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短編

真っ赤な月と紅い華

作者: 鶴形怜

 ゆらゆら。

 眠りと覚醒の狭間で私は夢を見ていた。夢だとはっきり分かる夢を。


「今夜は月が綺麗ですね」


 響く声は、低く空気を震わせて私の頬を撫でる。その心地よさに瞳を開くと、うつくしい人がそこにいた。

 容姿だけでなく、その心根までもがうつくしい人。この時はそんなことは知る由もなかったから、ただ不思議な男だと思った。


 私は記憶の波間を漂っていた。これは、彼と出会ったときの記憶。


 ちょうどその夜は気味が悪いくらい真っ赤な満月が夜空にぽっかりと浮かんでいた。湖にもその血のような色の円盤が歪んだ形に映っている。

 私の国では、『月が綺麗ですね』は違った意味も持つ。彼はそれを知らないようだった。


「ええ、とても」


 私は冷静に言葉を返した。唐突に話しかけられた初対面の男の顔を、私は知っていた。彼はあまりにも有名だった。

 そして私は真っ赤な月を見上げた。彼も、私と同じように月を見上げた。どちらももう喋る事もなく、ただただ視線を月に投げかけるのみ。

 二人並んで月を見上げたのが、彼との最初の思い出だった。


 私はまだ記憶の波に揺られていた。


 次に辿り着いた記憶は、次の満月の夜だった。

 やはりその日も不気味なほど真っ赤な月夜だった。自分の忌み嫌われる赤い瞳のようで私はその月を睨みつける。しかし、ざわつく胸を抱えながら引き寄せられるように湖へ行くと、前と同じように彼がいた。


「また、会いましたね」

「ええ」

「今日も、月が綺麗ですね」

「そうですね」


 彼は私に微笑みかけた。うつくしい微笑みは、私のざわついた心を静めていく。


「なぜ、あなたはここへ?」

「さぁ……なぜでしょうね。この湖に、真っ赤な月が映り込んでいるのを、ただ見たかっただけなのかもしれない」


 心底よく分からない、といった表情で彼は言った。その横顔を月明かりが照らしている。

 彼の紺色の瞳がこちらを見ていた。暗いこの場所ではその瞳の色はより一層濃く見える。


「では、あなたは?」

「私は……私も、よく分かりません。こんな月の色は嫌いなはずなのに」

「嫌いなんですか」

「ええ、嫌いです。自分の瞳の色みたいで」


 月を見ていた私の顔に影が落ちた。

 正面から私の顔を見つめる彼の瞳に、私は釘付けにされて息を呑んだ。しかし一瞬で平静を取り戻し、普段と変わらぬ鋭い視線で彼を見返した。


「美しい色をしている。なぜ嫌うのか俺には分からないな」

「この瞳の色が忌み嫌われるものだってことを知らないんですね。不吉な色なのよ、赤っていうのは」

「さあ、そんな話は知らないな。俺は美しいものは美しいと言うまでだ」

「変わった人ですね」


 思わず私は笑った。彼も私が笑ったのを見て、そのうつくしい唇の端を持ち上げた。

 しかしそれは一瞬のことで、彼はすぐに眉をひそめる。


「君は、その瞳の色で嫌な思いをしたのか」

「そうね。私はもともと捨て子だから。初めはなぜ捨てられたか分からなかったけれど、周りの反応を見ていれば分かるわ。瞳の色が原因だってね」


 捨て子だった私。物心ついたころから他人の悪意に晒され続けた私は、どこか歪んでいるという自覚がある。

 彼はため息をついた。


「そんなことをする人間もいるのだな。俺の生まれは、貴族なんだ。だから生まれた時から周りを全て綺麗なもので固められていた。君の境遇を理解することは難しいのかもしれない。だが、俺の周りも綺麗すぎて吐き気がするんだ」

「何故? 私のように汚いものしか見てこなかった人間にはあなたの状況は十分羨むべきものだけれど」

「はは。俺の立場になってみれば分かるさ。周囲は権力に飢えた者ばかりだ。誰も信用できない。善意の皮を被った悪意にいつも晒されている。綺麗なのは上辺だけなんだ。息苦しくて仕方がない」


 苦しげな表情を浮かべる彼に、私はそっと手を伸ばした。なぜそうしたのかは私にも分からなかった。少し警戒したようにこちらを見た彼も、特に危害を加える気がないのを感じ取ったのか動かずにいる。その頬に私は指先を触れた。冷たい頬だった。



 次の満月の日も。その次の満月も。真っ赤な月が映り込む湖で彼と私は逢瀬を続けた。

 「月が綺麗ですね」と始まり、ただ話すだけ。その時は私も自分と彼の身分や立場なんて忘れて楽しんだ。

 彼の理想を聞き、苦悩を聞き。他愛もない話をして。そして笑いあった。

 そう、楽しかった。ただ話すだけだったのに。

 満月の日を待ちわびている自分に気付いたのはいつだろうか。

 私は、その間も――人を殺め続けた。それしかできなかったから。私にできることは、人を殺めることだけ。敵兵を減らし続けることだけ。それ以上の価値なんて、私には無かった。


 だから、彼のことなんて隙を見て殺してしまえば良かったのだ。



 そんなこと、出会った時から分かっていた。分かっていたのに。



 微睡みから私を引き戻そうとするのは、体の側面に感じる固い石の感触だった。手首に食い込む縄の痛みが更に私を覚醒へと追い立てる。

 心地よい微睡みから身を引き上げて目を開けると、暗い石造りの部屋を隔てる鉄の棒が見えた。地下牢の天井近くにある細い窓からは、あの日も見た真っ赤な月が顔を覗かせていた。

 そうだ。何人もの兵を葬り去った私は、ついに捕らえられたのだった。過去の優しい記憶に溶かされそうになっていた現状が私の中に戻ってくる。



 思い出した。今日は最後の満月の夜だった。彼と私の記憶の、終わりの日。

 私と彼はいつも通りに話をしていた。ただそれだけで楽しかった。そこに闖入者が現れるまでは。

 現れたのは、敵国の男のようだった。


「王子? どこですか?」


 思ったより近くから発せられたその声を聞いて、彼は私を地面へ押し倒した。今まで彼に感じたことの無い、乱暴なまでの男の力強さだった。

 紺の瞳が氷よりも冷たい色を放っていて、柄にも無く私は動揺した。

 そして私は悟ったのだ。――もう、終わりなんだと。

 彼との逢瀬は、もう終わりだ。私と彼とを繋いでいた糸は、こんなにも儚くあっさりと切れてしまうのだ。

 その事実に、私は自分で思っていたよりも心を揺さぶられた。徐々に冷えていく指先が、何かを掴むようにわずかに縮こめられる。

 何を今更。いつかはこうなることは分かっていただろう。分かっていて、この逢瀬を続けた。私は本来、捕らえられて殺されるべき人間だ――彼と、彼の国の人間に。

 ただの等身大の男の顔から為政者の顔になった彼は、物音に気付いたらしい敵国の男が近づいてくると私を押さえつけていた力を更に強くした。


「こんなところにいらっしゃったんですね。その女は……?」

「敵国の女だ。見たところどうやら民間人らしいが、この辺りをうろついていたから捕らえた」

「そうでしたか。妙なことをされる前で良かったです。王子もお怪我はございませんか」

「大丈夫だ。心配ない」


 立て、と言う彼の言葉に従って私はゆっくりと立ち上がった。

 彼は嘘をついた。私が民間人などでは無いことは、彼なら分かっているはずだった。

 なぜ嘘をついたかなんて分かっている。彼は、為政者として冷たい顔をすることはできるが心の底から冷たくなることなんてできる人などではないのだ。何度も会っていれば、彼の人となりなど分かってくる。

 彼に武器を持っていないかを検められる。腰に護身用に偽装して提げていた短剣は奪われたが、私は彼のその優しさに従うことにして、促されるままに歩いていった。



 ほんの数時間前のことを思い起こしていると、階段を下りてくるらしい足音が耳に届いた。

 床から頭を持ち上げてその方向を見ると、やはり彼だった。護衛などは連れていないようで、他の足音は聞こえない。私は表情を凍らせたまま彼の足を目で追う。

 彼の足は、やがて私の入っている牢の前で止まった。


「……戦が終わるまでは、ここにいてもらうことになる」

「へぇ、そうなのね。てっきりすぐに殺されてしまうのだと思っていたわ」


 ゆっくりと体を起こし、私は不敵に笑う。彼は眉間の皺を深くした。


「君は『民間人』だからな。無闇に殺す必要は無い」


 まるで念を押すように言う。私は笑い続けた。


「じゃあ、『兵士』なら?」

「……」

「答えられないの?」

「……とにかく、君を殺すつもりはない」

「甘いわね」

「何とでも言え」


 私は嘲笑するかのごとく口元を歪ませた。彼も吐き捨てるように低い声で呟く。

 もう私たちの間に、あの湖で語り合ったような関係はない。今の彼と私の関係は、捕らえた者と捕らわれた者だ。

 ねぇ、と声をかけると、彼は私を真っ直ぐに見つめた。私は彼の視線を促すように、細い窓から見える赤い月を見上げた。


「初めて会ったときの、あの月を覚えている?」

「ああ……覚えている」

「私は、あの時からあなたが誰かを知っていたわ」


 彼は、敵国の第3王子。そして敵国の将。お飾りの将などではない。彼を潰せば、敵国の軍は壊滅する。

 表情の変わらない彼。その伏せた目が、座り込んだままの私を捉える。


「だろうな。俺は、最初は気付いていなかった。君が――軍の人間だとは」

「随分警戒心が無いのね」

「……。3度目の満月の日には知っていた。赤い瞳の女戦士――我が軍でも有名だったぞ。その細腕が、目にも留まらぬ速さで何人もの兵の命を刈り取るのだと」

「あなたの軍の情報網も伊達じゃなかったのね」


 私は相変わらずくすくすと笑い続ける。

 ここまで分かっていて、なお私を庇おうとする彼が滑稽に思えた。私はあなたの国の兵を何人も何人も殺しているのに。


「だったら、なぜ満月の夜あの湖を訪れ続けたの? 私はあなたを殺すかもしれなかったのに」

「さあな。だがこれだけは分かる」


 彼はしゃがみ込んで、私の顔を近い距離から見つめた。その瞳の奥に優しい色が見えた気がして、私は目を細める。

 そんな目で、私を見ないで。私は彼を睨みつけた。もう私たちは、以前のような関係ではないのだ。


「君は、俺を殺さなかった。殺そうともしなかった。それが全てだ」


 私は何も言えなかった。だから、彼のことを鼻で笑って、そして視線を外した。


「だからあなたは甘いのよ。私は――あなたのことなんて、なんとも思ってなかったわ。それこそ、殺そうなんて思わないくらいに」

「そうか」

「あなたが王子だとか、敵将だとか、関係なかったわ。警戒心なんてどこかに置き忘れてきたような顔しちゃって。そんな相手、殺す気も起きないわよ」

「ああ、そうだな」

「私はあなたに会いに湖に行っていたわけじゃないわ。大嫌いな月を眺めに行っただけ。――そうしている時だけは、私は『私』だったの」

「――俺もだ。君と話していると、身分も立場も、全て忘れられた。君と話している時の俺は、ありのままの『俺』だった」

「っ……」


 不意にかけられた優しい声音。

 私は慌ててあまり動かせない体を鉄格子から遠ざけた。

 やめて。これ以上私を懐柔しないで。気付きたくない、嫌だ、気付きたくないんだ。

 彼の傍にいられるのではないか、だなどという甘い考えが頭を過ぎるような自分なんて、自分じゃない。


「だから、君は『民間人』なんだ。そうすれば――殺さずに済む」

「何を……何を言っているの。そんなの無理に決まってるわ。私は、顔が割れている」

「俺が何とかする」

「無理よ。甘すぎるわ、あなたは」


 そう、無理だ。もう私は生きて帰ることはできない。

 彼が庇っても、誰かが気付く。そして私は処刑され、庇った彼は仲間から非難を受けるだろう。

 そうでなくても、もう覚悟は決まっている。――私は多くを殺めすぎた。これ以上、生きている資格はない。

 もともと忌み嫌われ捨てられた命だ。いつ消えようとも構わなかったのだ。

 私は、縛られたままの手を、そっと太腿に沿わせた。そしてゆっくりとスカートをたくし上げる。指先に触れた固いものを握り込み、手首を縛るロープを悟られないようにそっと切り離した。身を検めた時にこういうところまできちんと確認できないところが、甘いって言うのよ。

 私は笑う。妖艶に。そして、心の赴くままに。

 頬を何かが滑って落ちていく。

 心の中に昏い喜びが広がっていくのを私は感じていた。黒く染まった、歪んだ感情。

 だって、私は歪んでいる。愛情なんて要らないと思うのと同じくらい、誰かに愛されたいとずっと望んでいた。そしてその愛されたいという望みは最悪の形で叶えられてしまったのだ。私の行き場のない想いは、黒く黒く歪んだ形で彼へと向かう。


「ねぇ、私の名前ってね、『月』という意味があるのよ」

「……ああ、知っている。君の国の言葉と俺の国の言葉は、多少の違いはあれどほとんど同じだからな」

「ええ。――『月が、綺麗ですね』」

「……え?」

「じゃあ、『月が綺麗ですね』って、私の国ではこんな意味があることを知っている?」


 私は立ち上がった。手首から切れた縄が解けて落ちる。彼は驚いたように私を見て、そして私が手に持っているものに気付くと慌てて鉄格子の間から手を伸ばしてきた。

 私は、その手を避ける。そして、細い窓から見える空を見上げた。

 彼と私とを繋いだ赤い月。どうか、彼と私の別れも見届けて。


「*****」


 蕩けたような笑顔を浮かべた私。自らの首に添えた右手を、思い切り後ろへ引く。

 確かにこの瞬間の私は、喜びを感じていた。


「ルネッ……!!! 待て! やめろ!」


 彼に、――愛した男に、一生忘れられない痛みを植えつける。

 そんな昏い喜びに、歪んだ私は全身で酔いしれていた。


 私は、彼を愛していた。愛していたの。私は、初めて人を愛するということを知った。

 月が綺麗ですねと言ってくれて嬉しかった。まるで、私を綺麗だと言ってくれたみたいで。

 あなたのそのうつくしい瞳が好きだった。真っ直ぐで濁りのない瞳。


 ああ、なんて顔をしているの。まるで捨てられた子犬みたいな顔じゃない。

 私のため? 私のために、そんな顔をしてくれているの?


 私は嗤った。


 最期に見たのは、夜空のような紺色に映った紅い華。



 どうか、お願い。




 私を忘れないで。

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