12.
自由。
吹く潮風にマリアンヌは「うーんっ!」と伸びをする。
奴隷の身分ではない朝なんて、もう数年ぶりである。
悠久の時を生きる長命種エルフであるマリアンヌにとって、数年などというのは大した時間ではないけれど毎日毎日殴られては脅される日々はおもしろくないものだった。
太古のエルフたちのように、強大な魔法を難なく使役することができるならば、奴隷という身分に身をやつすことはなかったかもしれない。
運悪くドラゴンに燃やされてしまった村。
現れた人さらい。
長らく森の奥深くで安寧に暮らしていたマリアンヌたちは立ち向かう術がなかった。
もう、どうでもいいと思って。
それで、「主人が死ぬまで、このままでいい」なんて。
そう思って、奴隷として、這いつくばって生きてきたけれど。
「イゾ―さまか……」
珍妙な服に、珍妙な言葉。
旨いものを食べているときの柔らかい表情。
冒険者だか料理人だかわからないあの人は、不思議な人だった――
「よし、私も頑張って……」
平穏な生活を手にしよう。
マリアンヌがそう決意して、一歩を踏み出そうとした、そのときだった。
「うわああ、やめてくれ!!」
絶叫が聞こえた。
「……?」
「いかんち言うとるじゃろ! それはっ、わしのぜよおお!!!」
珍妙な言葉。
「イゾーさま?」
声の方向に目を向ける。
黒山の人だかりだ。
マリアンヌは、ぽてぽてとそちらに歩いていく。
人をかき分けて、皆が見ているものを確認すると。
「それはわしの命ぜよっ! ひったくりなんちゅう乱暴なことせんでつかあさいっ!」
それは、小汚いひったくりの男の脚にすがりついている――もっと小汚い男だった。
以蔵と同じ服装に、同じような言葉。
黒い服には、紋章のようなものがいくつかついている。
ほわほわと跳ねている髪が、大の男であろうに幼い印象をふりまく。
(イゾ―さまのお仲間かしら?)
マリアンヌはこてん、と首をかしげる。
ならば、以蔵に助けられたぶん彼を助けてあげるというのも――なかなか面白いことだろう。
「あのうっ!」
と。
マリアンヌは声を上げた。
***
「やあ、助かった助かった! あの場を丸くおさめちゅうんじゃから、たしたもんぜよ! おおきに、お嬢ちゃん」
にこにこと笑う男は陽気で、以蔵とは全く違うタイプの人間であることがわかる。
手には武器を大事に抱いている。
さきほど、ひったくりに持ち去られようとしていたものだった。
「いえ、それほどでも。その剣、そんなに大事なものなのですね」
「うん。これはの、陸奥守吉行――わしの大事なもんじゃ」
「ヨシユキ?」
「おん」
「あなたは、ヨシユキさんとおっしゃるのですか?」
こて、と首をかしげるマリアンヌに男はガハハと大笑いをした。
「いや、いや! 違うよ。わしの名前は……」
言って、男は黙ってしまった。
名乗れない事情があるのだろうか、とマリアンヌはいぶかしむ。
「梅。俺の名前は梅ぜ」
「ウメさま」
「うっはっは、『さま』はやめとおせ。むず痒いちゃ!」
「ウメさん?」
「うん、それがえいね」
ウメは笑った。
やはりなんとなく雰囲気が似ている。
マリアンヌは、恐る恐る尋ねてみる。
「あの、ウメさん。私の恩人なのですが……イゾ―さまという方をご存じありませんか?」
「ふぁっ!!?」
以蔵の名前に、ウメと名乗った男は素っ頓狂な声を上げた。
「いぞう、以蔵って、土佐江ノ口村の岡田以蔵かえ!? おんし、以蔵さんを知っちょるがか!?」
「あ、はい。昨日お別れしたばかりで」
「この近くにおるがかっ!!」
はわわ、とウメは指をくわえる。
「こ、こうしちゃおれん! 以蔵さんを探しにいくっ!」
慌てて立ち上がるウメに、マリアンヌは声をかける。
どうにもそそっかしそうな男だし、おそらくトラブルメーカーだろうが。
長い長いエルフ生、ちょっと揉め事に首を突っ込むのも悪くはない。
「あの、私もご一緒しましょうか。案内人くらいにはなりましょう」
「お、おう。そいたぁ助かる」
ウメは言う。
「なんせ、俺もさすがに――」
照れくさそうに笑って。
「――出島は初めてじゃき!」
と、快活に笑った。
***
一方そのころ、先に旅立って街道に出た岡田以蔵は。
「天厨ーーーーーッ!!」
以蔵の一刀が閃き、周囲の旅人たちが沸き立つ。
「うおおお、すごいなこの兄ちゃん! あの怪鳥ウバメドゥリを一刀両断したぞっ!!!」
「名高い冒険者に違いないっ!」
「すげえええ!!! つえええええ!!!」
すたん、と着地する以蔵。
直後、怪鳥ウバメドゥリが地に堕ちる。
――チン、と軽快な音とともに、食材ならば何でも斬れる妖刀【天厨】を納刀する。
そして静かに、以蔵は言った。
「……よっしゃ、今夜は軍鶏鍋ぜよッ!!!」
ウメ……君の名は……。
陸奥守吉行を持っていて、土佐弁を喋り、ウメを名乗る男……一体何者なんだ……っ!!