婚約者
キーンコーンカーンコーン
教室に設置されたスピーカーから、1限目の終了を知らせるチャイムの音が響き渡る。普段であれば授業中に張りつめる一種の緊張感が一気に弛緩するのであるが…今日、今この瞬間は違っていた。終業を知らせるチャイムの音が聞こえると同時に緊張感が増したのだ。それは、まるで徒競走でスタートの合図を待っているかのような緊張感であった。
「起立! 礼! ありがとうございましたー!」
「はい、お疲れ様。蔵守くんと堀内さんは放課後に私のところに来るのを忘れないように!…あと、みんな程々にね?」
1限目の授業を終えた楠木先生が発した言葉は、残念ながら隆と鈴以外には、誰の耳にも届きはしなかった。楠木先生に対する礼で頭を下げ感謝の言葉を終えた直後、クラスメイトのほぼ全員がバネが跳ね上がるかのような動きで上半身を起こし、隆または鈴に体を向けると一斉に駆け寄った。
「鈴ちゃん! 転校生くんと知り合いだったの? どういう関係なの!?」
「堀内さん! どういう事? ねぇ、どういう事?」
「堀内さーん! そこの男子とはどういう関係なのー!?」
「おい! 蔵守って言ったな! 堀内さんとどういう関係だよ!?」
「堀内さん! 嘘ですよね? 男嫌いの堀内さんが男子とキッ、キスするなんて…」
隆と鈴に駆け寄ってきたクラスメイト達は思い思いに疑問をぶつけ始め、教室内はあっという間に騒然となってしまった。あまりに強い押しに隆がどうしたものかと思案していると、鈴が椅子から勢いよく立ち上がり、真剣な表情で押しかけるクラスメイトを見据えた。そのあまりに真剣な鈴の表情を見て、押しかけたクラスメイト達は言葉を噤み、場は一瞬で静寂を取り戻した。皆が口を噤んだのを確認すると鈴は口を開いた。
「…みんな聞いて、さっきは驚かせてごめんなさい。久しぶりに隆さんに会えて感情が抑えきれなくなったの…その、実は…私と隆さんはね…えっと…」
鈴は言葉を詰まらせると目を丸くしている隆を見つめた。隆を見つめる鈴の瞳は僅かに不安の色を帯びているように見えた。実はこの時、鈴の内心では急速に不安が膨れ上がっていた。当初は『恋人』とでも言えばいいと軽く考えていたのだが、前世において(鈴目線では)隆に救われてばかりで迷惑ばかり掛けていた自分に対して、隆が本当にそんな関係を望んでいるのか自分がそばにいていいのか疑問に思えてきたのだ。もちろん、ただ考え過ぎなだけで、前話で言った通り隆は鈴のことを愛しているし、ずっと一緒にいたいと思っているのだが…この時の鈴はどうしようもない不安に襲われていた。
(えーと、鈴…?)
そんな鈴の内心の葛藤をつゆ知らず、隆は鈴が突然立ち上がり喋り出したことに呆気にとられていたが、鈴に見つめられてハッとして気を取り直した。やや慌て気味に椅子から立ち上がると、鈴を半身で庇うようにして側に立った。
「実は僕と鈴…堀内さんは『婚約』しているんだ。しばらくの間、親の都合で会えなかったものだから…先程は少し興奮気味になってしまった。恥ずかしいところを見せてすまなかった、申し訳ない」
隆が軽く頭を下げる。その瞬間、今まで口を噤んでいたクラスメイト達が一斉に口を開いた。
「鈴ちゃん! 婚約ってどういうこと!? そんなこと言ってなかったよね!?」
「嘘だろ!? 付き合ってるとかじゃなくて婚約かよ!」
「ずるいぞ! 堀内さんは我が校でも有数の美少女だってのに…妬ましい」
「その年齢で婚約って…大丈夫なの? 嫌じゃないの?」
クラスメイト達が一斉に言いたいことを口にしたため、教室内は再び騒然となってしまった。
(まぁ、納得するわけないよな…どうしたものか………んっ?)
隆が質問を適当に受け流しつつ途方に暮れていると、不意に左腕に違和感を感じた。自分の左腕に目を向けると、鈴が腕を絡ませており、頬を赤く染め潤んだ瞳で隆の顔を見つめていた。鈴はそのほんのりピンク色でふっくらとした唇を僅かに開き、小声で隆に話し掛けた。
「隆さん…私のこと恋人じゃなくて婚約者って…」
「…事実上『婚約者』と言っても差し支えないかなって思ったんだけど…嫌だったかな?」
「あぁ、そんな…嬉しいです。はっ!? こうしてはいられません! 今からでも役所に行って籍を入れに行きましょう!」
「うん、ちょっと落ち着こうか…僕はまだ結婚できない年齢だからね? その時が来たら改めてプロポーズするから、もう少し待っててほしいかな」
「はい! 待ちます! 何時まででも待ちますから!」
「はは…ありがとう。可能な限り早くプロポーズできるように善処するよ」
小声でやり取りしていたため、周りのクラスメイトに会話の内容を聞かれることはなかったのだが…2人のやり取りはどの角度からどう見てもバカップルそのものであった。
「…なぁ、堀内さんってこんなキャラだったか?」
「いや…違うはずだけどなぁ…どっちかって言うと物静かでクールな感じだったけどな」
「だよな、普段は男子のことなんて見向きもしない…というかむしろ避けてるぐらいだったのに…あの転校生が相手だと劇的に態度が変わるんだな…」
「…だな。羨ましいなぁ、まったく」
「なんか、馬鹿馬鹿しくなってきた。席に戻ろうぜ」
「おう、そうだな」
2人のやり取りを見ていたクラスメイトは、皆一様に口から砂糖を吐き出してしまいそうな顔をすると、もうウンザリしたのか自分達の席に戻り始めた。しかし、ただ一人、鈴の友人である沙羅だけは離れようとはしなかった。
「ねぇねぇ、鈴ちゃん! 婚約ってどういう事なの? まだ高校生になったばかりなのに婚約って…大丈夫なの? …あっ! もしかして無理やり婚約させられたとか!?」
「沙羅ちゃん、それはないから安心して…そもそも婚約は私が望んでいたことなのよ。さっきの私の行動を見ても分かると思うけど、嫌がってなんていないわ。…隆さんのこと本当に愛してるのよ」
「あっ…あいっ!? …もうっ! あの男嫌いで有名な鈴ちゃんがあっさり大胆なこと言っちゃうぐらいだから、嘘じゃないんでしょうけど…」
沙羅は、鈴のそばに立つ隆を品定めするかのような目つきで見つめる。少しすると小さく溜め息を吐き、誰にも聞こえないような小声でボソリと呟いた。
「羨ましいなぁ…」
「…えっ? 沙羅ちゃん、何か言った?」
「…ううん、なんでもないよ。えーと、蔵守くんだっけ?鈴を泣かせることが無いようにしてね? もし、泣かせたら…私、許さないから」
言い終えると隆の返事を待たず、踵を返し自分の席に着いた。
「ちょっと、沙羅ちゃん!」
「いや、いいんだ。君の言った通り、鈴を泣かせないように気をつけるよ」
隆は沙羅の言葉に答えを返したが、沙羅はまるで聞こえてないかのように反応しなかった。
「隆さん、ごめんなさい…」
「かまわないよ。沙羅は前世でも鈴のことを凄く大切にしていたからね。今世も同じみたいだからホッとしたよ」
この時、鈴は隆の表情と目色に違和感を覚えた。てっきり隆の顔には苦笑が浮かんでいると考えていたが実際には笑顔であり、まったく気分を害した様子が見えなかったのだ。さらには、沙羅を見つめる瞳は優しく慈しむような色を帯びていた。
「…沙羅ちゃんのこと知っていたのですか?前世での隆さんは、沙羅ちゃんと繋がりはなかったような…?」
「繋がりができたのは鈴が姿を消した後なんだ…一緒に鈴を探したりしたし…大学も一緒だったんだよ」
「そうでしたか……もしかして、親しい仲でしたか?」
鈴の声色には僅かに硬さが含まれていたが、沙羅の後ろ姿を見つめることに集中していた隆は気づかなかった。
「あぁ、実は付き合っていた時期があってね…懐かしいなぁ……あ」
余計なことを言っていることにようやく気がついた隆が、恐る恐る鈴に目を向けた。そこには美しい笑顔を浮かべているはずなのに、見る物に何故だか恐怖を感じさせる表情を浮かべた鈴が立っていた。
「隆さん…その話、詳しく聞かせていただけます?」
「あっ、あぁ…かまわないよ。えーと、どこから話せばいいのか…」
隆が鈴にどのように説明しようか悩んでいると、突如として休み時間の終了を知らせるチャイムの音が、教室内に設置されたスピーカーから聞こえてきた。
「チャイムが鳴ったか…きっと、話すと長くなるからお昼休みにでも話すよ…あっ! 誰かとお昼を食べる予定とかあるなら、放課後にでも…」
「大丈夫です。隆さんがいるのに、他の人と食事に行くなんてありえませんから」
「そうかい? そう言ってもらえると嬉しいよ。…とりあえず、沙羅のことは終わった話だから怒らないでね…?」
「…別に怒ってはいないんです…少し嫉妬しただけで…」
「ごめん…俺が無神経だった」
「いえ、そんな私の方こそ…」
2人が再びピンク色の雰囲気を放ち始めたところで、突然会話に割り込んで来る者がいた。それは、休み時間終了のチャイムが鳴るのと同時に教室に入室した数学教師であった。
「君たち、いい加減座りなさい授業を始めますよ」
「はい、すみません…」
「すみません…」
隆は慌てて着席する際、沙羅と目が会った。沙羅の目は何かを訴えるかのような色を帯びているように見えたが、気にかけることも無く自分の席に着席し、授業を受けたのだった。