矛盾
美紀が目を覚ましたのはまだ陽も姿を見せていない明け方だった。半開きの窓の外から、暗いうちからせっせと働き始めている蝉たちの声が聞こえていた。当然博も恵もいない。
美紀は自分がどこにいるのか理解できずにいた。いつもの朝のように起き上がろうとしたが、お腹に痛みを感じて起き上がることができなかった。そして薄暗さに目が慣れてきて、始めて自分が病室のベッドにいることに気が付いた。それと同時に自分に起こった出来事を徐々に思い出し始めていた。
美紀はなぜか哀しい表情になり天井を見つめていた。その視線の先には何もなく、ただ他に目のやり場がないだけなのは美紀が一番理解していた。
美紀は徐々に自分の中に蘇ってくる昨日の出来事を考えていた。普通であれば冷静になど考えることはできなかったかもしれない。だが昨日の出来事はあまりに現実味がなく、それを受け入れるにはまだ時間が足りないでいた。
どれだけの時間がたったのだろうか。美紀にはとても長い時間に感じられたが、窓から差し込む陽の光はまだ部屋を明るく染めるには足りていない。それでも美紀には昨日のことを思い出すには十分な時間だったらしく、先ほどから哀しみと迷いの入り混じった思いが強くこみあげていた。そして、考え疲れたのか美紀は再び眠りの中に落ちていった。
博と恵が病室を訪れたとき、美紀はまだ眠りの中にいた。二人は美紀が一度は目を覚ましたことを知らない。そっと病室に入ると美紀の寝顔を確認し、傍らに静かに座って美紀を見守っていた。
小一時間程も経ったであろうか。恵が博に話しかけた。
「あなた、美紀がいつ目を覚ますかわからないから、もうお仕事に行ってくださいな。美紀にはわたしが付き添いますから」
恵は博の仕事を心配していた。博も美紀の命に別状がないと知ってからは、仕事に行くべきか、付き添いを続けるべきか悩んでいたところだった。
「そうか、では美紀はお前に任せて仕事に行くことにするよ。だが、美紀に何かあったりしたら、すぐに連絡をくれよ」
「もちろんわかってるわ」
博は恵の返事を聞き終わると、ゆっくり立ち上がった。だがすぐには病室を出ようとはせず、じっと美紀を見つめていた。
「あの少年と美紀の間に何があったのだろうか」博はそのことを美紀の口から聞きたかったのだが、美紀が目を覚まさない以上、博には何も知る手がかりはなかった。やがて、博は美紀から恵に目を移すと「あとは頼んだぞ」と言い残し病室を出ていった。
博が出ていくと恵はそっと美紀の手を握りしめた。
「いったい何があったのかしら。命に別状がなかったからよかったものの、こんな大怪我をするなんて」
恵は美紀に話しかけるように、それでいて自分自身に問いかけるように呟いた。その声が届いたかどうかはわからないが「おかあさん、いたの?」美紀が微かに囁いた。
「起きたの?痛みはない?傷は大丈夫?」
恵は美紀に起こった出来事よりも、まず美紀への心配を口にした。
「うん、今は大丈夫」
美紀はようやく恵に聞こえるような声で呟いた。恵はそれを聞くと安心したのか「お腹減ってない?何か食べ物用意しようか?」と続けて話しかけた。
「ううん、今はいらない」
美紀は口では恵に返事をしていたが、頭の中では、ずっと昨日の出来事が思い出されていた
「おとうさんは?」
美紀は博の姿がないことを確認すると恵に聞いた。
「仕事へ行ったわ。さっきまでは一緒に付き添っていたのだけど、あなたの様子が安定しているのを見て、わたしが仕事に行くようにお願いしたの」
「そう、良かった」
美紀は博に迷惑をかけたくなかったわけではなく、博がその場にいないことに対して安心しているようだった。
「おかあさん」美紀は恵に話かけた。
「わたしが小さい頃、おとうさんとおかあさんはよく喧嘩していたけど、今は喧嘩しなくなったよね?何かあったの?」
恵は美紀が唐突に小さい頃の話をしだしたことに戸惑いながらも「そうね。あの頃はよく喧嘩したわね。何が原因ってわけではなかったんでしょうけど、二人とも若くて、あなたの子育てのことでもいろいろと意見が違っていたのよ」
恵は美紀を見つめながら続けた。
「あなたも知っているけど、あの人は施設で育ったでしょ?だから、本当の親と会ったことがないの。だから、自分が親になったことに戸惑い、どう接していいのかわからなかったみたいなの」
美紀は黙って聞いている。
「ばかよねぇ。考えてもごらんなさい。わたしだって親になるのは初めてなのよ?それなのに自分だけが不安だと思っていたみたいなの。だから同じように不安なわたしとよく喧嘩になったのよ」
まだ高校生の美紀には親の気持ちなど深く考えたことはなかったが、それでもなんとなく恵の気持ちは理解できた。
「それでよく喧嘩してたの?」
「ええ、よく喧嘩したわ。でも、あなたが少しずつ大きくなるにつれて、わたしたちも成長したの。お互いがお互いの不安な気持ちを理解するようになって、徐々に喧嘩することも減ったわ。あなたが小学校に上がる頃にはほとんどなかったんじゃないのかしら」
恵は当時を懐かしむような思いで振り返っていた。
恵はそこまで話すと、思い出したかのように美紀に問いかけた。
「ところで、昨日何があったの?」
美紀は一瞬恵の目を見つめたが、その優しい瞳を見続けることができずに目を反らした。そして「おとうさんと喧嘩したの」と小さく弱い声で呟いた。
恵はその言葉が何を意味しているのか、すぐには理解できなかった。いや時間があっても理解できなかっただろう。美紀が話を続けるまでは。
「あの日、わたしが学校を終わって家に帰ってから、おやつに居間でリンゴを食べようと剝いていたら、おとうさんが帰ってきたの」
そんなことはごく当たり前の日常であって、美紀が何を言おうとしているのか恵にはまだ理解できない。ただどことなくリンゴに違和感を感じたが、すぐにそんなことは忘れていた。
「そしたら、おとうさんが学校はどうした?部活はどうした?勉強はしなくていいのか?っていきなり怒りはじめて」
美紀はそこまでいうと少し間を置いた。恵は黙って聞いている。だが「あの博がいきなりそんなことを言うのだろうか?」と一抹の疑問を感じていた。
「わたしもなんでいきなり怒られるのか分からなくて、おとうさんがいつものおとうさんじゃないみたいに見えて、訳が分からなくなって。気づいたらリンゴを剝くための果物ナイフを持ったままおとうさんに向かって立ち上がっていたの」
美紀は俯きながら話を続けた。
「そこから先のことはあまり覚えてないの。気づいたらこの病室のベッドの上だったの」
恵にはまったく理解できないことだらけだった。「あの人が美紀を?」そんなこと博は一言も言っていなかった。いえ、何よりそれが本当なら、あの人はどんな顔でさっきまでいたの?恵は一生懸命博の表情を思い出そうとしたが、思い出せない。かと言って美紀が嘘をついていることを疑うこともしたくなかった。
恵は昨日からのことを振り返り美紀に聞いた。
「男の子は?あなたと同じくらいの男の子が家にいたんじゃないの?」
恵は声を荒げていた。
美紀は一瞬戸惑いの表情を見せたが、何かを決心したのか「男の子?そんな子がいたの?」と恵の問いかけに答えた。
「男の子がいたってお父さんが」恵は美紀に博から聞いたときの状況を伝えた。
「何のことかわからないよ」美紀はまったく男の子のことを覚えてないようだった。