俺の可愛いプリシラ
兄に我儘を言う一日も終わろうとしている。
プリシラは「寝るまで一緒にいて」と駄々を捏ねて兄を引き止めた。兄は全く厭うことなく、一日中プリシラの我儘に快く笑顔で付き合ってくれた。最後になるだろう我儘も少しも嫌な顔をすることなく、笑顔で了承してくれたのだ。兄は本当に出来た人だとプリシラは思う。
だからプリシラは、一日の最後に告白をしなければならない、と自分自身のけじめをつけようとベッドで横になっていた身体を起こして、兄を見つめた。
「お兄様」
「ん? どうかしたのかい、プリシラ」
「あの、お兄様に言わなきゃならない事があるのよ」
ごくりと唾を飲み込む。兄は黙ってプリシラの言葉を待ってくれているようだった。
「あの、お兄様。……ごめんなさい、今日一日私の我儘を聞いてくれて」
「……なに?」
「だって、お兄様は私の我儘を聞く必要はなかったのよ。だって、だって、お兄様は私の為に一日空けてくれたでしょ? それだけでお兄様は私に対する謝罪への対価は払い終えてるって言ってよかったんだもの」
兄がどれほどこの日の休みを取るために仕事を頑張ってくれたかを人伝えにも、兄の様子を見るだけでもプリシラはよく分かっていた。
プリシラは殿下と色魔に特に何かされた訳ではない。
色魔を良く分からない何かまみれにしたのはプリシラであり、色魔が何かしようとしたそれは未遂で終わっている。
助ける、と兄が直前に約束をしていたとはいえ、所詮はただの口約束だ。破ったからと誰に責められるだろう。
色魔があんなことをする可能性は誰も考えていなかったのだ。
不測の事態であり、プリシラは無事だった。
だから、責任なんて感じる必要なんて無く、プリシラの我儘に付き合う必要は無かった。だけど、とプリシラは続けた。
「お兄様が―――お兄様がそういうことを言わなかったから、私甘えてしまったの。お兄様と一日一緒にずーっと遊べたらどれだけ楽しいかと思って……お兄様の負担を考えてなかったのよ」
屋敷でじっとする計画は、兄とせっかく一緒にいるのにもったいなさすぎるから却下した。
本当は屋敷でゆっくり休養を摂ってもらった方がいいという考えも過ぎったが、プリシラは兄と思いっきり遊びたかった。
優しく格好いい兄はプリシラを昔から可愛がってくれたが、学園に通い始め、また騎士になってからなどプリシラは兄とゆっくりしたことはない。それを寂しく思っていた。だから、我儘を言ったのだ。お休みをとって遊んで、と。
初めは良かった。
兄が起こしに来てくれて、おはようのキスで起こされた。
兄の選んだ服を着て褒められるのも、移動する時には手を繋ぐのも恥ずかしいとほんの少しは思わないでもなかったが、それ以上に嬉しくて楽しい時間だった。
だが、午後になってからプリシラは兄に無理をさせているのではないだろうか、と不安になった。
何故か兄は午後からプリシラが何も言っていないのに沢山甘やかしてきたのだ。プリシラがやって欲しいと思っていたことを先読みするかのように。
兄のテンションも普段より高く、笑顔も声も態度も全てが甘い。
物凄く嬉しかったが、普段と違う兄の様子にプリシラは動揺した。
動揺したプリシラは別世界の知識を掘り返した。困った時の異世界頼みである。
そして、疲労が溜まると一週回って気持ちが昂ぶるという知識を掘り出した。もしや兄はそれなのではないか、とプリシラは思い立った。
そう思うと初めから兄は疲れていた気がする。プリシラの我儘の反応も一拍置き、少し躊躇っている様子だった。
それは、疲れていたからではないか、とプリシラは気づく。
仕事も前倒しでやってくれていたに違いない。
浮かれていてプリシラは兄の様子をよく見ていなかった。昼前など兄の質問に癇癪も起こした。
謝らなくてはならない。そして、もうお兄様はお休みになってと言わなければ、と夕食前には気づいたのだが、カクタスの甘さは継続中だ。その甘さを手放すのが惜しくて今までずるずると来てしまったのだ。
「お兄様、ごめんなさい……それに」
プリシラはこの際全て言ってしまおうと腹を括った。
「契約違反も私、してるのよ」
「契約違反?」
驚いた声をあげる兄と目を合わせず、プリシラは力なく頷いた。
「お兄様が私の我儘の全責任を取ってくれるのは今日一日だけでしょ? だけど、私……この一ヶ月、お兄様の威を借って使用人達に命令していたのよ」
「……どんな命令を? 私の元には誰かがお前にクビを言い渡されたなんて報告はされていないが……?」
「今日のお弁当を作る練習をするのに、厨房を明け渡してもらったのよ。無理やり奪ったの、お兄様が許してくださってるって言って」
兄カクタスの権限を振りかざせるのは今日一日だけだった。だが、それをプリシラは『今日一日のために』という名目の元、この一ヶ月使用人達に命令をしてきたのだ。
公爵家令嬢が厨房で料理を作るなど、普通しない。それくらいの常識はあるし、別世界の知識が無ければプリシラがそんなことを思いつくことはなかっただろう。
厨房でのやり取りは『この紋所が眼に入らぬか!』という高圧的な態度だった。
兄が責任を取ってくれるから問題ない、と色々と言ってくる彼らを切って捨てた。
いくらプリシラ自らやると言っていたからといって怪我でもされれば使用人達のせいになるとも言われた。
だがそれを、兄が貴方方を罰するような愚か者に見えると思うの、と言って反論できないようにした。
そこから、厨房の料理人達からプリシラは料理を習い始めた。
本当は別世界のような色とりどりのお弁当を作りたかったのだが、知識と経験は違うということを学ばされた。包丁が上手く持てず、周りの者達から何度も悲鳴があがり、最終的にグレイスとソレルから訴えられ、プリシラは調理については要練習として今回は刃物をあまり使わないサンドウィッチとなったのだ。
本当に悔しい。
「……まさか、その為に……私に手料理を食べさせてあげたいから、使用人にも言えるように、あんなことを聞いたのかい?」
あんなこと、というのは『使用人をクビにしたいと言ったらしてくれるか』ということだろう。
「……うん、お兄様。そうよ。だって、料理っていうのをして見たかったんだもの。お兄様なら食べてくれるかもしれない、って思ったのよ。本当はもっと美味しいものをあげたかったんだけど」
改めて、料理人達の凄さを感じたプリシラだ。
料理人達は気を使って、充分だと言ってくれていたが、プリシラの目指すものはサンドウィッチなんていう簡単料理ではない。そこはいい。
兄に嫌われたらどうしよう。
それが現在、プリシラが怯えていることだ。
これが今朝だったら兄の疲労はピークではなかっただろうに、こんな夜遅くに散々日中妹の我儘に付き合わされて半ば騙されていたと知ったら、さすがの兄も怒るだろう。それだけならいいが、もし嫌われたらどうしようか、とプリシラは目の奥が熱くなっていく。
と。
俯き加減だったプリシラの顎が何かに触られた。
「プリシラ。俺の可愛いプリシラ……全く、なんて」
「……お兄様?」
視線をそろり、とあげると兄は眼を細めて何かを堪えるような顔をしていた。
どうやら怒ってはいないようだ、とプリシラは雰囲気で感じ取る。プリシラの顎に添えられた兄の指先はそのまま頬へと滑り、プリシラの瞼へ、ちゅ、と唇が落とされる。
「……契約違反なんてお前はしてないさ。もし使用人が何か言っても罰する事もしない。これでいいかい?」
「で、でも」
「それに私は今日一日、楽しかった。これは本心だぞ? 俺の可愛い妹と一緒にいられるんだからな」
優しい笑顔の後、抱きしめられた。
兄に嘘はなさそうだった。暖かい腕の中は父とは違った安心感がある。プリシラは自ら腕を伸ばして兄の背へと回した。兄がまた抱きしめる力を強くした。
「愛しているよ、プリシラ。お前を想うと、アレを切り刻みたくなる」
「私もお兄様を愛してるわ。あと、そういう話はもうお父様としたからいらないわ。これからも沢山迷惑かけるからお相子なのよ?」
剣呑な声で危ない発言をした兄にプリシラは笑って答えた。兄も父も同じような事を言うなど、やはり親子だ。
「お相子か」
「ええ、そう。……お兄様、怒ってないのよね。どうして?」
不思議だった。プリシラからしたらかなり好き勝手をしたという自覚がある。
少しだけ身体を離し、兄の顔を見てプリシラは尋ねた。
「……どうして、か。私からすると何故そう言われるのかがわからないくらいだな。私がお前に詫びをしたかったんだ。それがどんなものであれ、承認したのだからお前が悪く思う必要はないし……そもそも、今日一日のものなど我儘でも何でもないだろう? もしプリシラが望むなら、毎日だってお前を起こしに来るし、キスだってするし、お前の服を選びたいよ」
プリシラの額にキスをして、兄が微笑んだ。
ただ顔は笑ってくれているが目は真剣にプリシラを心配しているようだった。プリシラは何故か泣きたくなってしまった。
「……ううん。目覚まし係もキスも服もいらないわ」
毎朝それを仕事のある兄に強要する約束はしない。兄は優しく誠実だから、約束したら何があってもプリシラのためにその約束を守ってくれることだろう。でもそれは兄の負担になるような事だからプリシラはしない。今日は特別だった。
「そ、そうか……本当にいいのか? 私には負担でも何でもないのだが」
「いいの。でも、お兄様……ただ、その、ちょっとしたお願いはしてもいいかしら」
「なんだい?」
プリシラは視線を泳がせた。兄が断る事はない、そう心は確信している。さっきだって今日一日の我儘も何でもないことだと本気で言っているようだった。その兄にお願いしたとして、無理だったら言ってもらえばいい。プリシラは心で頷いた。
「遠乗りとか、今日みたいに私の手料理を食べてくれたり、そういうことは時々して欲しいのよ。時々でいいわ。無理をしなくていいのよ。今日みたいに疲れてたりしたら、断ってくれていいし、お兄様に迷惑に思われたいわけじゃないの……っ、お兄様っ?!」
兄にベッドに押し倒された。
といえば、語弊があるかもしれないが、実際プリシラはベッドの上で兄に覆いかぶさられて抱きしめられている。
「お、お兄様……」
戸惑って呼べば、身体を離されて兄が物凄く嬉しそうに頬を緩めていた。
「もちろん、だ。勿論、お前の手料理は食べたいし、色んなところにも行きたい。迷惑なんかじゃないさ。お前が俺にそう言ってくれるだけで、俺の疲れなんか吹っ飛ぶんだからな」
なんだか恋人のような科白だ、とプリシラは受け入れてくれたことに、ほっとすると同時に笑ってしまった。兄は馬鹿にされたと感じたのか、眉を寄せている。プリシラは兄を見上げた。
「じゃあ、お兄様。今日は楽しかったって言う事以外は気にしない事にするわ。だから、お兄様もこの間約束してくれたのを守れなかったって言う事も今回、ちゃんと償ってもらったからもうこれで終りね!」
これで心配事は無くなった、と、プリシラは心が軽くなった。
兄がいいと言っているのだから、プリシラが負い目に感じることはないのだろう。今回は兄の疲労を考えられなかったが、ちゃんとこれから気をつければいいのだ。次に何か約束する時は兄の事情もしっかり考えて言葉にすればいい。
「……わかった。なら、プリシラ。もっと私に今日みたいにして欲しい事を言って欲しいな。あんなの我儘じゃないからね」
「ん、それは……ちょっと考えるわね」
兄は何度も我儘じゃないと言ってくれるが、プリシラからすれば仕事で忙しい兄を一日拘束しただけでも相当な我儘。それをプリシラの言う通りに、命令をきかせたのだから、それをいつでもと言われてもプリシラはそこまで踏み切れない。
プリシラは兄の科白に頷けない。
「……分かった」
「え?」
兄が突然、力強く言葉を発した。真剣な瞳がプリシラを映す。
「お前が出来ないというのなら、俺がやればいい。お前が嫌がらない事は今日の事で十二分に理解したしな」
それはどういう意味、と兄に尋ねる前に「おやすみ、俺の可愛い妹」と甘く囁かれて額にキスをされ、兄は部屋を立ち去った。
流れるような動作にプリシラは何も返す事が出来ず、明かりの消えた部屋の中で思ったのは。
―――お兄様の一人称が変わってたわ
そんなことだけだった。
その後、プリシラは深く考える事は出来なかった。今日一日、思いっきり遊んだのだ。当然、身体はそれ相応に疲れている。
兄と一緒にいたくて必死に眠気を払っていたのだ。
その兄がいなくなり、明かりが消えた今、プリシラはすぐに意識をなくす事になったのだった。
収まりが悪いと感じて投稿。
感想頂ける度に続きが出来上がっています。