『ぷりん』とは何ですか?
プリシラはとても充実した日々を送っていた。
「それでね、ベル。お兄様が私を背負って走ってくれたのよ。凄く安心する背中だったわ。それに、私を背負ってるのに凄く早く走るのよ! 素敵よね。ベルは時々お兄様に稽古をつけてもらうんでしょう? だから知ってると思うけど、お兄様って細身に見えて、ちゃんと鍛えていて逞しいのよ。さすが、近衛騎士隊長様だわ。ベルもそう思うでしょ?」
「……そうですね」
プリシラはベルフェゴールとのお茶の時間を楽しみながら、先日兄と過ごした話をしていた。
「それから私が作ったサンドウィッチも美味しそうに食べてくれたのよ」
「えっ!? ねぇさまが作ったサンドウィッチ!?」
「え? ええ、そうよ。普通、料理って使用人がするから私が作ったなんて知ったら、お兄様から軽蔑されるんじゃないかと思って心配していたけど、そんなこと全然なかったわ。ちゃんとお兄様は全部召し上がってくれて、また食べたいって言ってくれたのよ。私、この間お父様にお願いしたら、また厨房を借りてもいいって許可を下さったのよ! お父様も私の作ったものを食べてみたいって仰ってくださったの。だから、美味しいって言ってもらえるように料理も頑張るわ」
料理なんて使用人が作るものだと、母には言われたが、プリシラは気にしなかった。しかも、どう説得したのか、数分父と席を外した母は戻ってきてから、プリシラに「プリシィ、頑張りなさいね」と言ってくれたので、母にも味わってもらえる料理を作れたらと思う。
「美味しいものを作って、今度お兄様へ差し入れをしようと計画してるのよ。あ、お兄様には秘密よ? 驚かせたいのよね。ちゃんと迷惑がかからないように休憩時間を見計らって行くつもりだから、怒られることはないと思うけど。その時はベルも一緒に行きましょうね!」
ベルフェゴールへ胸のうちで温めている秘密の計画を話したプリシラは、グレイスが淹れてくれたお茶を味わった。大好きな兄はきっとプリシラが来たのに驚くが「ありがとう、プリシラ」と笑ってくれる事だろう。それを想像するだけでプリシラの胸には幸せが満ち溢れる。
「……」
向かいに座るベルフェゴールから返事がない。
幸せな想像に浸っていたプリシラは、意識を弟に戻した。愛する弟ベルフェゴールは何故かむっつりと憮然とした表情だった。ティーカップは置かれ、お茶菓子へ手を伸ばす気配もない。
「どうしたのよ、ベル。お腹が痛いの? もしかして、体調が悪いのかしら。ならお医者様を呼ばないと……」
「ねぇさまっ!」
ベルフェゴールの体調が悪くなったのではないか、とプリシラがグレイスへと医者を呼びに行かせようかと口を開きかけたのをベルフェゴール自身が遮った。
「何? ベル」
「……んで」
聞き取れず、プリシラはベルフェゴールを見つめた。ベルフェゴールがとても悲しそうに顔を歪ませていることにプリシラは気づいて動揺した。
「べ、ベル……?」
「なんで兄上だけ! 僕もねぇさまの手料理食べたいです!」
「……え?」
「ずるい! さっきからお兄様、お兄様って……! 目の前にいるのは僕なのにっ!」
「まぁ……ベル」
可愛い嫉妬をする愛する弟ベルフェゴールにプリシラの頬は緩むしかない。筋肉が機能するはずが無い。天使の頬は赤く染まり、きっ、と睨みつけられるも、可愛いという感情しか浮かばない。
「ベルってば。可愛い」
「……っ、ねぇさまっ!」
「ベルにはお菓子を食べさせてあげる。勿論、私の手作りよ」
初めからそのつもりだったのだ。お茶請けのお菓子でも作って、ベルフェゴールに食べてもらおうと。ただ、兄には料理を、ベルフェゴールにはお菓子にしようと考えていただけで。
「最初からそういうつもりで……秘密にして驚かそうと思ってたけど、そう言われたら白状しなくちゃ。嫉妬されたお兄様が可哀想よ」
「えっ」
「……そうだわ。ベルも一緒に作らない? きっと楽しいわよ。今度お兄様も誘おうかしら。あ、でも……お兄様は忙しいから無理ね」
料理をすること事態、あまり貴族社会では受け入れられないだろう。女性が働く、ということは、貴族にとって使用人を雇うお金が無いという事。つまり、不名誉な事なのだ。跡取りである兄が妹の頼みとはいえ、使用人まがいの事をするのは受け入れられない事だろうし、それに時間もないだろう。
「やる」
「え?」
「僕、やるよ。ねぇさま。……兄上の代わりにはならないかもしれないけど」
最後に付け足された言葉にプリシラは眉を寄せた。意味が分からない内容だ。
「何言ってるの? ベルってば。お兄様の代わりって……お兄様はお兄様でしかないのよ。誰も成り代わる事は出来ないわ。そもそも、お兄様の代わりなんて誰も出来るはずないじゃないの。勿論、ベルの代わりもいないわよ。だってベルは私の弟で、私の弟であるベルフェゴールは貴方しかいないんだから」
それに、とプリシラは続けた。
「私は初めに貴方を誘ったのよ。お兄様は誘ってないわ。もしかしたら断られるかもしれないし……あっ、勿論ベルだって断っていいのよ?」
無理強いするつもりはない。天使の弟と一緒にお菓子作りなど、構図的にプリシラが楽しそうだからという理由なだけだ。
それよりも、手料理を食べたいとベルフェゴールが言ってくれたことの方が嬉しく重要だ。てっきり、ベルフェゴールは普通の貴族としてそんなことをする必要はないと思う派だと思っていた。
ゲームの中では、結構真面目な貴族だったから。
だからベルフェゴールにはお菓子を作ろうと思っていたが、積極的にベルフェゴールを誘うことはしなかったのだ。もし作って、そんなもの食べたくないと言われたら、その場でグレイスやソレルに渡すつもりだった。断られたその時にプリシラは自分が落ち込まない自信はなかったから。
それが、ベルフェゴール自身が食べたいと言ってくれたのだ。その興奮度合いは筆舌しがたいものがあった。
だから。
「ううん! 僕、ねぇさまと一緒にやってみたい!」
「じゃあ、今から厨房に行きましょう」
ベルフェゴールの気が変わらぬうちにと厨房へ向かう事を即決した。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
「お嬢様! お待ち申し上げておりましたよ!」
突然の申し出だったにも関わらず、料理長のシャンツァイは予想外に快く迎えてくれた。その様子に面食らってしまい、立ち止まる。
「さてさて、今日はどのようなご用件ですかいな!」
明るく笑う彼の声は高く、厨房に響く。その勢いに軽く押されてしまう。
「あ……っと、いいわ。私を待ち望んでいたその態度は評価するけど、どうしたのよ。以前と随分違うのね」
前回は食って掛かるような雰囲気もあったというのに、一体如何したのだと訝しげな視線を向ける。シャンツァイは恥ずかしげに頬を掻く仕草をした。
「いやァ、そう言われますと困りますかいね? 色々思うところがあったってことで、おひとつ」
「ふぅん、そうなの。まあ、私が料理を作るのを邪魔しないならどうでもいいわ。それで、今日はベルに食べさせてあげるお菓子を作りたいのよ。いいわね?」
驚いて目を丸くしシャンツァイを見るベルフェゴールへと視線をちらと向けて、挑むようにシャンツァイを見上げた。彼はベルフェゴールを視界に納め、細い目を更に細め首を上下させた。
「なるほど、なるほど……今回は弟君にですかいな」
「そうよ。お父様たちより先にベルに作るの。ベルとはお茶をする時に食べるものを作りたいから、お菓子よ。あっ、それから聞いてると思うけど、私これからも料理を習いに来るから。ちゃんと先生として教えられるようになっていてちょうだいね。下手に手を抜いたりしたら、お父様に言いつけてクビにしてもらうわ」
「……そ、それは……」
頬を引きつらせたシャンツァイに手を振って答えた。
「シャンツァイが教えなくたっていいわよ。貴方が料理長として忙しいのは知ってるわ。そもそも私、貴方達の料理を食べるのが毎日楽しみなんだから、私のことで手いっぱいになって味が落ちるのは許さないわ。貴方達の仕事は私に料理を教えることじゃないんだから、そこは履き違えないでちょうだいね」
「―――」
プリシラはここにいる料理人達を尊敬しているが、念のため、釘を刺しておく。
彼らの料理の味は家庭の味とは違うが、プリシラの馴染みの味である事は間違いない。その料理の味がプリシラのせいで悪くなるなどあってはならない。そんなことになったら、職務怠慢として彼らに罰を加える所存だ。
そして、プリシラも習う回数を減らすことを考えている。
「じゃあ、お菓子の話だけど……って、え? 何、泣いてるのよ!?」
さっそく今日教えてもらうお菓子を言おうと思い、顔をあげたプリシラはぎょっとした。
シャンツァイが何故か涙を流していたのだ。
ぎょっともする。
更に、啜り泣きが聞こえると周りを見れば、周りで今日の献立の下ごしらえに精を出していた料理人達も肩を震わせ、嗚咽を漏らしている。
「ちょっと! 料理に貴方達の汚い体液なんて垂らしたら怒るわよっ!? グレイス、ソレル、早くタオル渡して!」
一層、泣き声が酷くなった。
横にいたベルフェゴールが何時の間にかプリシラの前に来て、プリシラと同じ様にシャンツァイ達を見上げている。
「さすがお嬢様、完璧な追い討ちお見事です」
「プリシラ様、さすがです」
「何言ってるのよ、二人ともっ!? 今日のお昼が台無しになったらどうするのっ!?」
何故か感心している二人を叱咤するも「大丈夫ですよ、お嬢様。彼らはプロですから、そんな失態を犯すわけないじゃないですか」とソレルに言われ、少し考えて納得した。
彼らはシャマーラ公爵家の料理人。
父が招きいれた者達なのだ。
普段の料理の腕を考えれば確かにどれほど泣こうとそれを料理の上に垂らすなどするはずがないし、もししたとしても全ての料理を捨てるくらいの判断は出来るに決まっている。
「……それもそうね。シャンツァイ、悪かったわ。確かに貴方達のようなプロがそんなことするはずなかったわね」
「クゥゥゥ……! い、いえェェ……そんなことはありませんかいな!」
否定をしているのかどうかよく分からない返事をされ、プリシラはこのままでは話が進まないと話を続ける事にした。
今回厨房に来たのはプリシラがベルフェゴールと共にお菓子作りを行うためだ。
「プリンとクッキーを作るわ。準備して」
プリンなら包丁も使わないし、初歩的な材料で出来るとプリシラは考えた。
作るのは蒸しプリンのため、火加減は料理人達に任せてしまえばプリシラもベルフェゴールも危ない事などないし、失敗する事はない。
甘くて美味しいお手軽お菓子だ。
何度か失敗しても、もう一度作るのに手間もかからない。
冷やすための時間がかかるのは欠点だが、今日のお菓子はクッキーで済ませるのでそこも解決だ。
お菓子作りの基本、クッキーなら少々失敗してもその過程が楽しそうなので、ベルフェゴールもプリシラ自身も楽しめるだろうという算段もつけてきた。
材料も大したものはない。
入れるのなら紅茶の葉くらいだろうか。
「―――……その、お嬢様。恐れながら……クッキーは分かりますですかいね、その、『ぷりん』とはなんですかいね?」
「…………え」
シャンツァイに困り顔で首を傾げられたプリシラは口をぽかんと開いて、見つめた。
嘘を言っていると一瞬、思ったのだ。
しかし、彼の表情は変わらず、振り向いた先にいたグレイスとソレルも不思議そうな瞳で此方を見返してきた。
「ねぇさま、『ぷりん』とは何ですか? 美味しいのですか?」
ベルフェゴールもまた、そんなことを聞いてくる。
「え? プリンよ、プリン。プルプルしてて、スプーンで掬い取れて、甘くって、上のカラメルが堪らない……」
言いながら、プリシラは過去覚えている限り、そんな食べ物が食卓に出てきたことが無い気がして段々と尻窄みになっていく。
「ははァ……? 私はそんな食べ物は知りませんですかいね……おい! 誰か聞いたことあるものはいるかいなっ!!!」
聞き耳を立てていたらしい彼らは皆一様に首を振った。
プリシラは驚愕した。
ここにいる者達は最高峰の教育を受けてきた料理人達だ。
どんな料理もつくれる、とプリシラは思っている。料理の歴史を聞くと、その起源も深く教えてくれるその知識の片鱗へこの間、兄へお弁当を作ろうとした時に触れたのだ。その彼らが知らない、というのなら。
「ぷ、プリンがないってことじゃないの……!!」
まさかの、ここに来て。
別世界にはあった料理の中で、こちらにはないものを見つけるとは思わなかった。
プリシラは愕然とした。
料理名も味も別世界の知識と同じだった。
植物も同じ名前、効能も同じだといえる。
勿論、この世界独自のものはあったが、基本は殆どが同じだったのだ。別世界で人気だった『異世界知識でチート』など、プリシラには殆ど無意味だった。
乙女ゲームの知識など、プリシラには『知り合っても好きでもない男の情報があるなんて気持ち悪い』程度のもの。
領地のことも父と兄に任せておけば、無難に問題が無い。
内政チートなんて面倒だ。
そんな知識を活用する気は全くない。
その中で、今のところプリシラの役に立った知識と言えば、少しの常識や別世界の植物達の知識でベルフェゴールと話が弾んだくらいだ。
要するに、最低限の事以外でいうとプリシラにとって思い出した異世界知識というのは『あっても困る事はないけど、基本役に立たないもの』だった。
料理だって、自分が食べた事のない料理も料理人に頼めば作ってくれるだろう、プリシラは軽く思っていた。
だが、今目の前で首をかしげている者達を見る限り、どうやら別世界で食べたいものの中にはこの世界に存在していないものもあるようだ。
別世界とプリシラがいる世界は本当に違う世界であり、違う歴史を歩み、何よりプリシラの別世界の知識は実は活用出来るものかもしれないと三ヶ月以上経ってプリシラは漸く、その可能性を実感したのである。
「―――作るわよ、プリン」
この世にないプリン。
それを作り、ベルフェゴールが美味しいと言ったのなら、とプリシラは思う。
―――私の『お姉様』としての株、物凄くあがるじゃないの! だって、私しか作れないお菓子よ?!
新しい料理ではない。偶々プリシラが別世界の知識を思い出した、というだけのこと。
プリンを考え出したのは別世界の名も知らぬ誰かだ。
だが、この世界でその知識を得たのはプリシラだ。他の誰でもない、プリシラだ。自分のモノをどう扱おうと誰が咎められるのか。
罪悪感などプリシラにはないし、プリンを考え出したのは自分だと言ったっていい。
プリシラが考えているのは、ベルフェゴールや兄、もしかしたら父や母にも褒められるかもしれない、という完全なる自分の目的のみ。
「お嬢様……?」
「ねぇさま……?」
料理人やベルフェゴールがプリシラを呼ぶ声など聞こえない。
「作るわよ、プリン! いいわ、作るわ。ベルに美味しいって食べて欲しいもの!」
「ねぇさま……っ!」
ベルフェゴールがきらきらとした瞳で見てくるのを、任せてベル自分のためにこの世界に別世界の料理を誕生させるわ!という決意を漲らせて頷いた。が、その前にとプリシラはすぐにその決意を胸の奥へと仕舞った。
「でも、先にクッキーよ。今日はベルと一緒にお菓子作りが目的だったから。……なんでまだクッキーの材料も持ってきてないの? 貴方たち、無能なの? 私とベルの団欒を邪魔するなんてどういうつもり?」
プリシラは眉をあげて彼らを叱咤した。
*・*・*・*・*・*・*・*・*
その日のクッキーは成功したといっていい。
紅茶の葉をいれることは初めての試みだったらしく、なぜか感動された。紅茶とよくあう美味しいクッキーが出来上がった。
何より、ベルフェゴールと一緒に型抜きする時がとても楽しかった。
出来上がったクッキーを作った皆で食べ、ベルフェゴールと「美味しいわね」と言いあい、更に「ねぇさま、あーん」とクッキーをベルフェゴールに食べさせてもらったプリシラは天にも昇る気持ちでその日一日を終えた。
―――ベルフェゴールのために作った『プリン』を二人で一緒に食べる夢を見ながら
また今日からよろしくお願いします(*・ω・)*_ _))