつりと、言葉が口をついて出る。
「…………から」
「ん? なにかな?」
聞き返したサライにミーシャは目を向けることもなく、へたり込んだまま床の一点を見つめ、こう答えた。
「剣……剣がなかったから……」
「ああ、うん、そうだね」
サライは欠伸をしながら軽く背伸びして、背後の重い扉を開く。
「まぁ、今回はミラーナを呼んであげる。それと、もし強くなりたいなら良い話があるから、今度声をかけてよ」
「…………」
「じゃ、またね」
ミーシャは黙りこくったまま、訓練場を後にするサライの後ろ姿を呆然と眺めていた。
* * * * * *
「ただいまー!」
午後、メアリは学校から帰るなり、実家である宿屋の受付カウンターに入り込んだ。
「おかえりなさい。お手伝いしてくれるの?」
「しなーい」
受付で店番をしている母の言葉に相槌を打ち、カウンターの内側にある鍵置場を確認すると、「わっ!」と嬉しそうな声を上げる。
「おねぇちゃん帰ってきてる!」
ミーシャが長期滞在している201号室の鍵が無いことを確認し、メアリはカウンターを飛び出した。
今朝、ミーシャに魔法を教えて貰うと約束してから、ずっと期待に胸を膨らませていたのだ。
「ミーシャさん疲れてそうだったから、お休みの邪魔しちゃダメよー」
「じゃまじゃないもーん」
メアリは頭の大きなリボンを揺らしながらドタバタと階段を駆け上がり、花柄のマギアを装着している右手をギュッと握ると、201号室の扉をノックする。
「おねぇちゃーん! ただいまー!」
少しの間反応を待つが、部屋に居るはずのミーシャから返答はない。
「あれ? 寝ちゃったのかな?」
ミーシャは疲れていると母が言っていたのを思い出したメアリは、何の気なしに、木製の扉へ耳を当てた。
楽しみにしていた分、何もせずに立ち去るのが嫌だったのかもしれない。
「…………っ」
「おねぇちゃん?」
薄い扉越しに、確かな気配を感じた。
最初は寝息でも立てているのかと思ったメアリだったが、すぐに間違いであることに気づく。
「泣いてるの……?」
ミーシャのすすり泣く声が確かに聞こえていた。
凛とした美しい彼女しか見たことがないメアリにとって、それは酷く衝撃的な出来事である。
メアリは居ても立っても居られなくなり、咄嗟にドアノブに手を掛けていた。
「おねぇちゃん、入るね」
不用心にも鍵は開かれていた。
普段からそうなのか、今日に限ってのことなのか。
少なくとも乱雑に脱ぎ捨てられた鎧は、普段の彼女からは考えられないものである。
カーテンは閉め切られ、薄暗い6畳の部屋の片隅。
上等とは言い難いベッドの上で、彼女は枕に顔を埋めて息を殺していた。
「おねぇちゃん……」
メアリはミーシャと目線を合わせるようにベッドの横に膝を付き、静かに震える彼女の頭を小さな手のひらでそっと撫でた。
すると、ミーシャの体がぴくりと跳ねるが、メアリは構わず撫で続けた。
「どこかいたいの?」
その問いにミーシャは口を噤んだままだったが、僅かに首を横に振る。
「誰かにいじわるされた?」
続けてそう訊くと相変わらず声を押し殺したまま、今度は否定も肯定もしない。
目を逸らしたくなるほど気の毒な姿を前にして、メアリの表情にも不安の色がさしていく。
「……大丈夫だよ。大丈夫」
自身の不安が伝わらないように、出来るだけゆっくりと、穏やかに、優しく、ミーシャの耳元で囁いた。
「おねぇちゃんが頑張ってること、メアリ知ってるよ。だからね、おねぇちゃんなら大丈夫」
その言葉にミーシャは伏せていた顔をあげた。
部屋が暗さが手伝って彼女の表情ははっきり見えなかったが、抑えていた泣き声が次第に大きくなっていく。
ダムが決壊したように――という表現がこれほど適した状況もないだろう。
何も言わずメアリは両の手を広げ、ミーシャの頭を包み込む。
「よぉし、よぉし。メアリがいるからね」
プライドが高く傲慢。
目に付くもの全てを見下すことで自己を確かめていたこの女も、今ばかりは弱さを曝け出し、小さな胸の中で泣きじゃくっている。
「おねぇちゃん、大好き」
折れた心を繋ぐように、真っ直ぐな少女の言葉が染み渡る。
暗い部屋の中、ミーシャは一つの光を見つけた。
そんな気がしていた。