『怠惰』のベルフェゴール
驚いて声をあげた二人にプリシラは話を続けた。
「なら、サタンの事を話すわね。陛下の事を誤解されるのは個人的にも嫌だから」
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サタンは憤怒を司ってるわ。サタンというと私達は陛下を思い出すけど、もう一人いるでしょ。陛下のサタンという名だけど、たぶんこのサタンから取ったのね。え、分からない?
……世界の始まりのサタンよ!
世界の始まり、この国の始まりを作ったっていう、サタン。悪魔とか神とか言われてる、あのサタンよ。なんで分からないのよ、あんなにお兄様に読んでもらったじゃない。
ヒロインに惚れて、ロリコンだって騒がれるサタンは、この始まりの時のサタンよ。
偶々ヒロインが旅行先で見つけた犬がそれで、学園生活で寂しかったから連れ帰って世話をしてたら男性に変化だったかしら。
もしこれからヒロインが現れて、黒い犬と一緒だったら近づかない方がいいわよ。それ、黒い犬じゃなくて狼だし、後、動物でもないし。人間嫌いで怒って噛みつかれるから。特に男は嫌いなんですって。それってタダの女好きよね。
だから、陛下はロリコンじゃないし、ヒロインの相手役でもないわ。
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話を締めくくれば、ソレルは真顔で手を上げていた。
「突っ込みどころ満載なんですけど」
「そういうものとして流しなさいよ。これ以上、色々言ったらソレル、貴方自分の頭が破裂しかねないって思わない?」
「ベルフェゴール様はっ? ベルフェゴール様も、ヒロインの相手役、です?」
「ああ……そう言えば、ベルの事もあったわね……。結論から言えば、そうよ。司ってるのは『怠惰』。『怠惰』のベルフェゴール」
プリシラの弟の名前はベルフェゴール。
3つ年下で『怠惰』の名を司る、攻略対象者だ。ゲームでは薬草と魔法オタクで、顔を前髪で隠し、根暗なスチルだった。
プリシラは弟が攻略対象者だと知った時、さもあらんと思った。
茶髪に碧眼というありふれた色合いであるにも関わらず、相当に整った顔立ちなのだ。
7歳でありながら、プリシラと同じ歳のご令嬢が夢中になっている程の容姿。攻略対象者であっても不思議ではない。
ゲームの時に魅力としてあげられるのは顔だけではなく、彼の独特の雰囲気もだった。
ただ。
「怠惰って、え、ベルフェゴール様が? そんなこと全然ないじゃないですか」
「ベルフェゴール様、可愛い、です! プリシラ様、ベルフェゴール様、怠惰違う!です!」
怪訝な顔と抗議の顔。
2人の表情に「まあね」と同意した。
ベルフェゴールが怠惰になるのは、完璧嫌味人間ルシファーが姉の婚約者として側にいたからだ。
何でも出来て、カリスマ性もあるルシファーに劣等感を抱くのは普通のことだ。それなら別に放っておく。もう婚約者ではないから。
だが、それが実の姉に幼少からルシファーと比べられて虐められ———プリシラのことだ———自分を守る為に「やってないから出来ない」と言い訳が出来るように、面倒くさい、と色々逃げている内にそれが癖になってしまった、という顛末がなければ、である。
「プリシラ様、酷い……」
グレイス達から批判の目を向けられ、プリシラは決まり悪げにこほん、と咳をした。
「まだギリギリ間に合うわよ、たぶん……ルシファー様とは縁を切ったんだし、これからめいいっぱい可愛い大好きな弟を可愛がることにするわ」
グレイスに先触れを出して、と頼んだ。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
「……おねぇさま?」
7歳のベルフェゴールが小首を傾げて、プリシラを見上げた。
———ああああもおおおお、可愛いいいいい!!!
「……ベル、今日は貴方と遊ぶことにしたわ」
驚いて目を見張る弟にプリシラは口元を引き結んだ。
三ヶ月前に真面目に勉強などに取り組むようになったとはいえ、ベルフェゴールとの関係は殆ど以前のままと言っていい。というよりも、家族関係は今までを思って遠慮がある。
彼らも変わったプリシラをどう扱っていいのかと距離があるのだ。
まだ以前の方が遠慮なく甘えられていた為、家族としての距離は近かった、とプリシラは思う。
「ベルは本が好きだから、図書室に行きましょうか。それとも、庭に植物図鑑を持って来て照らし合わせてみる? ベルは賢いから私も色々教えて欲しいと思っていたのよ。魔法も素敵よね、どんなことが出来るか考えてみましょうか」
驚いてすぐ、困惑、そして怯えを宿した瞳に尻込みして色々とまくし立てた。ベルフェゴールはそろそろと視線を上げて言った。
「……おねぇさまが……したいことで、いい」
「ベルがしたいことは何? 私が聞いてるのはそれよ?」
「……でも」
困ったように眉を下げる彼にプリシラは胸が痛んだ。怯えられている。
ルシファーとの能力の差をあげつらって、馬鹿にし、見下し、いじめて来たのだ。怖いのは当然である。
一緒に遊ぶ前にやることがあるだろう、とプリシラは腹に力を入れた。怖かった。腹の中がひっくり返るような思いがする。
愛する家族の為なら馬鹿馬鹿しいプライドなど捨てるべき。
プリシラはベルフェゴールの前にしゃがみ込み、長く伸ばされた前髪に隠れた彼の瞳を覗き込んだ。怯えて二三歩、後ろに下がったベルフェゴールの胸元辺りと瞳を視線が行き来する。
「……ね、ねぇさま……?」
「……ごめんなさい」
「———っ!?」
一度謝るとプリシラは止まらなくなった。
「ごめんなさい、ベル。本当にごめんなさい。私が悪かったわ。お姉様はとても出来が悪いから、貴方ともルシファー様とも、お兄様とも違って、私は出来が悪いから……っ! 貴方とルシファー様は別人で出来ることも違うんだって、分かってるのに理解してなかったのよ……っ! ごめんね、ベル、ごめんなさい。嫉妬してたの、八つ当たりしてたの、私、本当に、本当にごめ……っ」
「ねぇさま!!」
ベルフェゴールの大きな声にハッとして、いつの間にか俯いていた顔を上げた。
「ねぇさま、あの、大丈夫ですか。 どこか、痛いの……?」
小さな手がプリシラの頬に伸ばされ、水を払う。泣いていたことに気づき、プリシラは首を振った。涙は止まらない。
「ねぇさま……あの」
プリシラ自身、何をそんなに悲しんでいるのかと叱咤する。こんなはずではなかった。グレイスとソレル達にしたように、反省しても後悔はしていないと言ってのけるはずだった。
自分を虐めていた姉が急に手の平を返したかのように謝ってきたのを不審に思っているだろう。今だって何を言われるか、されるかと怯えている。
それでもプリシラが泣いていたら、涙を拭ってくれることに、プリシラは胸を突き上げるものを感じ———感情のまま、ベルフェゴールに抱きついた。
「……っ、ね、ねぇさま?」
「ベル、ベル。愛してるわ。大好きよ。貴方は本当に賢くて優しい。嫌いな姉の涙なんて拭う必要なんてないのよ」
抱きしめ返してはくれない。戸惑っているのが分かる。プリシラは一度も、物心ついてからのベルフェゴールを抱きしめたことがないのだから。
「ルシファー様なんて、一度泣いた時『汚いから寄るな』って言ったんだから」
ルシファーの名を出せば、ベルフェゴールは腕の中でビクリと身体を震わせた。トラウマになっている。プリシラのせいだ。
「……馬鹿ね、本当に馬鹿だわ。貴方のような可愛い弟に恥ずかしいなんていう馬鹿馬鹿しいプライドで言えなかったなんて」
弟が出来て嬉しかった。可愛かった。でも、プリシラは素直になんてなれなかった。家族が自分ではない子を可愛がるのは嫌だった。
別世界から言えば、それはよくある兄弟間の嫉妬だそうだ。だが、やりすぎた感は否めない。
ルシファーが酷い言葉をいえば、自分より弱い立場のベルフェゴールやグレイス、ソレル達に八つ当たりした。そんな事は、別世界でも普通はないことだった。
「貴方が私をこれからも嫌ったって、私は貴方を愛し続けるわ。弟だもの、私が愛するのは許しなさいよ。それは私の気持ちで、私の物だから。これからは出来る限り、貴方に気持ちを伝えるわ。お姉様は頑張ります。貴方が私を愛してくれるよう、頑張るわ。———努力することを許してね、我儘な姉を、許してちょうだい」
愛してる、また来るわ、プリシラはもう一度、硬直しているプリシラよりも小さな身体を抱きしめて、部屋を立ち去った。
周りにいた使用人達が驚愕に立ちすくんでいたのを、部屋に帰ってからグレイスとソレル達に聞かせると、ソレルから「そりゃそうでしょ」という言葉と共に溜息を吐かれた。
ちょっと腹が立ったのでソレルにでこピンを食らわし「明日から弟に愛される姉を頑張るわ!」と高らかに宣言したところ、グレイスから賞賛の拍手を頂いた。
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プリシラは宣言どおり、翌日からベルフェゴールの元へ通い続けた。
怯えも警戒も残っていたが、それでもだんだんベルフェゴールとプリシラの間にあった溝は埋まっていっていると手ごたえを感じている。
色々と話をするも一定の距離を保っていたベルフェゴールがプリシラへ、傍目から見ても心を開き始めたのは植物の話をしてからだった。
ゲームの設定どおり、彼は植物と魔法を愛していた。その愛情は5歳ながらに留まる事を知らず、使用人達からも距離を置かれていたようだとグレイスとソレルからプリシラは聞いた。
初めはプリシラもその知識と愛の深さに驚いたが、ただ、流石は姉弟と言うべきか。プリシラは全く怯むことも退くこともなかった。
「ベル、これは食べられるわよ」
「ねぇさま。これは食べられないよ」
首を振るベルフェゴールに構わず、プリシラは別世界にあるものとそっくりの花を手にし、知識どおりに蜜部分を切り離して口に含んだ。
「あっ」
プリシラの口の中に甘味が広がる。甘すぎない味は砂糖とは違って、舌に残るものではない。
知識にはあっても始めて食べる蜜にプリシラは驚いた。
「美味しいわね……ベル、これは美味しいわよ。ほら、やってみなさい。グレイスとソレルもあげるわ」
全員に蜜を渡してから、プリシラは再びその蜜を手にして口に含んだ。
美味しい。
他に何かないかとプリシラは探す。改めて世界を見ると、別世界とプリシラの世界の物は大半が一緒だった。流石に『ネットスラング』と呼ばれる物は言語として存在していないが、植物も動物も食べ物の名も同じである。
「多分だけど、これは『スイカズラ』って言うんじゃない? 蜜を吸うからスイカズラって言うのよ」
「ねぇさま、これ美味しい!」
「プリシラ様、これ、甘い!」
「……美味いですね……」
喜びの声をあげた三人にプリシラは嬉しくなる。でも、眼を輝かせているベルフェゴールに注意をすることは忘れない。
「ああ、でも。何でもかんでも食べては駄目よ、ベル。毒の場合もあるから。安全が保障されてから食べなさいね」
三人が揃って微妙な表情でプリシラを見た。
「お嬢様が言っても説得力皆無ですね……」
「私はいいのよ」
ソレルが口にした科白を受け流す。
ベルフェゴールは温室に他国の珍しい植物を育てている。
温室の片隅の小さな植木鉢には数センチほどの茎が伸びていて、一年ほど前に貰ったのを試行錯誤しながら育てているのだという。
育て方もよく分からないまま、よくここまで育て上げたと感動した。
綺麗な花が咲くというからとても楽しみだとプリシラはベルフェゴールと一緒に花が咲くのを楽しみに一日一日、成長を見守っている。
ベルフェゴールの勤勉さは素晴らしく、プリシラにその植物の成長日記を見せてくれた。日記にはその日の天気や気温、どれほど水をあげたか、芽が出てからは毎日どれほど伸びているかなどが詳細に記されていた。
あまりの素晴らしい出来に思わず抱きしめて褒めちぎる事しかできず、プリシラは己の表現力のなさに落ち込んだ。
その植物はまた少し、その背丈を伸ばした気がする。
「ねぇさま、また大きくなったんだよ!」
プリシラがそれを見ているのに気づいたベルフェゴールが近くに寄ってきて嬉しそうに報告した。
「そうみたいね。ベルが大切に育ててるからだわ」
頬を染めて嬉しそうにするベルにプリシラも嬉しくなる。
こうして笑顔で話してくれるようになるまでもかなりの時間を要した。
プリシラは少なくとも三ヶ月前までより、確実にベルフェゴールに好かれていると断言出来る。
「花が咲くのが楽しみね」
「はいっ!」
―――まさか数週間後、それが叶わなくなるとは思っていなかった。