【暇潰しにはなりそうだ 】
「何だって俺がこんな……」
理不尽な事この上ない。
俺は憤りに奥歯を噛み締めながら、廊下を歩く。
シャマーラ公爵令嬢───現在、俺へ初めてといえる屈辱を味わわせた元婚約者だ。
初めて会ったのは五歳の時。
婚約者として引き合わされた。クリームイエローの髪は他の令嬢と同じように巻かれている、瑠璃色の瞳をした少女だった。
彼女は他の令嬢と全く変わらなかった。俺を一目見て恋に落ちた事など、その場で分かった。貴族同士の醜い関係を俺は知っていた。
恋や愛など儚く、何より信用が出来ない。俺は初めから興味がないことを彼女に告げた。
瑠璃色が悲しみに染まり、一層その蒼を濃くしたことが印象的で今でも覚えている。
ただ、彼女は他の令嬢と違った───その自意識の高さにおいて。
どうしてそこまで思い込めるか分からないが、彼女の中で俺が彼女に惚れることは決定事項らしかった。
恋情を向けられる事に始めは悪い気はしていなかったが、段々と本気で鬱陶しく思い始めた。
彼女は嫉妬深く、熱かった。
俺が彼女に惚れていたのなら問題はなかったのかもしれないが、俺は全く彼女にその気は起きなかった。だからこそ、鬱陶しく思い始めたのだろう。
初めに「婚約者として認めていない」と告げた時に反論しなかったことを思い出し、俺は完全無視を決め込んだ。
それでも話し続ける彼女に時折、返事をすることはあるが、心篭った言葉をかけたことは一度もない。
どれだけ酷い扱いをしても、彼女の瞳から俺への恋情が消える事はなかった。
この女は何をしようと俺を肯定し続けるんだな、と鬱陶しいだけではなく、気味悪く思い始めた。
彼女は俺が何を言おうと少し目を見開くだけで、笑顔になっていた。そして、その口から家族の悪口を言い始める。女の変わり身の早さを既に身に着けている彼女は俺の嫌いな貴族令嬢そのままだった。
それを。
「好きな方が出来たのですね」
と言われて動揺していたのも理由だ。
街で出会った少女のことを彼女が知っているはずがない。それなのにまるで少女を知っているかのように断言された。笑い声をあげた彼女は壊れているのか、とも思ったのだ。
―――私とルシファー様の婚約を取り消してくださいませ
なんの冗談かと思って、暫くは何を言われたのか分からなかった。
父上と城に帰る道中に「好きな子が出来たというのは本当か」と言われて、言葉に詰まった。彼女が言う『好きな方』というのには心当たりがあった。だが、彼女がそれを知っているはずはない。
アスモデウスの護衛をすり抜け、城を抜け出した秘密の家出で出会った少女。
彼女はイシータと名乗った。
明るく、素朴な少女は貴族の者達のように嫌な匂いをさせていなかった。
彼女の笑顔を見るだけで満足し、幸せになった。初めての気持ちに戸惑い困惑したが、恋だと確信した時には既に遅かった。
彼女は家の事情で引越していた。
彼女は俺に幸運を与えてくれるという四つ葉のクローバーを渡して「また会おうね」という言葉を残して、俺の前から消えてしまった。思えば、彼女は引っ越すことを知っていたのだろう。
その数日後にシャマーラ公爵令嬢と会う事になったために、父上達の前で繕う事を忘れてしまっていた。
三ヶ月前、彼女は意識不明に陥ったらしい。
始めて聞いた、と言えば「伝えましたが」とアスモデウスから言われた。
三ヶ月前というと、ちょうどイシータと会った頃のことだ。
彼女の事ばかりを考えていて、他の事は聞き流していた。まだ三ヶ月しか経っていなかったのか、と驚き、行きの馬車の中で俺はイシータのことを想っていた。帰りの馬車の中では、シャマーラ嬢の衝撃発言に考える余裕が無かった。
城に帰り、父上からの質問に答え、自室に戻り―――ようやく、彼女との婚約が破棄されるかもしれないと理解した。
瞬時に湧き上がったのは喜びだった。
イシータがあのまま引越しをせず、気持ちを伝えたとして。決められた婚約者の存在を知った彼女が心を痛めないかと危惧していた。令嬢がどれほど俺に惚れているのか、きっとイシータは理解していない。だから、彼女は自分ばかりが俺に惚れられていることを自慢に思わず、令嬢を思って泣く事だろう。その心配がなくなったのだ。愛妾にし、ゆくゆくは皇子を産んでもらえばいい。もっと力をつけ、将来イシータを探そう。俺の夢は広がった。
だが、事はそう上手くはいかなかった。
これほど皇子という立場を面倒だと思ったことはない。父上達は婚約破棄を認めたのに、俺は彼女に会う必要があった。婚約者候補だからだそうだ。
「ルシファー。謝罪をしてくるのだ」
と父上から言われたが、何故俺が謝罪をしなければならないのか分からない。
公爵家から持ってきた縁談を一存で蹴った令嬢こそ、俺に謝罪をするべきだ。
俺は数日考えて、彼女は俺の気を惹きたいが為にこのようなことを言い出したのだろう、と結論を出していた。
俺が彼女に気があるという勘違いをしているのなら、そういう子供っぽい事を言い出しても可笑しくない。公爵家としての自覚など、あの令嬢にはないだろう。
父上から、これからは他の令嬢達とも交流を深めていかなければならない、と聞かされて俺は面倒だと思った。
そして思いついた。
彼女は俺に惚れている。
なら、イシータが見つかるまで彼女を婚約者としておけば、俺の面倒はなくなるのではないか。そうすれば、俺は他の令嬢と会う手間が省け、彼女は俺の婚約者としていられる。両方に得のある話だ。
婚約者候補として会って数分後、俺は令嬢が普段と違う態度に酷く戸惑うことになる。
笑顔もなく、話しかけられることもない。
彼女の声を聞いたのは初めに「本日はどうぞよろしくお願いいたします」の一言のみ。それから、彼女は窓辺の椅子に腰掛け、俺に背を向けて熱心に手元で何かをしている。時折、窓の外を見ているくらいだ。
婚約者にもう一度戻してやろう、という一言を言うために話しかけるが、眼も合わない。
普段なら、彼女が俺と眼を合わせようと躍起になるのに、これでは普段とは逆だ。苛々する。
「凡人のわたくしが非凡な才能をお持ちのルシファー様相手にお話相手になるなどそのような傲慢な考えは持ち合わせてなどおりません素晴らしき慧眼をお持ちの高貴なルシファー様でしたら取るに足らないわたくしの手紙の相手を類推することなど息を吸うように簡単なのでしょうね」
流れるような敬語を一息で言われた。その声に含まれる拒絶の意思に俺はたじろいだ。
「申し訳ありません、ルシファー様。わたくし、会話が苦手なのです。殿方が喜ぶような会話技術はまだ会得しておりませんの。高貴なルシファー様のお耳を汚すことにもなりかねませんので、口を閉じる事に致します」
取り付く島も無い声に為す術なく、俺は戻った。
俺の気を惹こうというのなら、彼女は全く見当違いをしている。無礼な態度に憤りがこみ上げるが、この場にいるのは公爵家の使用人ばかり。アスモデウスが側にいつも通り控えている以外は、俺側の人間はいない。あまり俺のイメージを崩す訳にはいかなかった為に、俺は黙って本を読むしかなかった。
婚約者の時とは違い、沈黙が酷く重苦しく感じる。今までもここでずっと本を読んで過ごしていたのに、これほど重苦しい沈黙は初めてだった。何故こうも違うのか。
嫌な沈黙が支配する部屋の均衡を崩したのは、彼女の弟―――ベルフェゴールだった。
始めて挨拶された時は、姉とは違い、大人しそうな少年だと思った。
植物が好きで温室に篭っている根暗な奴で、魔法の才能があって嫌味で嫌いだ、と彼女は嬉々として話していた。
他にも、甘いものが好きだからいつも私が代わりにそれを取るのだ、とか、弟の好きそうな本を先に読んで最後のオチまで話すのだ、とか弟を虐めるのが好きだという話を三日にかけて語られた事があるため、こんな最悪な姉を持つ可哀想な奴という印象はある。
姉は鬱陶しかったが、弟は苛々させる態度を取る。
何が怖いのか俺を見ると怯えたように身を竦ませるのだ。分厚い本を抱えて、少年は俺を怯えた目で見つめた。
時々、婚約者時代にもこうして俺と彼女が一緒の時に入ってくる事があったが「ルシファー様と私の邪魔をしないでよ!」と彼女が追い出していた。今回もそうだろう、と思っていたのだが。
「ルシファー様、こんにちは……。ベルフェゴールです。ルシファー様がいらっしゃっているとは知らなくて……」
「別にいい」
これはどういうことだ、と誰かに叫びたくなった。
彼女はあれ程厭っていた弟を俺が一度も見た事のない程の微笑で迎え入れ、侍女の一人にお茶を用意させよ、と命令した。
そして、俺に挨拶をしなさい、と姉らしく言った。
側に控えていたアスモデウスからも、困惑の気配が伝わってくる。
動揺を悟られたくなくて、短い言葉で答えれば、ベルフェゴールは会釈した。
その後も、彼女は全く違う態度で弟と対応した。そして、俺を無視して二人で温室に行こうと言う話になっていた。本気で俺を置いていく気配に先ほどからずっと苛々していた気持ちが爆発して、彼女の腕を掴んだ。
俺を視界に入れた途端、彼女から表情が消えた。声に感情が篭ることなく、弟に案内を任せた。俺は弟に案内をされながら、廊下を歩く。
「……随分と貴様の姉は変わったな。何をしたんだ?」
「えっ、僕は……何も……」
あれほど劇的に変わるなど、薬でも盛ったかと思う。勿論、公爵家がそんなことはしないだろうが。
「貴様を嫌いだと俺に言っていたんだが、随分と今日は違う態度だっただろう?」
「えっ……」
隣を歩いていた弟はぴたりと止まった。置いていきそうになって振り向くが、俯いた顔で何も分からない。アスモデウスは俺に非難の眼を向けているが、その意味が分からない。お前も聞いていただろう。
「あの……ねぇさまが……本当に」
「そうだ。根暗だとか魔法の才があって嫌味だとかな。虐めるのが好きだとも言っていたぞ」
肩を小刻みに震わせて少年は小さく尋ねてきたのに正直に答えた。
「俺はもう一度、婚約者になるつもりだ」
「……え……」
勢いよく顔をあげた瞳は大きく見開かれていた。当然だろう?と俺は笑った。
「貴様の姉のせいで、俺は他の令嬢達と会う必要が出てきた。貴様は分からないだろうが、貴族令嬢は面倒な生き物だ。俺のように何でも出来て、顔のいい奴にとっては特に、な。貴様の姉ともう一度、婚約者になればそういう面倒な手間が暫くなくなるだろう。そもそも、アレは俺の気をひきたいが為の演技だ。だから、協力しろ」
何があったのかは分からないが、彼女が弟に対していい印象を持たせようとしていることはさっきの態度で明白だった。俺に弟と仲良くする様子をみせて、嫉妬させようとでもいうのかもしれない。だが、俺はそんなことはしない。俺が弟と仲良くしている態度を見せれば、彼女は弟に嫉妬して俺への執着心を見せて化けの皮がはがれるだろう。
「あの、ルシファー様は……姉を好き、なのですか?」
「まさか。貴様はあの女を好きになる男がいると思うのか?」
彼の碧眼が陰を作る。何も言わないのを肯定と受け取って、温室への道を歩き出した。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
温室の植物はさすが公爵家といえる品揃えだった。王宮でも珍しい植物も多く存在していた。
しかし、それらを見るのはもう一度婚約をしてからだろうと俺は彼女の弟と親交を深めていた。話してみると、たどたどしいものの、彼女の弟とは思えない程にしっかりした賢さを備えていた。顔も見れるものだ。将来は俺までとはいかないが、相当モテるだろう。
幾つか植物を教えてもらったところで、ずっと持っている本を見せてもらった。
他国の言語で書かれた本は植物図鑑だ。
俺もこのくらいの歳には自主的に勉強して同じくらいに分厚い本を読んでいた。
弟に聞けば、まだ彼は習い始めたばかりだと言う。発破をかけるつもりで俺の話をした。
俺ほどの男を目標にすれば、彼の才能もきっと伸びる。
歴代最高の王として称えられている父上を目標にしている俺なのだから、と俺の完璧な助言に満足していると、彼女が現れた。
「いらっしゃい。ごめんなさいね、お客様のお相手を貴方に任せてしまって」
先程よりも、更に冷たい顔になって現れた。一体、この短い時間に何が起こったのかと驚く。
彼女は俺と弟との歓談を邪魔するためか、弟を侍女に渡した。
弟との話はそれなりに楽しめたが、彼女とでは有意義な時間は得られないだろう。まだ声の聞こえるところにいるかもしれない、と思い、弟にもう少し発破をかけることにした。
「貴様並みに貴様の弟は出来が悪いな。俺は頭の出来がよくない奴は嫌いだ」
こう言っておけば、俺に好かれるために更に精進する事だろう。
「そうですか」
だが、彼女の反応は全く思っていたものと違った。
「私も……私より背丈の低い男性は好みではありませんので、同じですね」
「な……っ」
イシータも俺より背が高かった。
密かに気にしていたことを言われ、頭に血が上る。しかし、怒鳴るよりも先に彼女は話をそらせてしまう。
反射的に答えてしまうと彼女は多くの花の名前を言って、最後に「ベルフェゴールの元へ帰りましょう」と告げた。
まだ彼女に婚約をもう一度結べ、と言っていないことと、このまま帰れば再びあの嫌な沈黙の部屋へ戻されると直感して目についた植木鉢について尋ねた。
彼女は先程と違い、若干説明するのを躊躇している。もう一度、尋ねようとしたところで侍女に連れて行かれたと思っていた弟が戻ってきて説明をしてくれた。
彼女が言っていた通り、弟は根暗な奴なのだと俺は理解した。
のんびりと植物が花を咲かすのを見るなど何が面白いのか分からない。
今、美しいものを手に入れたほうがずっと楽しいだろう。
アスモデウスはそういう成長するものなどが好きなところがあるので、話があうかもしれないが、俺の趣味ではない。俺と弟が話している間、彼女は黙って見守っていた。
きっと弟が俺と仲良くしていることに嫉妬しているのだろう。
「……花が咲いた時にはとても感動するんです」
少年が言った科白に、魔法授業で植物を育てる魔法をならったことを思い出した。
それも、俺は短縮魔法で行える。
花が見たいのなら見せてやろう、と【成長】を唱えた。
令嬢の背が低い発言への意趣返しも含まれていた。
数センチしか出ていなかった目が見る間に大きくなり、花が咲くも、一瞬にして枯れた。あまりの速さに、不満を漏らす。少し、魔力を込めすぎたようだ。家庭教師と共に行った時は、もっと長く見れたのに失敗した。だが、まあ、令嬢もこれで俺を馬鹿にはしないだろう。
驚きに眼を丸くしている少年を見て、俺の凄さが分かっただろうと笑った。貴様の目標は遥先へと進んでいるのだ。
「どうだ? 既に俺は短縮魔法も使え―――」
視界に入れていなかった彼女が手を振り上げているのが見えた。驚愕に身体が動かない。振り下ろされる手を見ていると、ぱしり、と彼女の手が止められた。
俺の護衛も兼ねているアスモデウスだった。
シャマーラ嬢はその顔を歪ませて叫んだ。痛切な叫びは衝撃だった。彼女が俺にこれほど声をあらげるところなど、一度としてみた事がなかった。それも、喜び以外の感情を表すなど初めてのことだ。
何を喚いているのか、俺は彼女の様子に驚いていて聞き取れなかった。
温室に何人かの足音が聞こえ、シャマーラ公爵が姿を現した。それを視界に入れて、彼女は怒りで焼ききれそうな程の眼で俺を射抜いた。それを見て、俺の知っている彼女ではないことを、この時漸く理解した。
「貴方の謝罪がどれほど私とベルフェゴールの気持ちを慰めるの? 植物魔法で成長は出来ても時を戻す事は出来ない―――貴方は私の弟、ベルフェゴールの努力を踏みにじり、あまつさえ、その後、自慢して優越感に浸ろうとした。貴方自身の何がそんなに偉いの? 三つも下の子供を蔑み、馬鹿にして優越感に浸るような下賎な貴方のどこがそんなに偉いのよ?! 最低だわ、最低だわ! 女性の、扱い方も知らない、下賤な、男共が……っ!」
それは違う、と俺は口にしようとした。
俺は下賎な男ではないし、彼の努力を踏みにじろうとした訳ではない。
しかし、彼女に睨みつけられて思わず、口を閉じた。憎悪ともいう激しい感情が真っ直ぐに向けられて、何も言えない。
「二度と、私達兄弟の前に現れないで」
そういった彼女は笑顔で。
婚約者候補になってから始めて、俺に向けられた笑顔は―――背筋が凍るほどに冷たい色をしていた。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
公爵は逃げ去った娘に関して、事情を聞いてから罰を与えると言って謝罪をした。
俺は呆然としたまま、城に帰った。
「―――謝罪をなさるべきかと存じます」
「その気味の悪い話し方をやめたら、話を続けてやる」
自室に足を踏み入れた瞬間、アスモデウスが言った科白に眉をあげながら答えた。
「……謝罪するべきだよ。彼女にも、弟にも」
彼が幼馴染としての口調になって言う。
「何故」
尋ねれば、彼は憮然とした溜息をついた。
「どう見てもお前が悪いよ。婚約者に対する態度じゃなかったのは確かだろう。彼女に悪い点があったからって、お前に落ち度がなかった訳じゃないんだから」
喧嘩両成敗だよ、と続けた後に「どっちも悪いなら、男から謝るべきだと俺は思うよ」という言葉は、重みがあった。さすが女の扱いに長けるゴート家に生まれただけある。だが、その主張は認められない。
「俺が悪いわけがないだろう。手を出したのはあっちだ。先にその事について謝罪すべきだ」
「そういう問題じゃないって……はぁ、なんでお前って女関係になるとそうまで不器用で頑なになるんだろうね」
「不器用な訳がないだろう!」
「彼女に対する態度は別として、弟の彼に対してはどうやってもお前に非があるよ」
ぐ、と俺は眉を寄せた。彼女が言っていた言葉を思い出す。
―――努力を踏みにじって!
「発破かけるにしてもアレは酷い。お前の性格を熟知してる俺だから分かったけど、普通分からないからね」
「何?」
「そもそも、お前を目標にするっていう前提が間違ってるよ」
「俺を目標にすることの何処が間違っている?」
態度も顔も能力も。どれをとっても俺より目標とするに相応しい人物は……父上や母上くらいしかいないだろう。同い年程度の人物として数えるなら、あの弟の周りを考えるに俺以外にはいない。
「……俺、今凄く面倒なことになってるから。お前の事に裂いてる時間がないんだよね」
眉間に皺を寄せて天井を仰ぎ見ている幼馴染にその悩みに思い至って、ああ、とそれを口にした。
「性欲か」
「そうはっきり言われると、どうかと思うけど。そうだよ。俺の性欲、日に日に増していくんだよ」
苦笑いで言っているが、彼は日に日にその顔を険しくさせていく。辛そうな幼馴染の様子は俺も気になっていた。
「俺はまだよく分からないが、辛いのか?」
精通はまだ俺にはきていない。一足早く、大人としての階段を昇ったアスモデウスは表情を暗くして頷いた。
「本当に誰でもいいからって思うよ。俺の家系は特殊だから、普通がどうなのかは知らないけど」
「ある程度、成長したら落ち着くと聞いたのだろう? 貴様の父上から」
彼の父は言ったらしい。いつかは落ち着く、と。
ゴート家の先祖は精霊だった、という話が残っている。色事に長けた精霊だったために、その影響をアスモデウスの血筋は受けているのだという。精霊など眉唾ものだが、実際実直で真面目だったアスモデウスが色事に強い関心を寄せている様を見るとあながち間違いではないのかもしれない。
「一日、数回は抜かないと治まってくれないんだよ。それも日増しに回数が増えていくんだ。もう病気だよ、病気。呪われてるって本気で思う。気持ち悪いよ、俺」
真面目だからこそ、色々と考え込む癖のあるアスモデウスは、だんだんと自身への嫌悪感が増しているようだった。
「だから、最近倒れるほど騎士訓練をしてるのか? 無理はするもんじゃないぞ」
「訓練してる日はそうでもないから」
眼を伏せて俺の心配に返した彼は、俺のことはいいから、と続けた。
「とにかく、謝ったほうがいいよ。俺も、謝りには行くつもりだし」
「アスが謝ることなど全く無いだろう!」
アスモデウスの言葉に驚いた。
「あるよ。……お前の態度は目に余るものがあったけど、言わなかったのは事実だからね。お前、彼女は何をしても嫌われないって思ってるだろう。今も」
「当たり前だ。あの女が俺を嫌う事なんてこれから一生ないだろう」
「そうは思えないよ。女性って結構変わりやすいんだって母に言われていたの、この間の彼女を見て思い出したんだ。彼女は変わったんだよ。今までとは違う方向に」
アスモデウスが深刻そうな顔で言う。確かに違っていたのは認めるが、あの惚れっぷりがそう簡単に変わるとは思えない。そもそも、俺を嫌う女はいないだろう。
「ちょっと会わなかったくらいで、あの女が俺のことを嫌うって? 本当にアスはそう思うのか?」
「……そう言われると、俺もちょっと自信がないよ。彼女のお前への執着心は普通じゃなかったから。けど……」
「なら確かめて来い」
なおも続けようとするアスモデウスに面白い事を思いついて、俺はニヤリと笑った。
「アス。貴様、シャマーラ令嬢を口説け。ついでに貴様が令嬢の婚約者になってもいいが……俺に惚れてないっていうなら、靡くだろう」
「はぁ?!」
「幸い、婚約は解消されてるからな。アスが口説いても問題ない。婚約者になったら、アスの悩みもシャマーラ令嬢に解消してもらえばいい。俺にしたって、婚約者候補達と会うのも、また側近に婚約者がとられるのは堪えられないっていう理由も出来るしな」
言いながら面白い、と思った。
靡かなければ、やはり俺の読み通り、俺の気を惹きたいが為に行っているってことだ。アスモデウスは俺が見ても、いい男に入る。大抵の令嬢なら、すぐに靡く事だろう。その心に特定の誰かが存在していなければ。
「嫌だよ。好きでもない女性にそんなこと、最低じゃないか」
「ちょっと手を握って、今まで慕っていましたって言ってくるだけで良い。貴様だったら令嬢の平手打ちくらい対処できるだろ」
「ルシファー!」
この面白い思いつきは存外いい気がしてきた。どうなるのか、見ものだ。
「自分でやればいいだろ!」
「何故俺がやらなきゃならないんだ? あんな女に会いたくない。それに貴様が言ったんだぞ? 俺をもう好きじゃないっていうのを言ったのは貴様だしな―――命令だ、やれ」
「―――ッ、何が起こっても、お前が責任取る気あるの!?」
「当然だ。俺が命令したんだ。何があろうと、俺が責任を取る」
悔し紛れの科白に俺はにやりと笑った。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
「……酷いな、どうしてこんな」
炎症とかぶれに塗れた肌と身体全体を包帯で巻かれ、掻き毟らないように手足に鎖が巻かれている。痒みに呻いて俺を認識していないらしいアスモデウスを見る。
「そう。これはお前がやったことだ。ルシファー」
「父上」
一緒に来ていた父を見上げた。俺と同じ紅色の瞳が俺を見下ろす。
「シャマーラ嬢は現在、部屋に篭っているそうだ。ショックのあまりに。……これが面白半分に部下を使って女性を襲わせた結果だ」
「襲わせるなんて、そんなことは……! 俺はただ……」
父の威圧が増した。見下ろされていた瞳が深くなったのに、背筋が凍る。これは本気で怒っている時だ。静かに怒りを押し殺して父は怒る。その分、怒りの持続は長い。
「俺はただ、なんだ? 言い訳など見苦しい。公爵との関係がどうという問題ではない。お前は男として、いや、人間として間違った事をしたのだ。シャマーラ嬢の侍従が彼女を守ったからこそ、表立った批判をすることは止めて貰っている。だが、彼女の心がどれほど傷ついたか。お前は彼女自身に謝罪することなく、アスモデウスを使った。最悪の方法で」
「俺は」
「婚約者候補として会わせる考えは甘かった。お前は性根から叩き直さなければならない。私達は甘すぎたようだ……覚悟しておけ、ルシファー。お前はシャマーラ嬢とアスモデウスに償いきれないことをしたのだ」
父はそういい残して、部屋を出て行った。
俺はアスモデウスの呻き声を聞きながら、何故こうなったのかを考える。
令嬢との勝負はこちらの完全なる負けといえる。負けたなら原因は何だったのか。
令嬢のことを見くびっていたのは確かだ。惚れた男の側近なら手酷いことはしないと高を括っていた。まさかこれほどの……拒絶をするとは。
俺はアスモデウスに「……すまない」と謝った。彼には聞こえていないだろうが、謝るしかない。
それから女についての勘———ゴート家直伝の特殊能力を軽く見ていたのも原因だ。アスモデウスは『彼女は変わった』と言っていた。今までの令嬢なら、こんなことはしなかった。実際、変わったのは間違いない。
俺に嫌われても構わない、と思ったのだろうか。
瞳を閉じて、激情を燃え上がらせた瑠璃色を思う。
あの瞳には俺への恋情ではなく、弟への愛情しか感じられなかった。あまりにも知っている彼女と違ったために、俺は動揺した。またあの瞳に相対すると思うと、足が竦んだ。
彼女に家族愛など存在しないと思っていたが、違ったのか。それとも。
「……すまない、アス」
今度は。
俺が直々に出迎えよう。
今回は俺の側近をこうまでした彼女にあいまみえることは見送るしかない。
父達は皆、彼女に同情的だ。会うにしても周りに誰かいる。それでは、彼女の本心を聞き出すのは至難する。ここまでした彼女だ。簡単に尻尾は掴ませないだろう。
しかし、俺の知っている彼女はアスモデウスに迫られたからといって部屋に引き籠る性格はしていない。俺に貞操を誓っていた彼女は、俺に心底惚れていた。この俺が気味が悪い程に。
まさか、ここまでするとは思っていなかったが、それも面白い。
俺の口角が上がる。
アスモデウスを拒絶したのは、俺にまだ惚れていることと同義だ。俺に嫌われてもいい、など彼女は思わない。惚れている相手に嫌われてもいいと思う女などいない。それにあれ程、悪口を言っていた弟の為に、俺の側近をこれほどの目に合わせる理由はないだろう。アスモデウスに迫られたなら、俺への想いを口にしておけばいいのだ。
ふっ、と、息を吐く。
向こうが俺の気を引きたいがためのこの茶番劇。
ここまでやるなら、俺は折れるまでとことん付き合ってやろう。
次に何を仕出かすのか、どうやって俺の気を惹くのか……イシータを探す力をつけるまでの暇潰しにはなりそうだ。
今度は、俺が勝つ。
ベッドの上で苦しむアスモデウスを見ながら、決意した。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
未だアスモデウスはベットで苦しんでいる。そして俺は令嬢と会うことを父から、というより、陛下から禁止された。アスモデウスに傷つけられたのだから、俺が会っても問題ないだろう、と思ったが、表沙汰にしない条件の一つだと聞かされれば承諾するしかなかった。
父が言った『再教育』は冗談ではなかったらしく、俺への教育は今まで以上に厳しくなっている。先程も「お前に新しい剣の師をつけた。今、訓練場にいるから挨拶に行ってこい」と言われた。
恐らく、更に厳しい剣の師なのだろう。後々、アスモデウスも参加すると言われたのだから間違いない。罰も兼ねているのだろう。
「殿下っ?!」
「ここに私の新しい剣の師がいると言われたが」
俺が現れたことに驚きの声をあげた一人の騎士に言えば、あー、と頷いた。
「そういうことっスか。なんか今日、機嫌がいいと思ったんスよね……今日からだったんスね……」
「おい?」
「はい。じゃあ、案内します。すごく張り切っていますから、しっかり扱いてくれますよ」
こっちです、と騎士は俺に道案内をしてくれる。入った訓練場は多くの騎士がいた。皆、俺に気づくと敬礼をして挨拶をしてくる。軽く返答をしつつ、周りを見ていると、前を歩いていた騎士が止まった。
そこにいた、剣を構えていた男に俺は目を丸くした。
「よォ、殿下。俺が殿下の新しい剣の師匠だ。陛下から、他の奴らよりも、よーく扱けって言われたから、遠慮なく、やらせてもらうぞ?」
「カクタス様、輝いてるっスね……」
「まぁな」
シャマーラ公爵家跡取り、カクタス・シャマーラ。
公爵の身分にありながら、平民上がりの騎士達からの信頼が厚いと聞いている。シャマーラ嬢の実兄。
父上、これは。
見下す顔に浮かぶ笑顔は、以前父上の狩に連れて行って貰った時に見た熊……狩をする者達、獲物を喰らう者達を思い起こさせた。
「これから楽しみだな。殿下」
血の気が引くのが分かった。
こいつ訳わかめ by作者
思考回路が謎過ぎて、物凄く苦労しました。
詳しくは活動報告に書きます。
他者視点第二弾は、皆さんお待ちかねのルシファー視点です。
とりあえず、肉体的な復讐は我らがシスコンがやってくれます。さすがお兄様だね!
次回も、急遽書き上げた第三弾他者視点です。