家族
恵はなかなか寝付くことができずに、うつらうつらとした時間を過ごした。過ごした、という表現は適切ではないかも知れないが、熟睡することはできなかった。
空が白み始めた頃には布団にいることを諦め、朝食の支度をすることにした。博は、昨日美紀が帰ってきていることを知らない。起きてきたら、また一騒動あるかもしれないと腹ごしらえをすることにした。
意外にも恵より先に起きていたのは美紀だった。
「おかあさんも眠れなかったの?」
「ええ、布団には入ったのだけれどなかなか寝付けなかったのよ」
「やっぱり。一緒だね」
美紀は昨日の明るさをそのままに話しかける。恵は、歳の差だろうか、美紀ほどの元気はなかった。
「とりあえず、おとうさんが起きてくる前に何か食べようか」
「うん、わたしお腹すいた」
「ちょっと待ってなさい。あなたはまだ怪我が治ってないんだから。おとうさんとの話が一段落したらちゃんと病院に行くのよ」
「は〜い」
美紀は渋々うなずくとキッチンテーブルでおとなしく待つことにした。その時だった。
「おい!どういうことだ!」
二人の視線の先には、博が立っていた。声の迫力とは逆に、その寝癖のついた寝巻き姿からは愛くるしさが漂っていた。
「あっ、おとうさん、ただいま」
美紀は冗談っぽく言った。
「た、ただいまって」
美紀の反応があまりに拍子抜けしていたため、博は思わず恵に視線を移した。いままでにない困惑した表情だった。
「昨日の夜帰って来たのよ」
恵はトーストとスクランブルエッグの準備をしているが、その手を止めずに答えた。
「昨日?なら、なんでおれを起こさなかったんだ!」
博の言葉には少しながら怒気が混じっていた。だか、いかんせん、寝巻きに寝癖では迫力が伴っていない。
「仕方ないじゃないの、もう寝たあとだったんだから」
男一人対女二人の不利を悟ったのか、博もそれ以上は声を荒げたりはせず、納得できない表情を浮かべたまま美紀の前に座った。
「で、何があったんだ?」
博はどちらに聞くともなく声に出した。その声に答えたのは恵みだった。
「そんなに焦らないで。美紀が帰って来たんだから、あなたも今日は会社やすんで落ち着いて話をしましょうよ」
そう言いながら、たったいま焼き上がったばかりのトーストと、ちょっと焦げ目が付いたスクランブルエッグを博の前に並べた。
美紀は待ち遠しそうに黙って唾を飲み込んだ。トーストが発する匂いはまるで「まあまあ、みんな落ち着いてゆっくり食べようよ。話はそれからだよ」と言っているようだった。だがその声は当然美紀にしか聞こえていない。
博は目の前に出されたトーストに一瞬手を伸ばしかけたが、一人だけ先に食べ始めるのは気が引けたのか、すぐに手を引っ込めた。
「ところで、怪我は大丈夫なのか?」
博は探りを入れるように美紀に話し掛けた。
「大丈夫じゃないよ。まだ全然塞がってないもん」
なぜか美紀は元気に答えた。
「病院は?」
「今日この後に行くよ。だから、その前に、おとうさんと話をしておきたくて」
「そうか、なら、おれが病院まで送っていってやるぞ」
やはり誰よりも美紀を心配していたのだろう、怪我のことも気になって仕方がないようだ。
「お待たせ。できたわよ」
そこへようやく三人分の朝食を作り終えた恵が声をかけた。
「待ちくたびれた。なんだか今日はいつもより美味しそう」
美紀はそう言いながら、恵が席に着くのを待った。
「さ、食べましょうか」
恵が言うと、博と美紀も小さく頷いて、家族揃っての朝御飯が始まった。
朝食が始まると三人ともその後のことが気になるのか、誰も話そうとはせずに、食器にフォークが当たる無機質な音のみが耳に届いた。
やがて、その無機質な音も聞こえなくなると、ようやく博が口を開いた。まだ食器の後片付けもする前だ。
「もうそろそろ話してくれてもいいじゃないか?これでは、まるでおれだけ門外漢じゃないか」
口振りは落ち着いているようだが、やはり気になって仕方がないのだろう、恵と美紀は初めて博の貧乏揺すりを見た気がした。だが博は気付いていない。
恵は美紀に目配せすると、美紀は小さく頷く。母娘の関係だからわかるのだろう、博にはそれがなんの意味かわからない。
「じゃぁ、わたしから美紀から聞いた話も含めて説明するわね」
「ああ、頼む」
博の視線は恵に傾けられた。
「まず一昨日のことなんだけど、美紀が怪我をしたのは、あなたが見たという少年で間違いないわ」
「だから、そう言っただろう。なんで嘘なんてついたんだ?」
博は美紀に問い掛けた。
「それは・・・」
美紀が答えようか迷って恵を見た。
「待って。それも含めてわたしから話すから」
恵は、博と同時に美紀も答えないように制止した。
「美紀は悩んだのよ。あの少年の話を聞いて。そして、一時的ではあるけど、信じちゃったの。だから、あんな嘘を付いたのよ」
あの少年の話を知らない博には、どうもピンと来ない。
「少年の話ってなんだ?」
当然博は知る必要があるし、その権利もある。
「驚かないで、とは言わない。驚いていいから、すぐに冷静さを取り戻してね」
「そんなにすごい話なのか」
博は、刹那の間に様々なことを考えた。
(美紀の彼氏、いや、そんなので驚くわけがない。強盗?なら美紀が嘘をつく理由がない)
博には、自分が驚くべき理由がどうしても見つからず、ただ恵の話の続きを待つしかなかった。
「あの少年はね、自分があなたの子供だと言ったのよ」
一瞬、いや、しばらくの間、博は眼をぱちくりさせていた。あまりに想像を超えた話だったのか放心状態だった。それが寝癖と寝巻きと重なって愛くるしいが一層増し、恵と美紀は思わず吹き出してしまった。
その笑い声で博は我に返った。
「冗談、だよな?」
やけに小さな声で、恐る恐る聞いた。だが、残念ながら、恵と美紀の首は同時に横に振られた。
「おれの子供ってどういうことだ?」
博は、二人の落ち着きかたが不思議だった。あり得ない話だか、もし自分の子供だとしたら、なんで二人はこんなに落ち着いていられるのか分からなかった。そう考えると、冗談にしか思えない。
「本当に冗談じゃないのか?」
「うん、あの子がそう言ったよ」
今度は美紀が答えた。
博は自分の過去を振り返ってみた。万が一にも、そんな過ちは犯していない。自信はあったが振り返られずにはいられなかった。
小さい頃は、施設で育った。もちろんそんな頃に恋愛や過ちを犯すわけがないし、あの少年の年齢からもあり得ない。
美紀と同じくらいの年齢から察すると、ちょうど結婚してからすぐの頃と思われるが、あり得ない話だった。たしかに、あの頃は恵ともよく喧嘩をしたが、浮気なんてしたことはない。やはりどう考えても自分の子供であるはずがなかった。
博は、徐々に自分の子供ではない自信を取り戻すと、同時に二人からどう思われているのか気になった。
「おれは、おれの子供ではない自信がある。お前たちはどう思ってるんだ?」
「どう思ってると思う?」
恵と美紀が同時に答えた。博はその二人の優しい表情を見て、自分の考えが杞憂であることを悟った。と同時に、目頭に熱いものが込み上げてきたが、二人にはばれないように必死に平静を装った。
「そりゃ、おれを信じてくれているから、こんな話をしてくれたんだと思う」
「そうよ。わたしたちにはあなたを信じることしかできないんだから」
恵の言葉を聞いた瞬間我慢していた想いが、博の頬を伝った。
「だか、そうするとあの少年はいったい誰なんだ?」
博の言葉は美紀に向けられていた。
「ここからは、わたしが話すね」
恵が頷く。
「あの子、おとうさんに見捨てられたと言ってたわ。だけど、わたしはおとうさんがそんな人じゃないと信じてたから、最初は信じていなかったの」
美紀は刺された日の出来事を思い出しながら話した。
「でも、あの子はおとうさんが施設にいたことを知っていたわ」
その言葉には博だけでなく恵も驚いた。
「どこの施設にいたのかも知っていたのか?」
「知ってるみたいだった。でも、わたしがおとうさんの施設のことや、そこでの生活とか知らなかったから、よく分からなかったの」
「美紀にそこまで詳しく話したことはなかったからな」
恵も頷く。
「だから、わたしの知らないおとうさんの話を聞いているうちに徐々に本当のことなんじゃないかと思うようになって」
「刃物はあの少年が?」
恵が美紀に聞いた。
「うん。わたし、すごく動揺したんだけど、ズバリき人違いだって言い続けたの。それで、わたしだけじゃなく、あの少年も動揺しだして、いつも護身用に持ってるって言ってた刃物で」
美紀はそこまで話すとうつ向いてしまった。隣に座っている恵が優しく美紀の背中をさする。
「自分を責めなくてもいいのよ。あなたはまだ若いんだから」
「美紀が自分を責める必要なんてない。人が出す答えがあってるかどうかを決めるのも人だ。美紀が迷ったのと同じように、おれだってその場にいたら、どうなったかなんてわからないさ。気にすることはできないと思うが、出来るだけ気にするな」
博も優しく声をかけた。
「でも、そうすると、さらにわからないのはあの少年が一体誰かということよね」
恵が博に話し掛けたちょうどその時、玄関のチャイムが鳴った。まだ午前の比較的早い時間から黒田家を訪ねてきたのは横田だった。