夫のプロローグ
どこか肌寒さを感じる白色に染められた病室のベッド上で、一人の男が人生の幕を下ろそうとしていた。男の目は虚ろで窪み頬はこけ、顔に浮かぶ表情はどこか苦しげというより悔しげに見える。そんな男の傍らにはどこか疲れた雰囲気を放つ黒髪で長髪の女が一人、男の右手を両手で包み込みながら静かに涙を流していた。涙を拭うこともなく女は男に語りかける。
「隆さん…私、本当に幸せですよ…?」
『隆』と呼ばれた男に反応はない。
しかし、女は気にせず言葉を続ける
「身も心もボロボロでどうしようもなかった私を…救ってくれただけじゃなく…お嫁さんにまでしてくれたんですから。本当に私は幸せ者です」
女は言い終えると包み込んだ男の右手に優しく口づける。隆は相変わらず何も反応を示さないが…その耳には女の声が確実に届いていた。
(鈴…鈴…ごめんよ…ずっと幸せにするって…ずっと側にいるって誓ったのに…約束したのに…守れなくて…ホントにごめん…)
『鈴』と呼ばれた女に隆はどうにか語りかけようと試みるが、まもなく生を終えようとする体はピクリとも動かない。むしろ、かろうじてとは言え思考が出来ている事が奇跡的であった。
(俺も…俺も幸せ者だよ…鈴の夫になれたんだから…ホントに…ホントにありがとう…)
声が届かないのならせめて思いが届けとばかりに最後の気力を振り絞って妻への感謝を願う。そして、今までろくに信じてもいなかった神様に対して妻の今後の人生を幸せにしてくれるよう願った。
(神様…都合のいいことを言っているのはわかっています…でも…どうか…私の妻を…鈴を…御守りください…今まで苦労し続けてきたんです…だから…これからは幸多い人生が歩めるように…どうか御守りください…神様っ…!!)
散り散りになりそうな意識のなかで神様に呪詛にも似た祈りを捧げた。しばらくすると全ての想いをどこかにいるかもしれない神様にぶつけたからだろうか、静かに意識を失い…
(…ありがとう…鈴…来世があるなら…また会いたいな…)
…二度と意識が戻ることはなかった。
『蔵守 隆』末期ガンによる合併症によって息を引き取る。
享年42歳、若すぎる死であった。
ピーーーーーーー
病室内に対象が生命活動を停止したことを知らせるようにアラーム音が鳴り響く。室内に控えていた医師が隆を診察し…死亡したと判断した。
「奥様、旦那様がご臨終したと判断します。誠に残念です」
鈴は医師の言葉を聞いて取り乱すことも泣き叫ぶこともなかった。ただただ静かに涙を流しながら隆の痩せた胸にそっと顔を埋めて誰にも聞こえない声量で呟いた。
「…隆さん、すぐにお側に行きますので待ってて下さいね…」