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二度と貴方方の顔なんて見たくない

 これほど憂鬱な日は生まれて初めてだとプリシラは窓の外を見上げた。気持ちを代弁するかのように空は曇天。いっそ雨が降ってしまえばいい、と落ちかけた溜息を飲み込む。


 グレイスは侍女としてこの場にいるが、ソレルは護衛の訓練でいない。


 部屋を見渡すとメイド達が数人存在するものの、全員が居心地悪そうで、暇を出してあげたいものだと思いながら、プリシラは手元の手紙へと目を落とした。


 数日前に届いた手紙には、ユニコーンが象られている。


 高位貴族には模倣されないようにそれぞれの印が作られるが、ユニコーンは現在この国の王である、陛下の印。


 つまり差出人はサタン陛下、その人である。


 ちなみに、王家の紋章は始まりのサタンの個人印であるドラゴンがあしらわれている。


 サタン陛下の印が入った手紙も数十枚くれば慣れた物で、今はもう動揺する事はない。

 と言っても、初めてその手紙を受け取った時は激しく動揺したプリシラだったが、手紙の内容を読んで更に動揺する事になった。


 要約すると『文通相手になってくれ』という色気タダ漏れの御方とは思えない可愛らしい内容であった。


 公爵家とはいえただの10の小娘へのお願いとは思えないそれに、プリシラは父の判断を仰いだ。

 数拍の沈黙の後、父から「お前の好きなようになさい」というお言葉を貰い、プリシラは陛下との文通を始めることとなった。


 さりげない気遣いの言葉やその後の心配など、女性の心を鷲掴みするしかない手紙の文は、貰う度にプリシラの陛下への敬愛、尊敬、愛情を深めている。

 プリシラからは家族達への対応や他国のこと、魔法の事などを書き綴っている。


 サタン陛下の手紙は機知に富み、手紙の内容を読むだけでもプリシラは勉強になった。

 初めての手紙のやり取りに慣れない部分もあったものの、陛下に手紙伝手で教授願い、上達している。


 プリシラはこの距離感に別世界でいう、頼れる親戚のお兄さんに当てはめている。言えば不敬罪であるが、心の中だけなので問題ない。


 プリシラは羽ペンを手に取った。


 書き始めは―――『敬愛するサタン様へ』


「シャマーラ嬢」


 プリシラは手を止めて、声の主を見上げた。愛しき陛下へ手紙をしたためようと羽ペンを取ったのを、素晴らしく最悪なタイミングで邪魔してくれたのは、その愛しき御方の息子である。

 不機嫌そうな様子の彼にプリシラのこめかみが引きつる。

 プリシラが朝から憂鬱だったのは、目の前にいるルシファーのせいである。

 婚約破棄をして彼との関わりは絶ったと思っていたプリシラだったが、婚約者候補として定期的に会わなければならないという話を先日父から聞かされた。


 その定期的に会う日が今日である。


 残念なことに、サタン陛下は一緒ではなかった。


 陛下は忙しいのだから当然と言えば当然である。あの時が奇跡だったのだ。


 麗しきサタン陛下のお姿を見る事も出来ず、内心サタン陛下を拝見できるかもしれないと、それだけを希望としていたプリシラは歓迎していないルシファーと話したいことなど全くなかった。話す話題もない。


 後はお若い二人だけで、という婚約者時代と同じ様に二人っきりにされかけたのを「お客様をお持て成しするのに私だけでは人手が足りないわ、それに婚約者でもない男の人と二人きりなんてふしだらよ」とかなんとか適当な理由をつけて、グレイスと何人かのメイドと侍女を巻き込んだ。


 プリシラ側の人目のないところで見下されるなど、もう金輪際、真っ平ごめんである。


「はい、何でしょうか。ルシファー様」

「何をしている」

「手紙を書いております」

「誰にだ?」

「素晴らしき才能をお持ちの高貴なルシファー様のお気に障ったのでしたら謝罪致します」


 ルシファーの胸元辺りに視線を下げて言った。


「誰に書いていると聞いている」

「私用の相手でございます」

「……少しは婚約者候補として話し相手になろうとは思わないのか?」

「凡人のわたくしが非凡な才能をお持ちのルシファー様相手にお話相手になるなどそのような傲慢な考えは持ち合わせてなどおりません素晴らしき慧眼をお持ちの高貴なルシファー様でしたら取るに足らないわたくしの手紙の相手を類推することなど息を吸うように簡単なのでしょうね」


 見下したまま言われた科白にプリシラは何の感情も動かなかった。ただ一息で、長い科白を棒読みで言い切った。ふぅ、と息を吸う。そして、嫌味ともとれかねない科白を重ねる。


「申し訳ありません、ルシファー様。わたくし、会話が苦手なのです。殿方が喜ぶような会話技術はまだ会得しておりませんの。高貴なルシファー様のお耳を汚すことにもなりかねませんので、口を閉じる事に致します」


 思った以上に平坦な声が出た。


 かれこれ数時間、プリシラとルシファーは数メートル離れた先で背を向けて座り―――プリシラはそうしようと考えていた訳ではないが結果的にそうなった―――お互いに話すことも目を合わせることもなく、それぞれやりたいことを行っていた。プリシラは手紙の内容を考え、ルシファーは読書である。


 プリシラの言葉にルシファーが不機嫌になったのが分かるが、彼はそのまま元の場所へ戻っていった。


 どうせ、会話をしたというポーズが欲しかっただけだ。


 婚約者時代はプリシラが出来る限り、相槌もなく読書にふけるルシファーに話し続け、内容がなくなると延々とこの状態だった。時折、ルシファーが口を開こうと罵詈雑言である。あろうことか「それしか話題がないとは頭の出来が良くないだけある」と言われたこともある。

 険悪な雰囲気になる事はなかったのは一重にプリシラが彼に恋していたからに他ならない。


 後、数時間はこの状態が続く。沈黙は苦しくないが、ルシファーへの罵詈雑言はプリシラの心を抉るのだ。言われても大丈夫なように常に警戒をしなければならない。とても疲れる。憂鬱にならないはずがなかった。


 その沈黙が破られたのはプリシラが陛下への手紙を半分ほど書き上げた時だった。部屋の扉が開いたのだ。


「―――ねぇさま……っ、ぁ」


 大きな本を抱えた天使が来た。

 何故か扉の前で固まっている可愛い救世主、愛すべき愛しい弟をプリシラが歓迎しないはずがない。すぐに手紙を片づけ、立ち上がって微笑んだ。


「ベル、どうしたの? そんなところに立っていないで中までお入りなさい。グレイス、お茶を用意して? ベルと一緒に飲むわ」

「かしこまりました」


 グレイスが一礼をして立ち去る。日常会話で敬語の使えない彼女であるが仕事は出来る。

 かしこまりました、の発音はこの国出身と言われても納得出来る程、完璧だ。


 プリシラは視線を戻し……ベルフェゴールが扉を開けた状態のまま、まだ部屋に入ってこない事に驚いた。


「ベル?」

「ね、ねぇさま、あの……ごめんなさい、僕、知らなくて」


 怯えて不安げに見上げる瞳にプリシラは眼を瞬かせて、ああ、とベルフェゴールがなぜ部屋に入ってこないのかの理由に思い至った。彼の視線がプリシラとルシファーを行き来していたからだ。


「ベル、ルシファー様よ。ご挨拶なさい。さ、部屋に入って。そのままでは失礼でしょう?」


 会ったのは初めてではないが、今のルシファーは婚約者ではなくお客様である。

 改めて挨拶する必要があるだろう。

 プリシラは何か言いかけるベルフェゴールに笑顔を向けた。

 癒しはこの天使しかいない。プリシラは自分の心に正直になることにした。このまま、二人でいるより、無体を強いることになってもベルフェゴールと一緒の方が絶対にいい。


 恐る恐る部屋へとベルフェゴールは入り、ルシファーに礼をした。


「ルシファー様、こんにちは……。ベルフェゴールです。ルシファー様がいらっしゃっているとは知らなくて……」

「別にいい」


 もっと何か言いなさいよ!と思わないでもなかったが、プリシラはちょうど戻ってきたグレイスにルシファーへのお茶も指示を出し、ベルフェゴールを呼んだ。


「ベル、何か用事があったのでしょう? なら、お茶でも飲みながらお話しましょう」

「えっ、で、でも。僕、ルシファー様とねぇさまの邪魔をしたくないから、その、いいよ。僕、帰るよ」

「……そう? なら、なんの用事だったかは教えて欲しいわ、ベル?」

「あの、大した用事じゃ……」

「なんの用事だったの?」


 絶対に逃がしたくない、と思うが、ルシファーが婚約候補であることは変わらない。未婚の女性が婚約者でもない男と二人きりは問題だが、婚約者候補がいるのに弟とばかり話すのも問題行動であることはプリシラもよくよく分かっている。

 それでも食い下がったのは、このルシファーから、せめて一時的にでも離れられる理由が欲しかっただけだ。


「……あの、温室に誘いに来たんだよ。新しい図鑑を一緒に見ようって思って……」


 ベルフェゴールがおずおずと抱えていた分厚い本を見せて言った言葉に、プリシラは数秒フリーズして、ベルフェゴールをまじまじと見つめた。


(……ああ、なんてことなの……)


 初めてだ。

 ベルフェゴールが何かをしようとプリシラに言ったのは。

 何時もプリシラから誘うばかりだったのだ。


(信じられない……こんな事があるなんて……!)


 初めてベルフェゴールから誘ってくれた感動は、ルシファーのことを頭から吹き飛ばすのに充分な衝撃をプリシラに与えてくれた。


 プリシラは衝動のまま、ベルフェゴールを抱きしめた。


「行くわ! 今すぐ行くわよ! 温室に今すぐ向かうわ!」


 そのまま、プリシラは振り向いてグレイスに笑顔を向けた。


「グレイス、準備してちょうだい」

「は、はい……かしこまりました」


 グレイスが頭を下げたのを確認して、プリシラはベルフェゴールへ向き直る。


「ベル、新しい図鑑はどこから手に入れたの? 元々、持っていたもの? 屋敷の植物と照らし合わせるのも楽しみね、あら? 外国の本なの?」


 ベルフェゴールの持っている本が別の国の言葉であると気づき、プリシラは彼に「この文字が読めるの?」と尋ねる。ベルフェゴールはたどたどしく頷いてから、


「……あの、少しは。習ったから……」


 ベルフェゴールの答えにプリシラは、天才現る、と頭にメモした。

 プリシラは漸く3ヶ月前から真面目に勉強を始めたばかり。自業自得の部分もあるが、単語の幾つかしか覚えていない。それなのに、年齢的に家庭教師は付いたばかりのベルフェゴールはこの図鑑を幾らか読めるまで語学力があろうとは。


「まあ、ベル。本当に貴方って本当に賢いわね……でも貴方がそんなに賢い弟だとお姉様はとっても困るのよね」

「……!」


 はぁ、と感嘆の溜息を吐いた。この賢い弟はプリシラにとって、最近特に悩みの種だ。

 というのも。


「……私、貴方が私の弟とだと自慢して回りたくなるんだもの。それって、公爵家令嬢としてはしたないことよね。でも貴方の素晴らしさは幾ら言っても言いたりないのよ? 困ったわ。そんなに私の誇りになるようなことばかりするなんて、本当に困った可愛い賢い自慢の弟だわ」


 プリシラは心の底から思う存分、弟を自慢出来ないことを残念に思う。後で、ソレルにでも自慢しよう、と顔を赤くしている可愛いベルフェゴールの前髪をさけて、額にキスを落とす。


「……そんなこと言っても仕方のないことよね。さあ、ベル。私を温室に連れて行って、馬鹿なお姉様に他国の言葉を教えてちょうだいな」

「う、うん……! あ、でも」


 ベルフェゴールがプリシラの後ろを見て、目を見開いた。と、プリシラの肩にかなりの圧力がかかり、彼女は強制的に後ろを振り向かされた。プリシラが見たのは、睨みつける紅の双眸である。


「おい! 貴様、俺の事を無視するなっ!」

「……っ!!」


 ああ、そう言えば。いたんだった。


「……ベルフェゴール、この方も一緒に温室に行ってもらってもいいかしら」

「う、うん」

「ベルフェゴール、貴方に仕事を言いつけます。この方を温室に案内して差し上げなさい。私はお茶の用意が済んでから参ります」

「わ、分かりました。あの、ルシファー様……こちらです」


 ベルフェゴールに案内され、ルシファーが部屋から出て行ったのを見送り、プリシラは「あ〝ー……」とお嬢様らしからぬ声を上げた。


「プリシラ様、大丈夫、です? 肩、痛くないです、か?」


 心配したグレイスがお茶の準備を済ませて、寄ってくる。まださっき用意させたお茶がお盆に残っていたのをさっと手にとって頂いた。


「……ベルが来てくれて良かったわ。あの子、本当の天使かもしれないわね……」


 しみじみと言えば、グレイスは納得顔で頷いた。


「ええっと……通常運転ですね、プリシラ様」


 聞かれるままに別世界の言葉を教えていた弊害が出た。完璧に別世界の言葉を操ったグレイスに乾いた笑みを向けることしか、今のプリシラには出来なかった。


 *・*・*・*・*・*・*・*・*


 遅れてやってきたプリシラは、側に控えるグレイスの持った紅茶を振りかぶらなかった自身の忍耐力を褒め称えた。


「これも読めないのか? これは?」

「……あの、すみません、僕まだ習ってなくて……」

「習わなければ出来ないのか? ……俺が貴様の頃にはこれくらい家庭教師に習わずとも全て読めていたが?」


 黙れ完璧人間が!と罵りかけたプリシラは唇を噛み締めて耐えた。かわいそうにベルフェゴールは生来白い肌が更に血の気を失っている。


 震えて今にも泣きそうな顔は、彼をあいいとおしく思っているプリシラでなくとも庇護欲を誘うのに充分なのに、冷血漢は追及の手をやめる気配は全くない。


 まだ彼に対処する方法を知らないのだろう。

 唇を震わせて涙を我慢しながら、受け答えをしている。


 自身が世界の中心で基準だと考えるなどなんという傲慢か、とプリシラは七歳の子供を虐める最低な皇子に歩み寄った。


「―――ベル」

「ね、ねぇさま」


 きらりと涙目のベルフェゴールに既に風前の灯だったルシファーの評価は塵と消えた。


「いらっしゃい。ごめんなさいね、お客様・・・のお相手を貴方に任せてしまって」


 楽しませる事が出来なくてごめんなさい、と謝ってくるベルフェゴールを抱きしめて、グレイスへと押しやる。


「グレイスからお茶を貰いなさい。お客様・・・のお相手は私が致します。……グレイス、ベルをお願いね」

「かしこまりました、プリシラ様」


 彼女がベルフェゴールを連れて行き、最近よくお茶をする温室の一角に連れて行ったのを見とどけてから、ルシファーへと向き直った。

 眉間に皺が寄りすぎだ。

 何がそんなに不機嫌なのかと問いたい。

 プリシラから言わせれば、あれほど可愛い弟と二人っきりでいられるだけでこの世の天国だと思わないほうがどうかしているのだ。


「貴様並みに貴様の弟は出来が悪いな。俺は頭の出来がよくない奴は嫌いだ」

「そうですか」


 ベルフェゴールの悪口にぐ、と耐えて辛うじて答える。プリシラはルシファーを真っ直ぐに見下げた。まだ彼はプリシラよりも背丈が低い。


「私も……私より背丈の低い男性は好みではありませんので、同じですね」

「な……っ」


 顔を紅くした彼が怒鳴るより前に、プリシラは温室の中のある植物を指し示した。慌てたように追いかけてくる気配がする。


「お客様はこちらの花をご存知でしょうか」


 プリシラは真っ赤に咲いている花を見せる。


「アンスリュームといいます。熱帯に咲く花で根から茎をだして成長するのです」

「そんなこと常識だろう」


 追いついてきたルシファーが見下したように言ってくる。プリシラは次に言いかけた言葉を押し留め、ではと口を開いた。


「あれは、アスパラガス、あちらはチューリップ、あれはポトス、スパティフィラム、ストレチア―――ああ、賢いお客様にはどれがどの名前でどのような場所で育つかも全て常識なのでしょうから説明は不要ですね」


 プリシラはこの嫌なお客様・・・がベルフェゴールとの憩いの場に存在する事は酷い侮辱のような気がし始めていた。同じ空気も吸いたくない、と言い放ちたい。


「ではお客様・・・。ベルフェゴールの元へと帰りましょうか」

「おい、これは何だ」

「……それは」


 ルシファーが聞いてきたのは、例の鉢植えだった。ベルフェゴールが大切に育てている鉢植えだ。この男の視界に入る事が不愉快すぎる。

 プリシラは答えるかを躊躇った。


「それは、僕が育ててるんですよ」

「ベル」


 気づかない間にベルフェゴールが側に来ていた。グレイスを探すも、植物達の影で分からない。

 怖いだろうに、必死に笑顔でいるベルフェゴールに、プリシラはいくら不愉快だろうと対応が悪かったと反省した。どんな相手であろうとも、平等に対応することこそ、大人である。悪口など以ての外。

 ベルフェゴールの前では尊敬できる姉でありたいのだ。


「お前が? はっ、枯らすんじゃないのか?」


 前言撤回。

 削いでやりたい。どこを、とは言わない。ナニを、だ。


「何回か枯らした事もあるけど、でもやっとここまで育てられてたんです」


 ベルフェゴールがはっきりとルシファーに何か物を言うのをプリシラは初めて見た。怖いと思っている相手に強く自分の意見が言えるのは、やはりこの植物に思い入れがあるからだろう。


「こんなものを育てて何が面白い? 面倒なだけだろう」

「成長するのを少しずつ見ていくのが楽しいんです……っ! 毎日、違う顔を見せてくれるんです!」

「植物に顔なんてない。ただの錯覚だ。根暗な奴の考えていることは分からんな」


 ぐぐ、とプリシラは拳を握る。ベルフェゴールが頑張っているのに口を出してはならない。皇子に手を出すなど、言語同断。


「……花が咲いた時にはとても感動するんです」


 振り絞るように言った言葉にプリシラはその通りよ!この馬鹿のわからずや!と言い放ってベルフェゴールを今すぐこの男の目の届かない場所へ連れて行きたい、と思う。


「花?……そんなもの、こうすれば早いだろう。【成長グロウ】」

「っ?! やめてっ!!!」


 彼が嘲笑して口にした単語に気づき、慌てて静止しようとするも―――既に遅かった。

 プリシラとベルフェゴールの目の前で、ぐんぐんとその茎を成長させ、葉が伸び、蕾が出来て紅い花が次々に咲き、散り―――


「もう枯れたのか? 早すぎないか?」

「……ぜけんな」

「どうだ? 既に俺は短縮魔法も使え―――」


 無神経な言葉にプリシラは感情のまま、思いっきり、右手を振り上げた。どんなに優れた天才であろうと、時を戻す魔法は使えない。ベルフェゴールの植物は戻らない。


 驚いているベルフェゴールを眼の端にいれるも、右手は止まらない。


「……お止めください、プリシラ様」


 ―――しかし、その手はルシファーの護衛に止められてしまった。ただの令嬢でしかないプリシラの平手打ちを止めることなど、皇子の護衛・・には簡単だっただろう。


 その行為はプリシラの怒りに油を注ぐのに充分だった。


 どれほどプリシラが今まで罵られようと、何もしなかったのに、先ほど肩を掴まれた時にも何も言わなかったのに、なぜ、今、この時に。


「離して」

「無理です。貴女はそのまま殴りかかるでしょう」

「離しなさい! どけて! 嫌よ! 離して! その男を叩かなければ気がすまないわ! 私は我慢した! これ以上は無理よ! よくも、よくも―――ベルの植木鉢を、ベルが大切にしていた植物を、よくも―――どけなさい、この手を! 今すぐに! 私を誰だと思ってるの!? 私はシャマーラ公爵家令嬢、プリシラ・シャマーラよ! お前程度が触れて良い訳ないでしょう?!」


 怒りで前が見えない。同い年の最低無神経男を殴る事しか、頭にない。


「はっ! 二人っきりの時の本性!? 陛下の前ではああ言ったけど、貴方はいつだってこいつの側にいたじゃない! 護衛が皇子の側を離れる訳ないじゃない! 何度も私へのこいつの態度を見てきたじゃない! 一度も、口を挟まなかったわ! 石像だって言った事を逆恨みしてるの!? そうだって答えたじゃない! さっきまでそうだったじゃない! 今だってそうしてよ! 私のことなんて完全に無視して、今まで通り、黙って、突っ立ったままで、私にそいつを殴らせて!!!」

「私は殿下の護衛も頼まれています―――暴力を振るうなら止めなければなりません」

「それがどうしたの!? 眼を瞑りなさいよ! 私が殴ったからって、大して傷はつかないわよ! いつも私が何を言われようと邪魔しなかったのに!! どうして、今……っ!」

「無理です、プリシラ様。貴方では私には勝てない。殿下を殴る事は諦めてください」


 翡翠色の瞳を睨みつけた。


「―――プリシラ! プリシラ、何をしている!?」

「お、とうさま……っ」


 父親の言葉に我に返った。何人かの足音が温室に響く。

 手から力が抜けた。

 護衛は警戒しつつも、プリシラから手を離した。

 ルシファーは驚愕に目を見開いてこちらを見ている。整ったその顔を見るとふつふつと怒りが沸いてくるが、父の後ろにグレイスとソレルも一緒なのを見て少し落ち着いた。たぶんプリシラの堪忍袋が切れそうなのに気づいて、呼びに行ってくれたのだろう。


 植木鉢を抱える弟を後ろに、今にも皇子に殴りかかりそうだった娘、皇子を守っている護衛。


 いつだってこの男は守られる。信用される。こいつはどうせ罰を受けず、プリシラが責められられるのだ。知っていたから文句など今まで言わなかった。


 だが、許せるかどうかは別だった。


 全身が怒りの炎で焼き切れそうだ、とプリシラは何処か別のところで思う。


「プリシラ、お前……」

「もう、いいわ。もう、いい……謝罪なんていらないわ」


 プリシラは冷たく、ルシファーに言い放った。意外にも、酷く落ち着いた声が出た。


 誰かの息を呑む音がする。


 どれほど父に怒られる事になろうといっそ構わなかった。今言わなければ必ず後悔することになる。


「貴方の謝罪がどれほど私とベルフェゴールの気持ちを慰めるの? 植物魔法で成長は出来ても時を戻す事は出来ない―――貴方は私の弟、ベルフェゴールの努力を踏みにじり、あまつさえ、その後、自慢して優越感に浸ろうとした。貴方自身の何がそんなに偉いの? 三つも下の子供を蔑み、馬鹿にして優越感に浸るような下賎な貴方のどこがそんなに偉いのよ?! 最低だわ、最低だわ! 女性の、扱い方も知らない、下賤な、男共が……っ!」


 何かを言おうと口を開きかけたルシファーをプリシラは睨みつけた。びくり、と彼が口を閉じたのを見て、ベルフェゴールの手を握り締め、プリシラは意識して笑顔を作った。


「―――二度と貴方方の顔なんて見たくない。お帰りください、お客様・・・。二度と、私達兄弟の前に現れないで」


プリシラの怒りの炎が燃え上がりました。

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