悲劇の少女
事情を説明すると、揃ってその場にいた者達は床に倒れている色魔に軽蔑の眼を向けた。
ベルフェゴールなど、その愛らしい顔を歪ませて、まだ残っていたパイをピクピクとも動かなくなっていた奴に投げつけていた。
勿論、全力で応援した。可愛さに格好良さ、更に他人を見下せる冷酷さも持ち合わさって、ベルフェゴールの天使化は留まるところを知らない。
父と兄は自重したようだったが、その雰囲気は高揚していたプリシラの気分を現実に引き戻すほど、怖ろしいものだった。
母の顔は能面のようで、プリシラは始めて彼女の顔に表情がないのを見た。
彼女はプリシラに「怖かったわね、プリシィ」と優しく言って抱きしめてくれた。嬉しくて微笑んだら、溜まっていた涙が零れた。
使用人達も全員が涙を流し、同情と憐れみの視線をプリシラに向けてきた。
「おいたわしや、お嬢様……」
と言う者もいる。
彼らは部屋に入った時に、くるくると笑顔で部屋を回るプリシラを見なかったのか。
どう贔屓目に見ても、部屋の惨状を思えば(たとえ、理由を聞いたとしても)加害者の割合はプリシラ側が大きい。だが、屋敷の者達は人伝えに聞いた者達も含めて全員がめでたく、色魔を敵と認定したようだった。
既に刺々しい雰囲気は屋敷中に充満しつつある。
それ程、プリシラは愛されていたのか。いや、そうではない。勿論、愛されていないとは言わないが屋敷のものが一致団結したのは別の大きな理由だとプリシラは思う。
その大きな理由とは、プリシラもドン引きした―――グレイスとソレル、双方の涙ながらの訴えに寄るものである。
プリシラ自身が説明したのなら、もっとプリシラ側が加害者的なイメージが作られただろう。
その時のプリシラは、勝利の高揚感や復讐を成し遂げた事による満足感でいっぱいだったのだから。
父の呟きに喜び勇んで報告しようとしたプリシラの横で、突然、グレイスが「エビネラン様……」と小さく言い、放心状態で大粒の涙を流し始めたのだ。嗚咽を我慢しながらも、眼を見開いたまま、涙が流れていく様子はとても心を打つもので。
ごめんなさい、と何度も言いながらうずくまり涙を流し始めた彼女に、ぎょっとしたのも束の間、今度はソレルが「私は……無力……です……ッ!」と顔を歪ませて吐き捨て、肩を震わせ始めた。
さっきまで嗜虐性に満ち満ちて思う存分パイ投げを楽しんでいだのに一体どうした、とプリシラが唖然としていると、普通の反応として兄は何があったと尋ねた。
それを機に、ソレルは声を詰まらせながら色魔とプリシラがどんな会話をしたのかを事細かに話し始めた。
当事者のプリシラでも「それは酷い」と涙ぐむほどプリシラが酷い目に遭っていたのである。
不自然じゃないのに、大まかなあらすじは合っているのに、多大に大いに甚だしく脚色されたお話。
更にBGMはグレイスのすすり泣き、途中からコーラス隊として使用人が参加し、合間合間にグレイスの合いの手が入れば、場の盛り上がりとプリシラの身に起こった悲劇は事実として彼らに染み込んだのも頷ける。
辛い目にあったのだから、と部屋に戻されかけたのを「グレイスとソレルは一緒に……」と言えばすんなり通った。
扉が閉じ、部屋の周囲に誰もいなくなったと確認し、ベッドへともぐりこんだ途端―――プリシラは笑いを納める努力を放棄した。
「も、何、二人とも……ッ! わ、私の悲劇の少女っぷり、どうしてくれるの……っ!」
「私の演技、どうでしたか?」
グレイスが先程までの涙を微塵も感じさせない笑顔で言うものだから、ベッドを叩いて笑い転げた。
「さい、さいこう……ッ! あはははははははは……ッッ! やだ、とまらな……!」
「ま、私達の手にかかればあんなものですよ」
ソレルのドヤ顔にまたプリシラの笑いが再燃する。と、真顔になってソレルは続けた。
「旦那様やカクタス様はある程度、誇張したって気づいてたみたいですけどねー」
「……えっ、そうなの? 怒ってくれてたみたいだけど?」
二人の怒りっぷりを思い出して、ぶるりと身を震わせた。止まらない笑いも納まる怖さだった。
「エビネラン様、カクタス様、賢い、です。私達程度、騙せない、です」
「私達くらいの演技じゃ、お二人を騙すのは無理ですよ。でも、お嬢様が襲われたのは事実ですし」
「おそ……ああ、そうだったわね」
そんなことすっかり遠い昔の記憶に葬り去られかけていたプリシラは頷いた。
「そうだった、じゃない、です! プリシラ様、怖がってた!です! アレ、非常識!です!」
「グレイスが我慢できなかったんで、私も便乗しましたけど。あの演技がなきゃ、侯爵家のご子息に手を出した立場を弁えていない使用人ってことで世間じゃ言われるんですよ。それと、お嬢様は浮気していたんじゃないかって邪推されるかもしれないですし。あれだけ盛大に抵抗したので、私達は『主人の危機に身を挺して護った』ってことになるし、お嬢様が同意していたってことにはならないと思いますけど」
「ハァ!?」
同意していた、とはどういうことだ。それに浮気? 現在、婚約者なんていないのに! 眼を吊り上げるとソレルは溜息を吐いた。
「世の人たちはお嬢様をまだ皇太子の婚約者だと思ってるんです。忘れました? 公にしないってことになってるの。そこに今回のアスモデウス様がお嬢様に迫っただなんて話が出たら、素晴らしい婚約者を持つのに別の男も作ろうとするふしだらな公爵令嬢として思われかねないんです!」
分かりましたかっ!?と言われ、プリシラは「ふーん」と答えた。正直、そうなったとしても別に構いはしない。将来を誓い合った男も愛する男もいないのだから、そんなことになっても現状困る事はない。
「それより、あのパイどうしたのよ? そっちの方が気になるわ。いつの間に用意したの? というか、あれって何のために作ったのよ」
あんなに色とりどりの罰ゲーム仕様のパイを作ろうと思うのなら、相当前から準備しなければならないだろう。皆でパイ投げでも企画していたのか、と思うと「あー、それは」と一気に歯切れが悪くなった。
「いいです。私、言っても」
ハーブティです、とティーカップを差し出されたので受け取る。ソレルは少し驚いた顔でグレイスの顔を覗きこんだ。
「グレイス……いいのかよ」
「プリシラ様、変わったです。いいです」
はっきりと決意した口調なのに不安げな顔で頷くグレイスに首を傾げた。
「何? 何なのよ」
ソレルはグレイスが不安げな理由を知っているようだ。仲間はずれにされたようで悔しくなって、睨みつけた。
「プリシラ様、私、秘密あります。それを教えます。そのため、ソレルが訳します。いいですか?」
教えてくれるなら秘密でも何でも聞く、と頷けば、グレイスは彼女の母国語で話しはじめた。それをソレルが側で訳してく。その内容にプリシラは話が終わるまで二人を見つめるしかなかった。
グレイスは隣国の貴族出身だ。侍女は貴族子女であることから、彼女もまたそうであった。
彼女の家は代々護ってきた秘密があった。
それが―――直感。
具体的に言えば危機回避能力が異様に優れているのだそうだ。
なんとなく、それが自分にとって良いと思うことに繋がるのだという。だから、グレイスの家は投資をしても戦争に行っても被害は殆どない。先祖は予知が出来た、精霊と交流があった、いや寧ろ精霊だったなどという逸話も残っている程なのだそうだ。
グレイスは先祖返りだと、その特殊技能を持つ家族たちに言われるほど潜在的能力が高いものだった。
見えるわけではないが、傍から見たら未来視にも見えるほどらしい。
その力で今回、なんとなく誰も食べたくないパイを大量に作っておいた方がいい気がして作っておいたのだ、と言われた。身近に超能力者が側にいるとは驚きである。
どんな感じなのかと尋ねると、説明しにくいですね、と困った顔をされてしまった。
感覚に近いので、と彼女は言う。そういうものなのだろう。
その事を知っているのは、父と次期当主の兄、そしてソレルとプリシラだけだと言われた。力がそうなので悪用されかねないから公には出来ないのだと教えられ、納得する。誰だって優秀な人材は欲しい。よくそんな力の強いグレイスを家から手放したものだ。
「違います、プリシラ様。同じ力を持っているからこそ、彼らは私を隣国に預けることにしたのです。怖くなったのだと思います」
ソレルがグレイスの気持ちを訳す。
プリシラは「眼に入るところにいて欲しくはなかったのでしょう。帰ってくるなという手紙を貰いました」と悲しげに言ったグレイスのおでこに容赦の無いでこピンを食らわせた。
「いたっ!?」
「ないない。ないわ。それはない。いい? グレイス。貴女の家族は全く知らないけど、たぶん貴女は間違ってるわ。貴女の実家の能力を知ってると思うのよね、貴女の国の王族って。てことは、力が強い貴女は王族に利用される可能性だってあったのよ。それを阻止するために私の家に来たのに違いないわよ。だって、貴女の事を愛してないんだったら最低なところに放り込んでもいいはずじゃない。それを他国の、それも軍部で一番力を持ってて優秀で公平なお父様のところをわざわざ選んだのよ。絶対貴女、愛されてるわ。もし一度実家に戻って御覧なさいよ、絶対王家に引きずられるわよ。お披露目前にグレイスを連れて来たのは絶対そういう理由からだわ」
彼女はプリシラとそう歳は変わらない。せいぜい、5歳程度だ。プリシラが生まれた頃からずっと一緒にいて、彼女は殆ど姉と同じように育ってきた。
そんな頃にここに引き取られたのなら、グレイスの家族はずっと前から交渉を行っていたはずだ。
優秀な人材は誰だって欲しい。国の人間なら他国に渡したくなど無い。それも他国に一族の力を教え、その一族の力を証拠が残る紙にしたためるなど。娘のために危ない橋を渡ったグレイスの家族が彼女を愛してない訳ないのだ。
「グレイス、家族に手紙を書きなさい。手紙くらい書くべきよ。帰ってくるなって言われても、手紙は禁止されてないんでしょ」
全く馬鹿な遠慮なんてしてるから手紙が遅くなるのよ、とプリシラは呆れの溜息を吐いた。
すっかり冷えてしまったハーブティーを口につける。飲み干す事は飲み干したが、温かい方がお茶はいい。ついでにお菓子も食べたい。
「……お嬢様、グレイスの力をどう思われましたか?」
「グレイス、新しいお茶を淹れ直してきて……って、え? 何? グレイスの力?」
「え、いや……はい」
虚をつかれたような顔から、真剣な表情になる。隣のグレイスも緊張した面持ちでこちらを伺っている。
何を言ってもらいたいのか分からない。
プリシラは他人の気持ちを思いやる事が苦手だ。というか、普通の人間は皆苦手だろうと思う。なんと言って欲しいのか、と部屋を見回すも答えが降ってはこない。
プリシラにとって、グレイスが超能力者であることは面白い出来事ではあった。だからといって、プリシラが他に思うことはない。プリシラはグレイスを好きなのだから、それでいい。
部屋の中を一周し、もう一度二人へと視線を戻せばさっきと変わらず、ソレルはプリシラを真剣な表情で見ているし、グレイスもまた沈痛な面持ちでこちらを伺っていた。
何か言わなければならない。
「……そうね……まあ、別世界の記憶を持ってる主人と女の直感がかなり鋭い侍女って、あら、うん……お似合いじゃない! お似合いだわ! ……そう考えると、ねぇ、ソレル。貴方って何かないの? 貴方だけ、何か無いのってつまらなくない? 女装癖があるとか、虐められるのが好きです、とか!」
「なんで女装癖なんですっ!? どっちかっていうと、俺、虐めるほうが好きですけど!」
「『分かります。私も同じです』」
「え、グレイスもそうなの? 私もよ。虐められて喜ぶなんて意味が分からないわよね? こう……こっちが上じゃないと屈辱しか感じないと思うんだけど」
ソレルの突っ込みにグレイスが頷いたのことに驚きながら、プリシラも同意して「謎だわ」と首を傾げる。
「別に俺に何もなくたっていいじゃないですか。何です? 不満なんです?」
そう言っているソレルの方が不満そうだ。
別にソレルはそのままでいいとプリシラは思っている。
ただ、プリシラにも別世界の知識があるということになったのだし、今回ただの優秀な侍女が実は特殊能力持ちだったって分かったのだ。ただの優秀な従者兼護衛にも実は、なことがあってもいいじゃないかとプリシラは思っただけだ。
そう説明すると二人とも酷く微妙な顔になった。
「お嬢様ってそういうところが卑怯ですよね」
「プリシラ様、すごい」
「ええ、知ってる」
「……いや、まあ。特に無いですよ、特殊技能も別世界の記憶も」
本当だろうか。
自分じゃ分からないかもしれないが、きっとソレルも何かあるに違いない。
プリシラはソレルの可能性を疑わず、グレイスが淹れ直してくれたハーブティーを飲んだ。
まさかの超直感侍女。