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―――戦闘開始、だ

 勉強の合間の休憩時間に、ベルフェゴールとお茶をしている時だった。


 兄のカクタスが尋ねに来たのだ。


 快く部屋へ通したプリシラは、兄の機嫌が良くない事を察して首を傾げた。一緒にお茶をしましょう、と誘った後、頭を手で押さえた兄が言った科白に、ティーカップを持つ手が震えることになるとは思っていなかった。

 グレイスが予定があるといって何処かに行っているため、ソレルが淹れたお茶だ。彼のお茶を飲む機会は珍しい。訓練などで居ないことも多く、プリシラの身の回りの世話はグレイスがやる役回りだからだ。零す訳にはいかない。

 プリシラは口の端を引き攣らせて、辛うじて笑顔を形作った。カチャカチャと、手に持つティーカップがプリシラの怒りと呼応して音を立てている。


「なんですって? 今、何て言ったの、お兄様?」

「アレの護衛がプリシラに会いたいと言ってる」


 信じられない思いで兄を見つめた。

 アレとは勿論、皇太子の事である。

 家族の中でアレと呼ぶ事に決まったのは自然な成り行きだった。ついでに眉間に皺を寄せるのもデフォだ。

 何度か殿下からの話がしたいなどという話が来たらしいが、勿論全て断っていた。

 無視したいのだが、仮にも皇太子である為に出来ないのが貴族社会の面倒くさいところだ。


「……護衛共々、顔を見たくないって言ったのに? お兄様、断って」

「今、下に来ている」

「はぁ?!」


 顔を兄から背けて言ったら、兄から返ってきた返答にグルン、と直ぐに兄をまじまじと見ることになった。

 兄が何を言っているのかプリシラは本気で分からなかった。

 護衛の仕事は護衛だろう。

 仕事をサボって何をしている、とプリシラは兄に聞くと「護衛じゃないぞ?」との言葉を貰った。

 そうして説明されたのは、正式な護衛ではなく、それを表向きは命令されてはいるがどちらかというと大人達からいえばお付きのもの程度の認識らしく、友達と言った方が正しいと言われた。プリシラでいう、グレイスやソレルのような関係で幼馴染として信頼関係を築き、後々は国を支える重鎮になるのだそうだ。


「プリシラが護衛、護衛と言うからね。私達もそう呼んでただけなんだよ」


 知らなかった事実に驚いている間も、その傍迷惑な護衛は待っているらしい。仮にも相手は皇太子の『友人』が出来るような地位の人物。家まで押しかけてきたら、こちらとてそれなりの対応をしなければならないのだという。忌々しいことに訪ねてくる際の正規の手順は済ませている、と。


 いらついて、ティーカップが音を立てて受け皿に乗った。数滴、周りに紅茶が跳ね飛んだ。


「そんなもの、追い返してしまえばいいのに!」

「そういう訳にはいかないんだ」


 言葉ではそう言うものの、兄の顔は心底嫌そうだった。王族の側近だ。当然である。分かるけど行きたくないのよ、プリシラは唇を噛む。


「ねぇさま、行く必要ないです」


 必死な顔でベルフェゴールは顔を歪ませている。プリシラだって、そう思うし、そうしたい。だが、と兄の表情を伺う。


「……」


 敬愛する兄を見るに、どうやっても逃げ切れないらしいと悟る。奥歯を噛みしめた。


 プリシラは静かに立ち上がった。


「―――会うわ」

「ねぇさまっ!」


 怒りは際限なく沸くものらしい。


「二度と来たくないと思えるよう、思いっきり蔑んでやるわ!」


 兄の顔が引きつったのを視界の端に捕らえた。



 *・*・*・*・*・*・*・*・*


「―――彼の側を離れた、と?」

「はい。私はもう彼の護衛ではありません。ですから、お願いします」

「ふうん?」


 客間でお互いに向き合って座る状況に、今すぐ目の前のテーブルをひっくり返して、投げつけてしまいたい衝動を抑える。


 これほど相手をじっくりと観察できる環境におかれたのは初めてだった。


 いい機会だと手持ちぶたさに護衛だか友達だか下種だかのどうでもよい口上を聞き流す間の暇つぶしに見始めた。


 赤茶の髪はしっかりとオールバックで固められている。真面目そうな雰囲気は服装から出ていて、皇太子と並んでいても見劣りがしないだけの容姿は10の歳相応にまだ幼さが抜け切っていないのを考えずとも、整っているといえた。ただ、歳を踏まえても彼の顔は童顔だった。その為、オールバックという古臭い髪型であっても、どこか子供が無理をしている風だった。


 そこまで観察して、プリシラは目を細めた。


 何を言いに来たのかと思っていたら、コレはアレの護衛を止めて来たので、こちらで謝罪の代わりに働かせて欲しい、と言ってきた。


 兄が一緒のほうが良かったかもしれない。


 プリシラは今更ながら、兄の注意を思い出していた。


 ソレルと途中戻ってきたグレイスに、お客に会う為の支度を整えさせている間、兄が「お前の側にいる」と言ってくれたのだが、タイミング悪く父に呼び出された。

 どうしてもはずせない用件らしい、と兄が眉間に皺を寄せるのを「いいわよ」と軽く言った。

 ソレルもグレイスも一緒にいるつもりだったプリシラは、一人でも何とかなるだろうと高を括っていた。

 そんなプリシラの様子に兄は渋面を作り「―――詳しく言えないが、アレは厄介な家系だ。それも、アレは特別だ。とにかく気をつけろ」と言い、更に「まあ、何かある前に私が助ける。約束だ」と去り際に素敵にかっこいい科白と約束をして走って父の元へ急いで行った。


(うちの男達が男前すぎて困るわ!)


 厄介な家系が何かは知らないが、面の顔が厚い主従であるのは間違いない、とプリシラは怒りに震える心中を落ち着かせようと紅茶を口に含んだ。


「―――プリシラ様、私は貴方に謝罪したいのです。ですから、そのために私をプリシラ様の護衛に。先程話したとおり、私は役に立ちます」


 ようやく、話が終わったようだ。プリシラは冷めた眼で彼を眺めた。


 何かを期待するようにこちらを見る眼に嫌悪感しか沸かない。


「……お話は終わりましたの? ならお引取り願うわ。さ、ソレル。表にすて―――ご案内して差し上げて」


 危ない。うっかり本音が出そうになった。


「かしこまりました、お嬢様。お帰りはこちらにございます。玄関までご案内いたします」

「プリシラ様! 私は悪いと思い―――」


 それ以上何か言う前に勢いよく立ち上がり、相手を見下ろした。


「謝罪を言うつもりなら、わたくし、貴方の舌を切り取りますわよ。『二度と顔を見たくない』……わたくしはそう申しましたのよ。意味が分かっていないらしいから、はっきりと教えて差し上げましょう。わたくしは貴方方に『謝罪した』という事実を残す気など毛頭ないし、許す事もないということ。お分かり頂けたら、早く出て行って」

「どうしても、私をお側に置いていただけないと?」


 返事は扉を指で指す事によって行った。


 そもそも。


 謝罪をするべき相手が違う。プリシラではなく、ベルフェゴールに言うべきだ。彼が許せばプリシラから言えることは何も言えなくなる。あの植物はプリシラのものではなく、ベルフェゴールのものだったのだから。

 だが、プリシラは敢えてそれを指摘しない。まだベルフェゴールは、もしアレに万が一にでも謝罪されたとしたらそれを断れるだけの対応能力が身についていないことをプリシラは分かっていた。

 というか、まず初めに謝る相手を見誤ることこそ、真摯ではない証拠。侮辱されている、とプリシラは受け取った。

 儀礼で会っただけだ。もとより、彼の話を聞く耳は持ち合わせていない。


 そのまま、帰ってくれれば問題は何もなかった。敢えて言うなら、プリシラの怒りが皇太子へ更に上乗せされたくらいだっただろう。だが、彼はプリシラの全く思いもしていなかった行動を起こしたのだ。


 眉間に皺を寄せて立ち上がるまでは、プリシラも予想していた。


 ———が。


 その後、流れるような動作でプリシラの手を握るまでは予想出来なかった。どうやってテーブルを越えたんだ、と言いたい。


 後ろでソレル達の息を飲む音が聴こえた。


 反射的にひっこめようとした手を更に強い力で握りこまれ、両手で包み込まれた、そのあまりの不愉快さとおぞましさに睨みつけた。

 真剣な翡翠色の眼と眼が合った。


「……昔から、お慕いしておりました。プリシラ様。貴方が殿下と一緒にいるのをどれほど羨ましく思っていたか―――」


 悩ましげに囁かれ、目を見開いた。彼はプリシラの予想の斜め上をいく行いである。


(え? 何よ、これ……私、口説かれてるの?)


 プリシラは自分が口説かれるのは妥当だと思うくらいには、自身のステータスが高いことは知っている。人格を無視したとしても、彼女は公爵家の令嬢だ。血筋だけでも言い寄ってくる男はこれから更に多くなることだろう。


 だからこそ。


 声をあげようとしたプリシラはぎょっとした。


(ちょ、ちょっとちょっと、待って!?)


 何時の間にか、すぐ近くに彼の顔があり、彼の右手はプリシラの腰に置かれていた。睫毛の長さが分かる程で、吐いた息がプリシラにかかる。僅かに開かれた唇から、舌が覗き、先程まで真面目で実直な騎士然としていた雰囲気は幻だったのではないのか、と思う程に色気を放っていた。10の子供が出していいものではない。

 更に気持ち悪い事に、彼の顔はプリシラのただ一点を狙って近づきつつある。その間も視線を逸らさないのだから、本当にろくでもない男だ。子供ではない、とプリシラは考えを改める。


 後、数センチでぶつかる!


 ……と、慌てて、ぶつかりそうになった鼻先を避けると、僅かに驚いたように目を見開いた後、悲しげな顔になった彼は掠れた声で囁く。


「プリシラ様、これほど私は貴女を思ってるのに……雇うことも謝罪さえもさせて頂けないというのなら、せめて思い出を頂けないでしょ―――」

「『プリシラ様、頭、下げて』!!」


 叫ばれた言葉に、思わず迷いなく頭を下げると上から「ぐぎゃっ!?」という声がした。

 そして後ろにぐいと引かれた、と思ったら、視界が回転し、床へ顔面を打ちつけた。


 顔をあげれば、目の前にはソレルの背中。


 何が起こったのかは分からなかったが、助け出してくれたのは理解した。


「ソレ……」


 よくやったわ!と褒めようとしたところで、プリシラの眼が点になった。

 ソレルはプリシラを見ることなく、真っ直ぐに前を向いている。彼の右側にいつの間にか食事を乗せるカートがあった。

 ソレルは膝を床へつけて、構えている。

 それはいい。しかし、彼の左の掌が天井へと向けられており、その上に乗っているものがあった。これが一番不可解だったのだが、彼の手には―――


「……パイ?」


 プリシラはパイが好きだ。好き嫌いはしないから、嫌いな食べ物はないが。とにかく、パイは好きだ。


 それも普通の・・・パイではない。


 パイ生地に綺麗な格子模様が描かれた黄金色の焼き色のついたものであり、アップルパイ、ミートパイ、ピーチパイと全てにおいて公爵家の料理人達が最高級の食材を使って最高級の腕を持って丁寧に作り上げるのだ。美味しくない筈がない。だから、そこら辺にあるパイと一緒にしてもらっては困る。


 だがしかし。


 ―――今、プリシラの信頼する従者の手に置かれているのは、恐ろしい程に真っ赤な色をしているパイである。


 本当の意味・・・・・普通の・・・パイではなかった。


 むしろ、パイ? パイなの? それ、パイ……よね?


 ちょっと自信がなくなる。それほどに、赤かった。ちょっとトマトを混ぜてみましたという体ではない。むしろ、眼が焼け付くほどの赤だ。


「『プリシラ様&%$#、この私が*+‘%&#$“#$! この&“#‘!』」

「ぐ、グレイス……っ?!」


 呆然とそれを見ていると、先程の科白は彼女だったと気づく。

 グレイスの母国の言葉を習っていたため、単語が分かったのだ。

 さっき叫んだ時はプリシラにも分かる単語をわざわば使ってくれたのだろう。

 だが、今彼女はプリシラにまだ教えていない単語を使って叫んでいる。何を言っているのかさっぱり分からないが、間違いない。グレイスは色魔を罵っている。それだけは分かった。


 そして、予想できた事だが。


 プリシラを助けた一番の功労者の一人であるらしい、彼女の手にもパイが存在していた。むしろ、この部屋の中で一際圧倒的存在感を放っていた。


 ただし。


 彼女の手にあるパイは―――緑だ。しかも、どろどろしている。シューシュー音がしている。


 グレイスの視線の先を辿れば、色魔が視界に入った。彼の顔面と赤茶けた髪は、ところどころ真っ白になっていた。謎の白いクリームっぽいもので顔面を飾られていた。

 その一部が重力に逆らえず、ベタッと顔から絨毯へ落ちる。その白いクリームの隙間から呆然とこちらを見る眼を、こちらも同じ様に呆然としながら見上げた。

 彼の足元に何かが落ちている。

 よく見れば、床に落ちているのは布だと分かった。

 更に、汚れ具合からみるに、あの布にパイを乗せていたらしいことも分かった。


 別世界で知り得た景色がそこに広がっている。


(これ―――『パイ投げ』?)


 確かに別世界の話をする時に「面白い祭りがあるみたいよ」と話をした覚えがある。ということは、恐らく、皿ではなく布に乗せてあるのは、怪我をしないようにとの判断だろう。気遣いの出来る、出来た・・・侍女と従者である、とプリシラは呆然としながらも思う。


「『グレイス、&%$#*+?*$#$%&!!!!』」

「『$%&’!!』」


 ソレルが叫び、グレイスが心得たとばかりに答えた。


 プリシラは彼らの顔を見て、ごくりと唾を飲み込んだ。グレイスは眼を見開き、ソレルは挑戦的な笑みを浮かべていた。


(なんだか物凄く二人とも怒ってるわね……)


 うわあ、とヒいている内にグレイスが彼女の腕を思いっきりふりかぶった。


 当然。


 彼女の手にあった、あの、どろどろの緑色をしたパイが、色魔目掛けて空を飛んだ。ビュン!とパイがしてはならない音を立てて真っ直ぐに敵へと飛んでいく。


 ―――戦闘開始、だ。


「チッ―――」


 しかし、相手は貴族子息で10歳とはいえ、鍛えている。将来、皇太子の護衛ではなく頭脳ブレーンになる彼だが、剣も相当扱える。

 その能力はこの頃から抜きん出ているようで、呆然としていたのも僅かだったらしく、彼は軽やかに緑のパイを避けて―――


「うぐ……っ!? がああああ!?」


 赤いパイが綺麗に顔面へ命中した。その綺麗なクリーンヒットぶりに、思わず、拍手してしまった。育ちの良い彼は、まだ不意打ちに対応出来るだけの経験も反射能力も備わっていなかったようだ。なお、緑のどろどろパイは壁へと激突、べちょっとした痕を残し、その役目を無事に終えた。


 そして、完璧なコントロールで白を赤に染めた犯人であるソレルは「ハッ!」と鼻で笑った。


 ……その手には既に真っ青なパイが置かれている。


 ソレルの右側に置かれていたカートの布が取り払われ、中に大量のパイらしきもの(色鮮やか)が乗っているのを見て、プリシラは「おお……」と感嘆ともいえる声を吐いた。


「俺達みたいな一般の使用人が、年下とはいえ、アンタみたいな本格的な騎士訓練してる相手に真正面からぶつかると思ったんです? ざーんねーんでした~!! こちとら、アンタ等みたいなお綺麗な家系じゃないっすからねー! 大体、ここを何処だと思ってるんです? シャマーラ公爵家の客間だよ! アンタにとったら敵陣のど真ん中だよ! 使用人達が何もしないと思ったのかケダモノがァァァァ!! 何、うちのお嬢様にさかっとんじゃコルラァァァァァ!!!!」

「ね、ねぇ、ちょっと! ソレル!」

「あっ、はい? 何です? お嬢様。今ちょっと立て込んでるんですけど。見て分からないんですか? 今のうちに反撃不能まで叩きのめさないと、危ないんですよ。油断っていうのは、勝利するにおいて最大の敵なんで……っと!」


 真っ青なパイが再び、顔に直撃。


 彼はプリシラの側を離れないまま、命中させた。まるで、バスケのスリーポイントシュートのように。


 プリシラの頭の中で「ソレル選手、投げました―――! 命中っ! 命中ですっ! スリイイイポイント!!! プリシラ陣に三点加算されます!」と流れた。


「なんであんなに苦しんでるのよ!? あの赤ってなに!?」


 パイ投げを続けるのはプリシラ的に「もっとやれ!」という感じだったが、そのパイの使用材料は気になる。

 色魔は床をのたうちまわって、涙を流してパイの残骸が溶けてぐちゃぐちゃになっている。涎も出てきているようだ。口の中にも入ったらしく、吐き出そうとするもそこに向けてグレイスが鮮やかな黄色のパイを命中させていた。


 端正な顔をしていようとこれは酷い。


 イケメンは何をしてもイケメンだというのは別世界だけの真理だったのだ、とプリシラはこの世の無情な真理を知った。


「色々ですよ、色々。後で詳しく教えますんで、今は我慢してくださいよ。後もう少し、特製パイが残ってるんですよね~」


 えぐい笑みとはこういうものを言うんじゃないだろうか。


 プリシラは「約束したわよ!」と言ってから、立ち上がった。


 教えてくれるというのなら、目下やるべきことは決まっている。彼女は今、自分は酷く楽しげな笑みを浮かべていることだろう、と口元を引き上げた。ソレルへと右手を差し出す。


「私にも一つ貸しなさい」


 彼に対する恨みは降り積もって山に等しいが、何より今プリシラが怨んでいるのは、殿下を殴ろうとしたのをとめられたことだ。殿下を殴れなかった事を本当に、本当にプリシラは後悔していた。今、その復讐が果たされればこの胸のうちで後悔として燻っているものは無くなるに違いない。


 ソレルは投げようとしていた手を止め、振り向いた。そしてプリシラの顔を見ると、更にその笑みを深めて一度、大きく手を叩いた。


「そうこなくっちゃ! 実は用意してるんですよ~、お嬢様がそう言った時のためにとっときのを!」


 そうしてカートの1番下の段から取り出され、酷く楽しげに渡されたパイもどきに、プリシラは顔を引き攣らせた。


 そのパイ———いや、パイらしきものは食べ物ではあってはならない色をしていた。


 他のパイの中身は鮮やかなものだったのに、何故かこのパイだけは緑とも黄色とも赤とも茶色とも言えない。

 そう、どう贔屓目に見ても口の中から吐き出した嘔○物にしかみえない。

 更にこのパイのパイ生地は……黒かった。それが更に不吉さを誘う。

 ペースト状の生地が黒い、そのパイらしき何かは異臭もしている。もしプリシラが被害者側であるのなら、こんなものは絶対に投げられたくない。


 こんなものを良く今まで隠してここに入れたな、と優秀な従者と侍女を見る。ちょうどグレイスの手から、オレンジ色のパイが飛んだところだった。その顔は非常に生き生きしている。楽しそうだ、とそれを見てプリシラは思った。


「俺達、苦労したんですよー。魔法を駆使して切り刻んで! 渾身の作なんですよ! どうです?」


 楽しげに言われて、どう答えていいかと迷っていたプリシラは、次のソレルの言葉には心から同意して微笑んだ。


「これをアスモデウス様にぶつけられると思うと、わくわくが止まりませんねっ!」

「そういう時はワクテカって言うのよ」


 別世界の断りを話せば、ソレルは「そりゃまたどんな意味です?」と言われる。また後で、と言って特製パイを手に戦場へと歩き出す。


 グレイスはこちらに気づいて、満面の笑顔でプリシラに素晴らしい特上席を譲ってくれた。ソレルは近くにあった花瓶から花を抜き取った。どうするのかと思っていると、残った中身を全部色魔にぶちまけた。


 べとべとになったものが少しは流れ落ち、オールバックだった髪が重力に従って見知った・・・顔が現れる。

 怯えを宿した充血している翡翠色の瞳が目の前に立つプリシラから、異臭を放つパイを持つ手へと移った。微かに唇が震えて何かを言ったのが見えるものの、聞き取れない。聞き取らない。

 プリシラは自然と口元が綻ぶのを自覚する。


「これね、私の侍女と従者が一生懸命作ってくれたみたいなのよ」


 意識して殊更優しく、優しく、甘さを含ませるように告げた。


 しっかりとパイを両手で支える。威力が出るように、スピードが出るように、最大の力でこの男に振りかぶれるように反動をつける。いい感じになったところで、


「―――しっかり、味わってちょうだい」

「ちょ、うわ、ま―――うぎゃああああああ……」


 フルスイング! ホームラン! スリーポイント!

 勝利! 勝利! プリシラ陣の圧倒的勝利です!

 ファンファーレが頭の中で鳴り響く。


「ああ……」


 と、プリシラの口から満足の溜息が出る。清清しい日だ。これほど、清清しい日がかつてあっただろうか。


 悲鳴をあげていた声が消えていた。


 ピクピクと身体が痙攣しているかのように動いているので、彼も随分と二人が作ったパイを味わって楽しんでくれたようだ。


 心から穏やかな気持ちになっている。身体をしっかり動かした後に起こる満足感に近い。優しさに満ち溢れたプリシラは別の花瓶へと手を伸ばし、ソレルがやったように花を取り出し、花瓶を逆さまにして身体・・に水をかけてやった。これで体についていた異臭やドロドロなどが少しは流されたことだろう。顔にかけるなど、可哀想なことは勿論しない。

 ついでに足で鳩尾辺りを何度か踏んで「ぅぐ……っ!」という音を楽しんだ。意識を失っていないかの確認であって他意はない。履いているのがハイヒールだったのは偶々だ。元々踏もうと態々履いて来た訳ではない。勿論。


 ふふ、と笑みが零れた。


「「プリシラ!?」」

「ねぇさまっ!!」

「プリシィ!!」


 バタバタと開いていた扉から、凍りついた顔をした父、兄、ベル、母が雪崩れ込んできた。

 家の使用人達も何人か必死な顔をしている。何かあったのだろうか。今は楽しくて考えられない。

 彼らは部屋の中の惨状を見て、面白いくらいに全員が唖然とした顔をした。

 あまりにも一斉に同じ顔をしたのが面白くてますます笑いがこみ上げてくる。


「ふふふふ!! ベル、敵は討ち取ったわ! 私達の完全勝利よ! ああでも、アレじゃないから、どちらかというとコレは私の敵ね! でもコレにだって恨みはあったでしょうっ? もしあれだったら、ベルもやらない? 楽しいわよ!」


 浮き立つ心に任せて、くるくるとその場で回る。


「これ、は……一体、何が起こったんだ……?」


 父の呟きはたぶん、プリシラ達以外の全員の心を代弁していただろう。

炎に油を注がれたら、風が手助けしてくれて、全てを燃やし尽くして鎮静化。焼け野原には美しい花々が咲き誇ってます。

めでたし、めでたし。


感想返信で「護衛ヤルよ!」って言っていた回がこれです。皆さん満足していただけましたか。

あんまり後書きには色々言うべきじゃないと言われましたが、これだけは言いたい。

この回は書いてて本当に楽しかった。物凄く楽しかった。めちゃくちゃ楽しかった!!

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