記憶
わたしは決して幸せな生い立ちではなかったと思う。幼少から少年期を孤児院で過ごし、成人するまでは施設を故郷として生きてきたのだ。しかし、施設での生活は辛い時期もあったが、それも既に三十年近くも昔のこととなり、今はあまり思い出すこともなくなっていた。
そんなわたしがその少年に出逢ったのはいつだったろう?もう十年近くも前になるのだろうか?はっきりとは覚えていないが、おそらく少年は小学校の低学年くらいだったと思う。
わたしはというと、既に結婚もしてその少年と同じくらいの娘もおり、会社でも人一倍の努力をしたせいもあってか比較的生活は裕福な方であった。そして、いつもと同じ時間に同じ電車で帰る毎日を、無為に繰り返していた頃だった。
初めて少年と出逢った日のことは覚えていない。いや、初めて出逢ったというのは表現として適切ではないのかも知れない。初めて見かけたと言った方が正しいのだろう。
少年はいつも俯いたまま座っていた。改札を出た左側。どこの駅にもあるロータリーになっている場所だ。会社帰りのサラリーマンや学校帰りの学生達が家路を急ぐ中、何人の人が少年の存在に気づいていただろうか。もしかしたら、きっとみんな気づいていたのかもしれない。しかし、誰も少年の存在に目を向けようとしている人はいなかったことを覚えている。
少年はと言うと、誰かを待っているようにも見え、それでいて、ただ暇を持て余しているような不思議な印象であった。ただ、ほぼ毎日その時間に、いつも同じ場所に座っていた。そして、少年はいつも俯いていた。その表情がどんなだったかははっきりと思い出せない。
そんな少年を一度だけはっきり覚えているのは、あれはクリスマスの日だった。家で待つ妻と娘の為に買ったケーキを小脇に抱え家路を急いでいたときだった。あの日は雪が降っておりホワイトクリスマスにだったこともあってはっきり覚えている。わたしは少年のことなど頭にはなく、家路を急いでいた。そんなときでも、いつもの習慣なのだろうか、改札を出て、いつも少年が座っている場所に目を向けているわたしがいた。
あの日、少年は珍しく空を見上げていた。雪が舞う寒い夜だった。少年の吐く息は白く、それでいて、その白さは雪よりも夜の闇の中におおきく明るく見えた。
わたしは思わず立ち止まり、少年を見つめてしまっていた。少年はそんなわたしの存在に気づいてはいないように目をうっすらと輝かせている。それが、涙だったのか、たまたま降っていた雪がそう見えたのかはその時のわたしにはわからなかった。ただわたしの目にはそれは涙として記憶されていた。
あの日のわたしには少年に声をかける理由も見つからず、立ち止まった歩みが再び歩み始めるまでにそれほど時間はかからなかった。それがわたしが少年を駅で見かけた最後だった。次の日から少年はその場所にいなかったからだ。そしてその姿は、なぜか記憶の片隅に強く残っていた。どこか小さい頃のわたしの面影のように。
その後のわたしは、その少年のことを思い出すこともなく、何の変化もない日々を何年となく繰り返し、妻と娘と平和な日々を過ごして来た。
突然その少年のことを思い出したのは暑い夏の日だった。その日は仕事もはやく終わり、いつもよりはやく帰宅した夕方であった。家に入るとなぜかその少年が立っていたのだ。
その少年がなぜわたしの目の前にいるのだろうか?当然、娘がいると思っていたわたしの家。しかも、家族が安らぎを求めてやまないリビングである。そこに、なぜ帰宅したばかりのわたしの目の前に少年がいるのだろうか?そして、その少年の前になぜわたしの娘が横たわっているのだろうか?いや、それ以前に、なぜわたしはその少年だと確信できたのだろうか?「なぜ?」そればかりがわたしの中で繰り返された。
だが事実として少年は私の前に立っていた。そして少年が持つ鋭利な刃物からは娘のものと思われる赤い雫が滴り落ちている。
少年の目からはあのクリスマスの日と同じように透明な液体が頬を伝わり落ちていた。少年は逃げるでもなく、ただその場にじっと立っていた。そして、その視線の先には娘が横たわっている。その表情はあのクリスマスの日と同じだった。
それからのことははっきりとは覚えてない。覚えていないが、気づいたときにはわたしは病院の待合室にいた。
「あなた、どうなの?どうなの、美紀は?」
娘が手術室に入ってすぐ妻が病院に駆け込んできた。その時のわたしは妻とは正反対に、妙に落ち着いていて、なぜこのようなことが起こったかはわからないまでも、起こったことを冷静に受け止めることができていた。
「わからない。さっき手術室に入ったばかりだ。ただ出血は激しいが命に別条はないだろうって」
妻はその言葉を聞くと少し落ち着いたのか、小さく深呼吸しながらわたしの横に座った。
「一体何が起こったっていうの?美紀に何があったの?」
妻の問いにわたしも答えることは出来ない。
「わからない。わたしが家に帰ったとき、美紀は既に刺されていたんだ」
「刺された?」
妻は刺されたという言葉の意味を理解できていないようでいた。
「ああ、刺されたのだと思う。刺した瞬間を見ていたわけではないから、はっきりとは言えないが、わたしが家に帰ったとき、美紀は既にリビングで倒れていて、その横に刃物を持った少年が立っていた。そして、その刃物に血が付いていたから・・・」
「少年?少年って一体誰なの?その子は今どこにいるの?」
妻は初めて出てきた少年という人物に戸惑いを隠せないでいた。そして、そのときになって初めてわたしも少年のことを思い出した。そう言えば、あの少年はどこに行ったのだろうか?逃げたのか?それとも警察に連れて行かれたのだろうか?
「誰かは分からない。でも、確かにいたはずだ」
わたしの頭の中では、過去の少年の姿と今日の少年の姿が重なっていた。過去の少年の姿は寒い冬の夜、その視線は夜空を見上げていた。今日見た少年の姿は暑い夏の夕方、その視線は俯いていた。ただ共通しているのが、少年は共に涙を流していたことだった。そしてその少年は今どこにいるのだろうか?
「その子が美紀を刺したっていうのね?」
「おそらく。だが、本当のところはわからない。今は美紀が話せるまで回復するのを待って聞いてみようと思っている」
妻はそれ以上わたしに聞いても何も分からないと感じたのだろうか、それ以上は聞いてこなかった。
娘の手術は無事成功した。だが、美紀は精神的に落ち着いておらず、話せるまでには回復しなかったため、家族の面会も明日以降ということになった。わたし達がその日は美紀との面会を諦めて家へ帰ろうとしたとき「黒田さん?黒田博さんと奥さんの恵さんですね?」と声をかけられた。
博より少し年上だろうか?五十を少し越えたぐらいで、既に白髪の方が多く見える中年の男が話し掛けてきた。
「ええ。そうですが。何か?」
男は警察手帳を博に見せると少し間をおいて話を切り出した。
「そのですね、先ほど黒田さんが家の中で見たとお聞きした少年なのですが、実はわたしどもが現場に駆けつけたときには既にいなくてなっていてですね、今回の凶器になったと思われる刃物も残っていなかったのですよ」
横田と名乗るその刑事は、どうしたものかと困った表情を浮かべていた。しかし、わたしにはそれが意外でもなんでもなく、もし少年が美紀を刺したのなら逃げるのが当然だと思っていた。そしてまた第一発見者であるわたしが美紀を病院へ運ぶことを優先し少年のことを忘れていたのだから当たり前と言えば当たり前のことでもあるような気がした。
「そうですか。でも、美紀が何か知っていると思いますので、今は美紀が回復するのを待つしかないのですよね」
不思議なことに、わたしは娘が刺されたにも関わらず、まるであらかじめこうなることを知っていたかのように落ち着いていた。妻はそんなわたしを不満に感じたのか「警察としては、その少年を探してくれているのですよね?」と、わたしの言葉が終わるか終わらないかのうちに、わたしの方を見つめながら横田に話し掛けた。
「ええ、それは当然です。ですが、明日以降、美紀さんの容態が回復してから、事情聴取をすることとなりますのでご了承を頂いておこうと思いましね」
「ええ、それは全然構いませんが。ただおそらく美紀も今回のことで気が動転していると思いますので、あまり無神経な質問などはやめていただけると」
横田の言葉にわたしは応えた。
「わかっています。その点については十分に配慮致しますが捜査のためのご協力をお願い致します」
と横田はそれだけ伝えると、軽く会釈をし去って行った。
妻は横田の姿が見えなくなるのを確認すると、待っていたかのようにわたしに話し掛けた。
「ねぇ。その、あなたが見たっていう少年は何歳ぐらいの子だったの?」
「よくはわからないが、たぶん美紀より少し下くらいだと思う。一六か一七歳くらいじゃないか?」
「今まで見たことは?」
わたしはその妻の問いかけに、以前クリスマスの日に見かけた少年の姿を伝えるべきかどうか迷ったが、あの少年と同じ少年であるという根拠が何もない以上「初めて」と応えるしかなかった。「じゃぁ、美紀の知り合いかどうかもわからないのね」と妻が独り言のように言ったのに対し、わたしは黙って頷くと、妻と共に病院を後にした。
駐車場へ向かっていると、もう陽はとっくに沈んでいるにも関わらず、蝉の鳴き声が聞こえる。そして、その声を掻き消すかのようにどこか遠くでヒューッという打ち上げ花火の音が紛れ込む。「こんな遅くに迷惑な話だ」と心の中で呟きながら、今度はわたしから妻へ話し掛けた。
「なぁ、一六、七の子が泣く理由ってなんだと思う?実はその子、美紀を見つめながら泣いていたんだ」
妻は突然の問いかけに少し戸惑った様子だった。
「もし・・・、もしその子が美紀を刺したのだったら、どんな理由があるにしても刺した後で自分が怖くなったとか、後悔の気持ちだとかじゃないかしら」
妻は美紀の命に別状がないと分かってからは冷静そのものだった。
「逆に、もしその子が刺したわけではないなら、その子に聞くしか、わたしには分からないわ。ただ、逃げるくらいだからきっとその子が刺したのだとは思うけど」
「そうか・・・」
わたしは妻の言葉を聞いても、そんなありきたりの理由であの少年が泣いていたとはなぜか思えなかった。わたしの中で「なぜ少年はあのクリスマスの日に泣いていたのか?」そしてまた「なぜ今日美紀を見つめながら涙していたのか?」「なぜわたしの家の中で?」「なぜ凶器と思われる刃物を持って?」「なぜ姿を消したのか?」そんな問いかけが幾度もなく繰り返されていた。
その日の夜、わたしはひさしぶりに施設で生活していた頃の夢を見た。わたしが最後に施設での生活を夢に見たのはいつだったろう?もう十年近くも見ていないのではないだろうか?それほど、施設での生活は、苦しくはあったが、わたしにとって過去のものとなっていた。
あの頃のわたしには、わたしのことを「ひろし兄ちゃん」と呼ぶ五歳年下の、宣子という妹のような女の子がいた。きっとどこの施設も同じだとは思うが経済的な余裕はなく、育ち盛りの子供達にとって満足な量には足りない程度の食事しか与えられなかった。そんな中、わたしと宣子はいつも一緒に遊び、働き、生活していた。
やはり小さい子供達にとって、男の子と女の子の仲がいいのがいじめの対象になったのは、どうしようもないことなのだろうか。施設の中でも比較的体の大きかったわたしはいじめの対象となることもなかったが、どちらかというと体の弱い宣子はいじめられる事が多かったと。あの日もそんな仲間達から逃げるようにしてわたしのところへ宣子がやってきたのだと、わたしは思っていた。
「ひろし兄ちゃん、宣子のお話聞いてくれる?」
いつもと違う宣子の表情にわたしはまだ気づいていなかった。
「またいじめられたのか?」
「ううん、違うの。なんかね、お母さんがね、わたしの新しいお母さんだって知らないおばちゃんを宣子に教えてくれたの」
「母さんが?」
施設で暮らすわたしたちにとって「母さん」とは施設でわたしたちの面倒を見てくれていた施設の管理人のおばさんのことである。非常に面倒見の良い温かい人で、今でもあの温かい手のぬくもりは懐かしく思い出されることもある。
「うん。宣子ね、明日から新しいお母さんのところで生活するんだって。今日でみんなとお別れだから、いっぱいおしゃべりしておいでって」
その言葉を聞いたとき、小さいながらも宣子と二度と逢うことができなくなると思い、泣きそうになったのを覚えている。しかし、当時のわたしは、宣子にとってこの施設での生活より、新しい生活の方が間違いなく幸せになれると信じきっていた。だから、宣子を笑って送り出したかった。
「そうか、宣子やったじゃんか。新しいお母さんのところに行けば、ご飯だっていっぱい食べれるし、服だって新しいのを買ってもらえるかもしれないんだぞ。やったな」
わたしは一生懸命元気を振り絞っていた。
「でも、ひろしにいちゃんとお別れなんだよ」
宣子のその一言はわたしの心にあいた空間を一瞬で埋め尽くした。まだ小さいわたしには自分の感情をコントロールできるはずもなく宣子といっしょに泣きじゃくったのを覚えている。
次の日、宣子は施設のみんなに見送られながら出て行った。いつもは宣子をいじめていた他の子供達も、今日が宣子を見る最後の日になると知ってか黙って哀しげな瞳で見つめている。そんな中、わたしは誰よりも顔を作って見送った。それがわたしに出来る宣子への最後の優しさだった。
しかし、そんな思い出ももう三十年近くも昔の話である。既に半世紀近くも経とうと言うのにこれほどはっきり夢で見るとは思ってもいなかった。