形骸の肖像
ここに一通の手紙がある。ソレイユと呼ばれた画家の青年が書いたものだ。
ソレイユは本名ではない。けれど、私は彼のことをソレイユと呼ぶことにする。この名前は、本名以上に彼の体にとても馴染んでいた。不思議と、この名前を疑問に思う人は誰もいなかった。
手紙が届いたのは、真っ赤に染まる葉が落ち始めた冬の頃だった。靴越しでもわかる、うっすらとした冷気が指を冷やす夕暮れ時、ポストに寂しく横たわっていた。その名に懐かしむよりも予感がし、かじかむ指をこすりながらその場で開ける。すると、冬だというのに薫風が漂い、寒さを包んでどこかへ連れ去ってしまった。私の心は夏に戻り、現実の冷気と共に紅の秋を辿り、徐々に今の冬に帰る。夏の気配は一瞬で終わってしまったが、ある光景がはっきりと浮かんだ。太陽のように眩しい、カナリア色をしたひまわり畑。まるで一つの花のように、金髪の青年がそこに立っていた。ソレイユだ。……ここまでは私の妄想に過ぎない。
私は家に入り、手紙を机に置いた。顔が隠れるほどぐるぐるに巻いたマフラーを解き、上着をハンガーにかける。ストーブに火を入れようかと考えながらひざ掛けを掴み、腰を落としながら手紙を取る。ひざ掛けを広げ、もう一度封を開けた。夏の香りはもうしない。
飾り気のない白い紙に綴られた文字は、絵のように曲がりくねっていて読みにくい。傾けないと読めない字がいくつもあったが、彼の字は慣れている。以前一緒に暮らしていたからだ。
親愛なる先生、それが一行目だ。先生とは、私のことである。私は彼と同じ学校にいた。彼が先生と呼ぶのであれば、彼は生徒という関係になるのだが、それとは少し違う。そのことは、今は横に置いておこう。
二行目。私は血の気がさっと引いた。
――親愛なる先生。
「お元気ですか。僕はもういません」
彼の声が、少年のようなソプラノの声が鮮明に蘇る。先生、先生と、犬のように懐っこい彼の声が。
初めに言おう――死は必ずしもマイナスではない。何がどう起ころうとも、すべてを平等にしてしまう、生きるものの終着点だと、私は考えている。
彼は悲観したのではないと、夏の風が教えてくれる。求める答えを知り、辿り着いたのだろうと、思わせてくれる。残された者はそう、思うしかできない。それが彼をマイナスにしないための、大切な事だから。
私と彼の事を、特に、彼の事を知らない人がこの手紙と、私の想いを聞いたところで、理解は出来ないだろう。
そこで、一枚の絵を用意しよう。私と彼が一緒にいた唯一の証で、ソレイユ自身、私自身でもある作品だ。
十号(530×455mm)の白いキャンバスの真ん中に、ぽつんと一つの林檎がはまっている。はまっているように見えるだけで、この林檎はもちろん絵だ。レリーフのように半立体に見えるが、触ると油絵特有の凹凸があるだけで、ぷっくりとした表面はどこにもない。赤いだけではなく、黄色の斑点や青味の残るくぼみなど、細かな部分まで再現している。
写真よりも生々しく、絵画よりも現実を帯びている林檎は、実は私を表している。彼が冗談交じりに、「林檎のような先生、先生のような林檎」と、歌いながら描いた。
その周りに、額縁のような赤い枠がキャンバスの端にぐるりと描いてある。赤い林檎に赤い枠。枠に閉じ込められたような白いキャンバス。息苦しさを覚える。じぃっと眺めていると、呼吸をしているように、赤い枠はじわじわと林檎を締め付けていく――そう、見えるだけで実際は動いていない。
現実にはあまりないであろう、赤い枠……木のようにも見えるし、プラスチックのような艶もある、鉄のような硬質さもあるが、皮膚のような暖かい柔らかさもあるそれは、林檎と同じく、生々しいほど現実を帯びていた。どこか生き物めいたそれは、彼の絵の特徴である。真ん中にあるモチーフはその時によって違うが、赤い枠だけはどんな絵であろうと、必ず囲んであった。真ん中に花があろうと、景色があろうと、人がいようと、最後は必ず赤い枠で終わる。それが何を示しているかは、まだわからないでいた。彼がいなくなった今も、彼がいたあの頃も。
絵の登場により、私と彼の関係は、もしかするとますますわからなくなったかもしれない。私だって、本当のところわからない。
そもそも、なぜ彼が私を求めてやってきたのか、それすらわからない。
私と彼は、つまり先生と生徒なのだが、その関係であった時期、私たちは一切会話をしていない。お互い、そういう先生、生徒がいたなという印象しかなかったはずだ。そのまま卒業をし、印象も記憶もきれいさっぱりなくなったある日、彼はやってきた。
悲鳴が上がった。男か女かわからない風貌をした中年の事務員のものだ。ああ、あの人は女だったのか――そんな事を冷静に思いながら、特に興味なく書類をまとめている時だった。あれはそう……穏やかな光とはまるで違う、春嵐がやって来たのだった。
がらりと職員室の扉が開く。ノックも、失礼しますの一言もなく乱暴に開いた扉を、誰もが注目をした。先生を呼びに来た生徒かと思ったが、時間を見れば、まだ休み時間ではない。では、と思ったところできれいなソプラノが叫んだ。
「先生、先生はいますか!」
職員室にいる全員が振り返った。先生、と呼ばれれば無条件に反応してしまう人たちが集まる部屋なのだ、当たり前だ。もちろん、私も顔を上げた。
太陽をそのまま吸い込んだような鮮やかな金髪の青年が肩で呼吸をしている。制服ではなく、着古して肩の見えるシャツと絵具がこびりついたスラックスを辛うじて着ている。見たところの年齢からしても生徒ではないことは確実で、じゃあ卒業生あたりだろうと考えたのだが、彼の言う「先生」にあたる人は反応を示さない。ここにいない誰かだろうと、ほとんどの人が顔を下げた。私もその一人だ。
「先生、先生、ああよかった、先生」
彼の声が近づく。私はもう一度顔を上げ、驚いた。青年はよく見れば二十代後半にも見え、けれど目に宿る輝きは十代半ばの夢見る少年にも見えるのだが、そこではない。彼は私の目の前にいて、私を「先生」と呼んだ。
「先生、僕です、わかりますか?」
私の記憶力はそこそこある方だと自負している。正直言って、青年の顔に見覚えはない。あどけなさがちらほらと見える顔だから、もし生徒であったのなら、少しでも記憶に引っかかるはずだ。けれど情報の網は何も捕らえない。私は首を傾げた。
「先生、先生、聞いてください。僕は多分、おかしい人間です。何を見ても明確にわかりすぎて、たまらない。何もかもわかるのです。ええ、何もかも。形、色の絶対性はもちろん、素材の質感も、物に宿る価値観も、鼻を通る匂いすらはっきりとわかってしまうのです。言っている意味がわかりますか? 絶対音感はわかりますか? それと同じように、僕の目は絶対色感……目にする景色すべて細かにわかってしまう」
そこまで一気にまくし立てる。その時間、わずか二秒。耳障りではないが、男にしては甲高いソプラノは、金髪のせいだろうか、カナリアが鳴いているようにも聞こえる。他の職員は耳を塞ぎ、目をそらした。私と彼をなるべく見ないように遮断してしまった。私も同じように逃げるつもりだったのだが、宝石のようにきらきら瞬く瞳を見ていたら、すっと引きこまれてしまった。今にも泣き出しそうな目は、純粋という言葉をそのまま固めたように輝いている。まるで赤ん坊のように、強く訴える。
「待って。君は一体誰なんだ?」
次の言葉が降りかかる前に声を滑り込ませる。彼は呼吸を整え、顔を少し近づけた。
「きっと、先生は僕の事を知らないと思います。けれどここの生徒でした」
「私の勘違いでなければ、確かに私は君を知らないが……」
「そうです、一度も教わった事はありません。けれど僕は先生をよく知っています。だからこうして来たのです。助けてもらうために」
「やっぱり、待とうか。落ち着こう」
このまま白熱し続ければ、彼は事務員に連行され、警察に投げ込まれてしまう。純粋な目を見れば、変質者の類ではない事はわかるのだが、それにしたって突然だし彼の言葉は意味がわからない。
「僕は落ち着いています。多少興奮はしているかもしれませんが、落ち着いています」
「本当に落ち着いている人間ならば、落ち着いているなんて言葉は言わないよ……」
「そうかもしれませんが、でも僕は落ち着いているし、おかしい人間なんです」
それを落ち着いてないと、人は言う。
支離滅裂にもほどがある。彼の精神は大丈夫だろうか、それ以上に他の職員の目が怖い。痛みすら覚える視線に、さすがの私も耐えきれなくなっていた。
「とりあえず、場所を移そう」
私が立ち上がると、彼は思ったよりあっさりと「わかりました」と頷き、私の後をぴったり付けた。私はふと、カルガモの親子を思い出すのであった。
ようやく職員室の視線から逃れ、私たちは中庭へ向かった。途中で通るグラウンドに生徒はなく、刻む秒針と鉛筆の音だけを耳に、ベンチに腰掛ける。歩いている間、彼は何も言わなかったが、座った途端に口が開いた。
「先生、僕は画家です。生まれた時から画家として生きていこうと、神と母に誓い、美術という美術に捧げてきました」
彼は両足を放り出し、赤ん坊のように丸い目を空に向ける。青い瞳はより深い青となり、白い雲が映り込む。
「僕が学生だった頃、あまりに美術しかなかったため、授業は何一つできないまま卒業しました。先生が僕を知らないのも無理はありません。僕は水準に満たない生徒でしたから」
すみません、と詫びるように頭をかく。笑うそぶりはなく、しょんぼりと目蓋を伏せる。私は慌てて両手を振り――記憶の中にふと引っかかるものを感じ、手を下した。
あれは確か……私が教師になったばかりの頃か。絵ばかり描いていて、まったく勉強をしない生徒がいて困る、という話を聞いたような気がする。授業中だろうとランチタイムだろうと関係なく、己が感じたままに絵を描き続ける生徒がいる、と……。
「ああ、思い出してきた。確か君は……ゴッホのひまわりを描いた子、だったか……」
「そうです!」
途端、青年の顔に花が咲いた。太陽のように、花開くひまわりのように、彼はぱっと笑ったのだ。
「僕はゴッホが好きでした。今も好きですが、あの当時が一番好きな時でした」
そうか。ならば私はすっかり思い出していた。
有名な作品である、ゴッホのひまわりを盗んできた生徒がいる、と噂になった事がある。それほどそっくりに、本物と間違えるほど、彼は模写を描いたのだ。構図や色彩はもちろん、ゴッホ独特の渦を巻くようなタッチの一つ一つまで再現されている。なぜ知っているかというと、今でも美術室の奥にひっそりと飾ってあるからだ。
「そうか、君が描いたのか」
「そうです、そうです! 嬉しいなぁ。恥ずかしいけれど、見てもらえて嬉しいです」
もう一つ思い出した。彼の名前だ。本名はわからないが、あだ名はよく耳にした。
画家ソレイユがまた名画を描いたぞ、と生徒たちが話していたなぁ。皮肉と羨望を交えた声でささやいていた。
「それ以来、ソレイユと呼ばれていたね」
「そんな事まで知っているのですか! やだなぁ、やっぱり恥ずかしい」
彼ははにかみ、頬の赤みを隠すように頬を擦った。よく見れば、彼は二十代後半の男らしい人なのだが、心の声をそのまま顔に表現してしまう無邪気さは少年というより、幼児のようである。そのせいだろうか、それともここの生徒だとわかったせいだろうか、私の心はほぐれ始めていた。
「先生の所へ来てよかったです。先生ならきっと僕を助けてくれる」
「しかし、知っているとはいえ、噂程度しか知らないが……」
「いえ……僕は先生の人柄はほとんど知りません。けれどその姿形を、学生の頃から気にしていたのです。容姿ではありません。外見でもありません。先生の形、人がそれぞれ持つ形について、です」
彼の青い目がくるりと宙を飛ぶ。朗らかな笑顔は消え、突如乱入した、先程の爛々とした光が再び宿り始め、声が加速した。
「もう一度言いますが、僕は画家です。美術にすべてを捧げています。僕は僕の目を信じ、見えた世界をそのまま描き出していました。けれど僕の目はあまりにも見え過ぎる。見たそのままをそっくりに描きすぎてしまう」
熱っぽい声は浮かされたピエロのようで、彼の瞳は宙を何度も飛ぶ。私が何かを思う前に彼は口を開く。
「僕には輪郭のすべてが明確に見えて、しかも描けてしまうのです。それは描くために、必要な要素です。しかし絵画という部門においてそれは必要と同時にもっとも捨てなくてはならない要素です。現実にあるように描く事がすべてではありません。僕はうちにある内臓で塗り、表現し、今と言う時代を形として残したい。それが必ずしも写実的でなくてはならないというわけではありません。しかし写実もまた、明確に形を残す手段ではありますが、僕が表現し、残したいものはそれではありません」
ピエロが何を言っているのか、私にはほとんどわからない。時々出てくる単語はわかっても、それを繋げる言葉がまるでわからない。けれど彼は止まらない。
「確かに、リアリズムという手段もあります。空想であろうと幻想であろうと妄想であろうと、現実を正しく反映するための手段です。写実とは違い、リアリズムは現実のための現実です。細部まで見えてしまう僕にはぴったりの表現ですが、それもまた違うような気がしてならないのです。写実であれば写真があるし、リアリズムは現実がなくてはならない。僕は、僕は、それらではなく、現在も過去も未来もない、夢のような世界を描きたいのです」
悪夢を言語化したら彼の台詞になるかもしれない。このままでは彼の声に意識を奪われてしまう。腹に力を入れ、精神を統一する。そうでもしなくては、彼の純粋さは毒だと思った。
「リアリズムはリアリズムでも、スーパーリアリズムはご存じですか? あれは写実も現実も超えた、生の絵画です。よっぽど近づかなければ見えない毛穴も産毛も僅かな汗も逃さず描きます。僕もそれを目指していた時期がありました。けれどふと、どうしていいかわからなくなってしまいました。描いても描いても、キャンバスに何もないのです。形はあります。色もあります。人を描いているのであれば、その人そのものがいます。なのに空っぽなのです。生の絵画でなくてはならない存在が、触れても何もない。まるでキャンバスに閉じ込められた囚人のような絵画になってしまうのです」
ピエロから道化師へ、そして役者へと変貌した。ソレイユと呼ばれた青年は両手を広げ、まるで悲劇を謳うように高らかに叫ぶ。悲観の声は空に溶け、余韻は校舎を駆け抜けた。
私には彼の悲しみがわからない。絵を求めない者にとって、描くという行為だけでもすごい事なのだ。色一つ選ぶにしたって、とりあえず好きな色だったり服や髪の色だったりを選ぶしかない。自由過ぎるため、逆に囲いを作って不自由さを作り、限定された中で選ぶ事しかできない。私にとっての絵画はそんな小さな世界だ。
けれど彼の言う世界は壮大だ。草原も空も包み込むほど大きい。
私は唾を飲み込む。気が付けば喉が酷く乾燥していた。
「恐ろしかった。キャンバスという檻の中で必死にもがいているように見えました。だから僕は捨てようと思ったのです。写実にしてリアリズムの精神を。けれど捨てきれなかった。目も手も、現実しか描けないから」
彼の目に水が溜まる。宙を踊る手は赤ん坊のように彷徨い、私の方へ伸びる。私はそれをなぜか受け取ってしまった。けれど彼の顔は晴れない。
「先生。僕はこの感覚を捨てる事はできません。きっとそれが僕なのですから」
「私は君を助けてあげられないよ。美術はまるでわからない。君が何を言いたいのかさっぱりわからない」
「いいんです。美術は、芸術はそれぞれ別の意味で動いています。一人一人考える事もやる事も違います。だからいいんです、これは僕の意見に過ぎません。けれど、先生は僕にとってきっと救世主になるに違いないのです」
彼は私の両手を包み、力を込めて握った。彼の手は細く、骨ばかりが目立つ。けれど熱と力は誰よりもある。目からも熱があふれ出た。
「僕は憧れていました。印象派、キュビズム。ピカソやブラックが目指した世界、ルノワールの光やモネの睡蓮。シーレの死。ベーコンの叫び。ピラネージの牢獄。描くべき表現は山とある。なのに僕は何一つ習得できなかった。唯一残ったのはこの、憎い目です。なんでも見えてしまうから、これらの表現はただの模写になってしまう。表現として体に染みつかなかった」
青い瞳からぽたぽたと涙がこぼれる。子どもだって、人前で泣く事を恥ずかしがる。だが彼は堂々と涙を見せ、強く私を見つめる。
「視覚というのは、感じる前に物を認識してしまいます。裸婦を頭に浮かべてください。肌の美しさを感じる人もいれば、卑猥だと受け取る人もいるでしょう。画家はなぜ裸の女を描くのか。そこには人と言うすべてが凝縮されているから、だと思っています。曲線美はもちろん、暖かな肌の下に流れる母性、赤ん坊に与えるミルク、女の鋭く冷たい感性。丁寧に織り込まれて出来上がったものが、裸婦というモチーフなのでしょう。裸の女だからこそ表現できる暖かさと強さ。画家はそれを描きたいのに、視覚に惑い、情報を遮断してしまいます。実際、僕が描いた絵を見て人はなんと言ったと思いますか? 怖い、ただそれだけです。僕は女と言う体を使い、柔らかな日差しを表現したかった。なぜ怖いか? それは現実でありすぎるからです。視覚に映るものが激しすぎて、そこまで辿り着いてもらえなかったのです」
息がなくなるまで一気に吐き出す。最後の方はかすれ、声も小さかったが、乱れなく揺るぎなく言い切った。しかし、肝心の理由がわからない。そんな私の心の声が聞こえたのか、彼はにこりと笑って言った。
「実は僕、学生の頃、学校の人全員を描いた事があるのです。誰にも見せていませんが、スケッチブック三十冊以上はあります。その中には先生もいます」
私がぎょっとしていると、驚く間もなく彼は話を続けた。
「その当時から、僕はなんでも描くことができました。けれど一人だけ、描けなかった人がいます。それはあなたです、先生」
顔にソレイユが戻る。輝かしい顔で彼はようやく涙を止めた。
「なんでも見え過ぎてしまうはずの目なのに、先生だけはよくわからないのです。ちゃんと人の形として捉えています。先生の特徴もちゃんと把握しています。なのに、紙に描くと姿がぼやけてしまう。そんな人、僕は初めて知りました」
「確かに、私に特徴はないから描く難いかもしれない」
「いいえ、そういう意味ではありません。特徴の有無ではなく、ただ単純に描けません。それだけです。それ以上もそれ以下もなく、紙に先生の姿がまったく映しとれない。学生の頃、それをとても不思議に思いました。だって、まるで化かされたよう」
私と言う人間は他愛もない存在だ。何の特技もなく、姿に特徴もなく、平坦な顔をしている。大勢の人の中では間違いなく、見つける事はできない姿をしている。だから描けないのか? それとは違うと彼は言う。
「あの頃はそれだけで終わりましたが、今にして思えば、きっと今のために用意された人なのでしょう。先生は僕を導いてくれるはずなのです」
なんでも見える目を持つが故に悩む青年。そんな彼が唯一描けないという、私の姿。それが彼の中でどう繋がったのかわからない。わからないが、彼の安心した笑顔は本物だ。それを与えているのは……なぜか私。
「先生。僕はあなたを真っ直ぐ見て、描きたい。先生を描けたら僕はきっと、何かを見つける事ができるのです。お願いです、先生。モデルになってください」
その時、即答したのかどうかは覚えていない。けれど、彼の発する不思議な魔力のせいで頷いてしまったのはよく覚えている。
気が付けばチャイムが鳴り、人のざわめきが校舎に戻っていた。
それから、私たちは明日会う約束をし、彼は春嵐となって学校を後にしたのだった。
モデルになるのであれば、体重を三キロぐらい落とした方がいいかな? なんて、私は妙に悠長な事を思いながら職員室へ戻った。
***
ソレイユの書いた手紙の三行目を、あの頃の私は歩いていた。「今年はひまわりが満開です」と書いてある。
ソレイユの家は学校から徒歩二十分ほどで着く。書いてもらった住所を片手に、建物と照らし合わせながら歩く。
昼間の熱をたっぷり含んだ砂利は、座りっぱなしの足を叱り飛ばすようにちくちくと刺す。まだ空に残る太陽は遠くの大地へ、赤く染み込むように今から落ちるところだった。時折吹く風は生ぬるく、けれど少しだけ冷たい。
ふと、目の前に黄色い地平線が見えた。近づくと、それはひまわり畑だった。これから咲き始めるのだろうか、花はちらほらとしか咲いていない。その奥に、青い屋根の家がある。ウエハースで作ったような小さな家がソレイユの家だった。
ノックをして数秒待つ。奥から慌ただしい足音がして、ぼさぼさ頭のソレイユが顔を出す。油の匂いと湿った風が出迎え、ソレイユは嬉しそうに歯を見せた。
「先生、こちらへどうぞ。あまり人を呼んだ事がないので、散らかっていますが……」
小さな言い訳を付けるところが、やはり子どものようであった。
家の中は思ったより広く、アパートの廊下のような狭い廊下が奥まで続いている。途中、いくつか扉とキッチンがあったが、あまり使われている様子はない。散らかっていない、というよりも触っていないようだ。使っている場所には極彩色の絵具がこびりついている。
一番奥の扉を開けると、シンナーが強く臭った。マジックペンを束にしたような臭いに驚くと、彼は慌てて窓を開けた。
「僕はこの匂いが好きなのですが、先生は苦手ですか?」
「あまり嗅いだことがないからね。煙草の臭いと同じさ」
「なるほど」
ソレイユは深く頷きながら電気をつけた。私は思わずあっと声を上げた。
白い壁一面に並ぶ大きなキャンバス。中央にはイーゼルの群れが迷路のように並び、空いた空間にはねじれて膿んだような絵具のチューブがいくつも転がっていた。私はそれらを踏まないように歩き、それぞれの絵を眺めた。
キャンバスに透明な闇が広がっている。藍色と言えばいいのだろうか。それともウルトラマリンなのだろうか。空とも海ともつかない、宇宙にも深海にも見える背景の中、人の姿が白く浮かんでいた。キャンバスに無理やり押し込んだような、手足を突っぱねて苦しそうに喘いでいる。浮かぶ骨や筋は病床で眠る老人を思わせる。折り重なるようにして生じた皺は、思わず触れたくなる程水分と油分を持っている。かさつきはなく、若々しい瑞々しさすら感じるのだが、これは一体何歳の人なのだろう。性別すら曖昧だ。絵の中の人物は檻の中にいたいのだろうか、それとも飛び出したいのだろうか。今にも零れ落ちそうな眼球はどこも見ていない。しかも、よく見ると絵の眼球は鏡に似た素材で出来ている。こうすることでキャンバスの中の人と私たちを繋ごうとしているのだろうか。お互いの現実を取り込もうとしている。私も絵画の一部になってしまったような錯覚を覚え、少しだけ寒気を覚えた。
隣の絵は少女だった。両足を折り、塞ぎこむようにうずくまっている。けれど顔は前を向き、口は半開きだ。私に何かを伝えたいのだろうか。呼吸する音が聞こえてくるようだった。
その隣も、その隣も、人物たちはそれぞれのキャンバスの中にいた。気味の悪い動物園でも見ているようだ。そう思わせるのはきっと、赤い枠のせいだろう。額ではなく、キャンバスの縁を飾るように、赤い枠が描かれている。どれも奇妙な光沢と質感を持ち、冷たいのか暖かいのか、固いのか柔らかいのかわからない。赤い枠としか言えない何かだ。
「この枠は?」
「僕が思う僕の表現です。それしかうまく言えません」
「深くて広いのに、随分と窮屈そうに見える絵だね。それで合っているのか、わからないけど……」
「絵はそういうものです。それを見て何か感想が浮かべば、それが正解です。だから、怖いという感想も当たりなのですが……。私たちは、これをやってやろう! という明確過ぎるテーマは持ちません。あるからやる。それくらいの精神です。ある、という事が大切なのです。力を込めた作品も適当な作品も、それを思いつき、こうすればいいんだと、行き着いて実行した事に意味があります」
それは僕の意見ですけど、と付け加えて彼はイーゼルを動かす。描き途中の絵を退けて新しいキャンバスを立てかけた。その上にスケッチブックを乗せる。
「先生。その辺の椅子に座ってください。ポーズはなくても大丈夫です。座っているだけでいいです」
私は彼の前に座り、彼は早速鉛筆を取り出す。太い芯が飛び出た、奇妙なオブジェのような鉛筆だ。私が座ると同時に鉛筆が滑り出す。
「君は私だけ描けないと言ったか。他は描けるのか?」
「描けますよ。先に、先生を抜かしたこの周りを描いてみましょうか」
滑る手が上下左右、滑らかに動く。鉛筆がスケッチブックを離れる事はなく、スープを混ぜるようにぐるぐると渦を巻いた。
「とりあえずですけど、こういう感じに」
時間にして僅か一分。こちらに向けたスケッチブックにはイーゼルと描き途中のキャンバスが並ぶソレイユのアトリエがはっきりと描かれていた。荒々しい鉛筆の跡ではあるが、このアトリエと印象がぴったり合致する。
「その間に先生を描きます」
さらに一分。鉛筆を滑らせ、今度は首を傾げた。
「やっぱり描けない。あの頃と一緒です」
「久しぶりに会ったから、ではなく?」
「違います。年月で変わった事もありますが、でも違います。根本が描けない」
言って、見せてくれたスケッチブックの中央に私がいた。キャンバスとキャンバスの間にちょこんと座る私は、私にしか見えないのだが、彼はうんうんと唸った。
「ポーズも体つきも顔立ちも先生には違いないかもしれません。けど、印象が違う。これは先生の輪郭を描いただけです。先生の人柄を消化してないせいかもしれませんが、でも描けない」
なんでも見えてしまう目と描けてしまう手の持ち主であれば、この事態はもどかしいに違いない。私であったら……想像はし難いが、苛立つと思う。少しでもうまくいかなかったら、駄々をこねる子どものようになってしまうかもしれない。子どものような彼だ、スケッチブックを破ってしまうだろうなと、勝手に思っていた。違った。
ソレイユは笑ったのだ。無邪気な子どもも驚くほど真っ直ぐに、笑顔を咲かせた。
ページをめくる。丸くなった鉛筆をナイフで削り、もう一度描き始める。今度は時間を五分かけて描く。鉛筆の動きが少し細かくなった。滑るような音が、小刻みに揺れる。
「やっぱり描けない」
やはり笑顔だ。冒険でもしているように、頬を赤く染めている。鼻の穴を膨らませ、私に笑顔を見せた。
「先生じゃない。先生が見せる先生と、僕が見た先生と、本来の形。全部が一致しない」
スケッチブックにいる人物は、私から見れば私にしか見えない。どことなく緊張した座り姿、服の皺、風で舞う髪、見慣れた顔の配置。全部が私だと、私自身は思う。
「どこが違うか、描いている僕もよくわかりません。けれど違う。やっぱり、外枠だけ描いてしまう。先生じゃない」
「君の考える私とは一体」
「きっと、優しい人だと僕は思っています。狂った僕を助けてくれるから」
「どうだろうか。私は大して優しくないが」
「優しい、という言葉にはいろんな意味が入っています。先生の思う優しさと僕の思う優しさはずれがあります。だけど、僕から見て先生は優しいのです。僕はずっと一人でしたから。描く時はもちろん、人物を描いている時も。人物はモチーフであって、会話はない。まったくないわけではないですが、人間同士の会話とは違う気がします」
ソレイユは困ったように瞳を垂らし、ページをめくった。この感覚も、私にはわからないものだった。画家は寂しい生き物なのだろうかと、思っただけだった。
「そうか」
ソレイユはすぐに笑顔を取り戻す。鉛筆を止め、私の方を見つめた。青い瞳が星のように瞬く。きらきらと、零れ落ちそうだ。
「先生はモチーフじゃないんだ。先生は物じゃない。僕は初めて、人間同士の会話をしている気がします」
ソレイユと私は、昨日始まった。だというのに、ソレイユはすっかり私に心を開いていた。私は閉ざしているわけではないが、けれど彼をどうにかしてあげたいと、思うまでになっていた。彼が純粋だからかもしれない。絵に対する思い、何かを「思う」気持ちが本気だからかもしれない。子どもを相手にするよりも真っ直ぐ、見る事が出来るからかもしれない。あらゆる要素が彼にはある。
「もう一枚描きます」
スイッチが入る。彼は白い世界へ没頭する。鉛筆だけが彼の声で、スケッチブックは彼の頭だ。私は、モチーフだ。彼の表現のための道具だ。意識が遠のき、体がブリキのおもちゃに変わる。彼の鉛筆が削られる度に、私は私ではなくただの形と化す。消失していくような、ぞっとする感覚にも関わらず、脳の奥は痺れ、心地よさを覚え初めていた。
それではいけない、と赤信号が点滅する。
彼は言ったではないか。モチーフではない、と。私が物になってしまえば、彼はまた孤独になる。会話のない、描くという行為だけが残されてしまう。
私は息を吸い込み、腹に溜めた。彼と出会った時のように、意識を引っ張られないように力を入れる。
きっと、の憶測ばかりが頭をよぎる。今までモデルになった人たちは皆、望んでモチーフになったのではないか、と。死の淵を歩くような浮遊感の中で快感を覚え、彼のための物になったのではないかと。
「私は君のモチーフにはなれないよ」
「だと思った。先生は先生です。それ以上でもそれ以下でもない。だから描けないのです。先生があまりにも、先生だから。それでいいんです。僕は勘違いしていました」
スケッチブックをめくる。またも失敗したらしい。
「僕は今までモチーフを描いていただだけです。モチーフとしての人物を、その外見とモチーフになりきってしまった人の心を描いていただけかもしれません」
「人を描いていなかった、と?」
「そうです。初めて人間同士の会話をするように、初めて人を描いています」
「不思議だな。君と私は昨日会ったばかりなのに」
「学生の頃、一応会いましたが、それは出会いとは言えませんね。でもあの頃から、僕は先生が描けなかった。あの頃はまだ答えどころか、疑問が生まれる前でした。僕はラッキーです」
「そうか? あの頃、ちゃんと私を描けていたら君は何も疑問に思わなかったんじゃなかったか? 悩むこともなかった」
「悩みのない表現なんてありませんよ。誰もが思春期で一度悩むように、自分から生まれる何かについて、人はいつでも悩むのです」
「もっと早い解決になっていたかもしれない」
「同時に、僕は早く終わっていたでしょう。早く解決してしまえば、それが学生なら、今の僕はありませんでしたから」
彼の言う事はどれも抽象的だった。目だけを動かし、途中の絵を見る。赤い枠の中にいる人物が、彼の表現が、抽象的な言葉をはっきり目の前に見せてくれるようだった。
けれど、もっと気づくべきだった。描く行為について、彼と絵画と赤い枠について。
――ここで、未来の私の思考を介入させる。私は今、手紙の半分を読んでいる。そこには、私との日々が楽しかったと書かれてあった。
「ああ、だめだ」
彼が否定的な言葉を言ったのは、月すら消えた深夜だった。星も瞬くのを止めて、世界にこのアトリエだけが明るいのではないかと思うほど、静まり返っていた。
「今日はもう描けません」
それもそうだ、スケッチブックは一冊消えてしまった。私の腰も痺れ、足も震えている。特に何もしていないのだが、妙な疲労感が足元からずるりと這い寄っていた。
「すみません、先生。今日は泊まってください。空き部屋がありますから」
帰るよ、と言うはずだったのだが、あまりに疲れていたため、言葉に甘える事にした。
彼はスケッチブックを床に置き、私を部屋へと案内した。ソファとテーブルだけがあるだけの簡素な部屋はありがたかった。極彩色と油とシンナーの混じる部屋はあまりにも刺激が強い。真っ白な部屋は心地がよかった。だからだろう、ソファに倒れ込んだ瞬間、私はぐっすり眠りこけてしまった。
泊まる事になるとは思わなかったが、それをわかっていたように次の日は日曜日で休みだ。私は朝早く起こされ、そのままアトリエへ連れて行かれた。
「今日はキャンバスに描きます」
一メートル近くあるキャンバスをイーゼルに立てかけ、彼は早速描き始めたが、私はまだ寝ぼけ眼だ。
「あ、すみません。そこにコーヒーとパンがありますから、食べながらで大丈夫です」
「動いていてもいいのか?」
「はい。動いてもらったほうが、暖かいものが描けそうな気がします」
意気揚々とした顔は、しかしすぐに崩れてしまった。
パンを食べ、コーヒーを飲みほしてまどろんでいると、彼は突然泣き始めてしまった。音もなくほろほろと涙を零し、拭う事も忘れて筆を止める。筆からも茶色い絵具が零れ、床に滴った。
「やっぱり描けない……。先生は何者ですか」
彼が言うような大層な人間ではない事は確かだ。ただの教師で、独り者で、まだ人生の半分も生きていない。褒められるような人生でも貶されるような人生でもない。どこにでも転がっている石よりも簡単に生きてきた。
「あなたという輪郭も中身もわからない。その目は、鼻は、口は、体は、骨は神経は血管は筋肉は細胞は何で出来ているのですか」
筆がからん、と落ちた。彼はようやく涙を拭い、鼻をすする。立ち上がろうかと思ったのだが、彼は新しい筆を取り出した。
「僕はなんでも見えてしまう。なんでも見えてしまうから、表現に行き詰ってしまった。驕るわけではありませんが、大抵、数枚スケッチをすれば毛穴まで理解できます。なのに先生はわからない。何枚描いても印象が重ならない。僕の思う先生にも先生自身にもならない! こうして照らし合わせていけばいくほどずれて、最初はほんの数ミリだったはずなのに今では数メートルも違う、まるで別人になってしまう。永遠のずれがあります」
彼は絶望し、両肩を震わせた。涙は止まらず、青い目のせいで海が零れ落ちているようにも見えた。絵具にまみれた指がキャンバスをなぞり、描いた線を消す。手にべっとりと絵具が付いても、彼は気にしなかった。油の臭いが一層強く鼻を刺す。
「もっと描かなくては。もっと描き続けたい。先生、先生の時間はあとどれくらいありますか。お願いです、僕に時間をください。先生の時間をください。少し把握するだけでいいのです。先生を描く時間をください」
「今日は一日空いているが……」
「一日じゃ足りない。けど、何年もはかかりません。だから……この家に住んでください。先生の一日を僕に見せてください」
「しかし、仕事が」
「学校は、もちろん行ってください。先生は先生ですから、普段通りでお願いします。それに、教師をしている姿は学生の頃に見ていますから見ずとも大丈夫です。もちろん、本当はそれも把握したいのですが……」
「だが、」
「お願いです……。絵画のためにこんな馬鹿げた事を言ってすみません……けど、僕にはこれしかありません。描く事でしか生きていけません。声も頭も耳も体もいりません。描く事だけ残してくれれば、それでいいんです。それだけが僕の人生なのです……」
懇願というより、彼は命を削って言葉を吐いた。それは赤い枠に似ていた。
「何かになりたいわけじゃないのです。生きていきたい、それだけです。そのために絵画はなくてはならないのです」
彼が羨ましい。なぜそこまで深く思う事ができるのか。私には何もない。何もなくても生きていける。生きる事は、そういう事だと思っている。思わなくては、何かに躓いてしまう。
彼は私を描きたいという。私に存在を与えようとしてくれているのかもしれない。何もないから。彼は私の色を作ってくれる、そんな妄想が過った。
「わかった。長くはいれないかもしれないが、とりあえず付き合うよ」
「先生……やっぱり優しい。きっと描いてみせます。先生の事を」
彼はその辺にある布で顔をごしごし拭い、絵具まみれになりながらようやく笑った。……うまく絆されてしまったが、それもいいだろう。彼のために。私のために。
「先生の優しさすべてを描けるように、もう一枚描きますね。この絵は冷たくなってしまった。石膏像のようです。もっと暖かくしたいのに」
冷たい私が描かれたキャンバスを壁に置き、新しいキャンバスを取り出す。失敗だというキャンバスには、確かに私がいた。
怖いぐらい、私じゃないか。十分も経っていないのに、私がここにいるじゃないか! 寝ぼけた顔も食べている仕草も私そのもの。私が持つすべてがそこにいるというのに! それを否定され、じゃあ私はなんなのだろうか。彼の見る私とは。
途端にぞっとした。急速に生気が奪われる。けれど保たなければならない。持っていかれてしまえば、私はただのモチーフと化してしまう。きっとこれは、私と彼の戦いに違いない。そう、思うようになっていた。
「先生」
彼は筆を動かしながら、上目で私を見る。まるで犬のような仕草に少し笑ってしまった。
「出来れば、僕の友人になってください。モデルとしてではなく、友達に。今すぐとは言いませんが、少しずつ……歩み寄れたら嬉しいです」
邪気がない人間というのはややこしい。戦いたいのに戦わせてくれない。
「いいよ、ソレイユ」
「ありがとうございます、先生。こんなにいい人に巡り合えて僕は幸せです」
恥ずかしい台詞も難なく言い、彼はキャンバスに没頭した。
***
それから、彼との日々が始まった。手紙のほとんどに書いてある私との生活。よっぽど嬉しかったのだろうと、あの時の彼と照らし合わせながら読む。私の癖、言葉、彼はよく覚えていた。彼の事は私も強烈に覚えているが、それでも薄らぐ記憶もある。けれど彼はすべてはっきり覚えていた。夏の水の匂いが強烈に蘇る。
私が椅子に腰かけている間。食事をしている間。本を読んでいる間。入浴をしている間……は、さすがに困惑したし、トイレまでは付いて来なかった――寝ている間。彼の手は止まる事がない。
一日、一日、いや、一時間後でも彼の腕は速さを増し、精度を上げる。鉛筆もスケッチブックも片時も手放さず、毎日五冊と五本は消費していた。私はそれを見る度、自分の肉が捨てられていくような錯覚を覚えていたが、すぐに振り払う癖を身に付けた。
私が仕事をしている最中は描けないので、彼は悔しそうに、
「教師である先生がヒントかもしれない。ああでも学生の頃描いたけど、それも描けなかったしなぁ。でも今なら描けるのかなぁ」
「四六時中張り付いていたら、ストーカーとして捕まるよ」
「もうすでにストーカーですけど。怖いものはありません、とはいっても、警察に捕まっては描く事ができません」
「だから我慢するんだ」
「はい……わかっています……けど、悔しいです」
話すうちにわかってきたが、彼は私の予想以上に子どもらしい。見た目はすっかり青年なのだが、表情も仕草も子どものそれだ。私が教えている生徒たちよりも幼い。
「この顔つきは今までの中で一番マシかなぁ。どうですか、先生」
いくつか描かれたキャンバスのうち、彼にとっては描きかけでも、私にとっては完成している作品を取り出す。他の作品同様、謎の素材で出来た赤い枠に両手足を突っぱねた私がいる。毛穴一つも取りこぼさず描いた私は私以上に私なのだが、それでも彼は満足していない。
「この私は表情がないね」
ほとんど作品には苦悶があった。けれど私を描いたものはゼロの顔つきをしている。
「とりあえずですが、なしにしたのです。表情一つ取っても表現になり、僕の目指すところとは違う方向へ行ってしまいそうなので、無にしたのです。それがよくないのかなぁ」
彼は私の買ってきたホットドックにかぶりつき、咀嚼しながら筆を回す。私も同じように齧り、紅茶を飲み干す。彼は片手で持てるようなものしか食べないため、ほとんどがホットドックだった。こうして二人で食事を取るのは珍しい。彼は、自分の中の絵画スイッチが切れないと食事をしようとしない。食べる間すら惜しいのだと言い、食事をしている私を凝視して描き続けている。今日は偶然、スイッチが切れた。けれど彼の頭は絵画一色だ。食べ終わる頃には、スケッチブックを取り出していた。
「だんだんですが、先生の外見は把握できました。中身まで見る事はできませんが、それだけでも大きな前進だと、思いたいです。完成形がもっと浮かべば早いですが……」
「絵には設計図がないのか?」
「僕の場合、ありません。頭の中に何度も完成図を描き、それがはっきりとした形になったら描き始めます。今回は完成形がまだ曖昧なので、とりあえず手を動かしている状態です」
「そこまで私は複雑か? 宇宙人よりは簡単だと思うが……」
「宇宙人! 未知なる生き物と同じぐらい、先生は未知ですよ。宇宙人は想像で描けて正解がないけど、僕には先生という答えが予めある。完成が楽しみです。これをクリアすれば、僕は別の道を見る事ができるかもしれない」
「君の表現は今とは違うのか?」
「先生は好奇心旺盛ですね。今の表現……これはどことなくゴールが見えてしまう。描き切ったらおしまいのような気がするのです。他の表現をしたくとも、僕の目が異常なのでなかなか入れません。その境目に先生がいるのです。だから、この壁がなくなった時、もっと違う絵が出来上がる気がして」
ここで笑顔を咲かせるのがソレイユなのだが、今日はふと視線を落とした。
「けれど、僕は信じていた目に裏切られた気分です。あれほど見過ぎていた目なのに、先生となるとまるで役に立たない」
ソレイユの笑顔が戻る。落ち込みを見せた以上にぱっと明るく咲いた。
「それ以上に、楽しい! 描く事がこんなにも楽しい事だなんて、心から実感できたのはいつ以来だろう。やっぱり絵が好きなのだと思えました。描く事とは、こういう事なのだろうと、体中で実感しています」
紅茶を一気に飲み、筆を持つ。ほとんど着色を終えたキャンバスに、赤い絵具を塗りたくり、赤い枠を作る。今度の私はどんな顔になるのだろうか。
「絵画は基本一人です。こうして誰かと一緒に模索するのもいいですね。食事も美味しく感じる」
「それはよかった。食べる事は基本だよ」
彼は口の端で返事をして、絵画に没頭した。
「先生の顎は細め……尖っているようにも見える……体格はそんなに大きくないが、手足は大きい……肩が大きい。着やせするタイプですね。足首は細め……」
そんなことをぶつぶつ言いながらやるから、どうにも恥ずかしい。思うだけでも顔に出てしまうらしく、彼は何も言わずににやりと笑うだけだ。
こんなにも誰かに見られる事も、把握される事もない。彼と同じように、私も誰かといる面白さを感じている。家族や友人、恋人とは違う、別の繋がりを感じる。作者とモチーフではなく、同一の空間を共有している双子のような糸が私たちの間に生まれる。
「先生、何を考えていますか?」
「いや……なんでも。そういえば、君は働いていないようだけど、絵具の資金は大丈夫なのか」
「先生」
珍しく彼の筆が止まった。見れば、彼は拗ねているらしく、口をへの字に曲げた。
「僕、最初に言いましたよね。画家だって」
「あ」
「ちゃんと売っていますよ、絵を。これでもそれなりに売れているのですよ」
これを失言と言う事を、身を持って実感したのだった。
***
彼との生活も、一か月が過ぎた。自宅は時々帰るが、必要なものを取りに行くか掃除に行く以外は、ほとんど行かなくなってしまった。最初は不自由をしたし緊張もしたが、それは一週間もしないうちに慣れ、今ではすっかり、彼の家が自宅になっていた。
キャンバスの中の私はというと、かなりの進化を遂げていた。私が見るに、これはほとんど私ではないかと思うほど、写真よりも生っぽく、現実の私とは布一枚隔てた向こうにいるだけの距離となった。
調子が良くなると、彼は食事を忘れる。私が用意しないとまるで口にしない。飲み物すら口にしない事が多かったので無理やり飲ませた。これでは介護だと思ったし、彼もさすがに嫌がるだろうと思ったが、彼の絵画への執着はすべての事を些末な行為にし、気になどまるでしなかった。
「絵は料理に似ています」
「君に料理ができるとは、知らなかった」
「僕を馬鹿にしているでしょう。これでも一応、しますよ。今は描くものがあるからしていないだけです」
子どものような反論は相変わらずだ。一緒にいるせいか、打ち解けてもっと酷いものになっているような気もするが。
「例えば肌色。人種によってさまざまですが、ペールオレンジが主体だとしますね。欲しい色は朱色、黄色、白、が一応基本です。配分は朱色と黄色が少なめ、白が多めです。これで大体の色ができたら、別の色を加えます。僕の場合だったら、もう少し赤と白を足します」
彼はパレットの上に朱色と黄色と白を出し、言った通りに混ぜた後、赤と白を足した。
「これを基本の色にし、後は光と影の色を作ります。人間には一応ない色ですよね。光が生み出す色ですから」
「確かに料理だね。女の化粧にも似ている」
「先生、恋人がいるのですか? だとしたら、独占して申し訳ないです」
「今はいないよ」
「そう……ならいいのですが。じゃあ、化粧に例えましょう。女性も隠し味を沢山盛り込んでいますからね」
ソレイユは苦笑気味に淡いピンクや紫を取り出し、水色まで作り始めた。それをキャンバスに塗る。
「肌色とは思えない」
「思えないでしょう。けれど、僕たちの肌は思った以上にいろんな色が混ざっています。皮膚を通る血管、神経、毛穴のくぼみにも色はあります。皺、筋肉、それらの浮き立ちで色も変わる」
「君はそれすら、描いているね」
「そうです。本当はそこから脱却したいのですが、今は脱却体験中ですね。先生が描き切れていませんから」
彼は嬉々と続ける。
「声や表情にも色はありますよ。僕たちの間には今、オパールグリーンが漂っているような気がします」
「それも描くのか?」
「描きます。描きたいです」
隠し味をいくつも盛り込んだ私の姿。完成が楽しみだ。
「絵は料理の天才ですよ。刻んで炒めて煮て炙って盛り付けて。素材そのものを作る事だって出来る」
くるりとキャンバスを私に向ける。珍しく小さなサイズで描かれたそこには、一つの林檎があった。
「珍しい。美味しそうな林檎じゃないか」
「先生をイメージした色を並べていたら、林檎になっちゃいました。丸くてつやつやしていて鮮やかな赤なのに、剥くとクリームみたいな柔らかい色。でも瑞々しい。ふふ。林檎のような先生、先生のような林檎」
絵具がたっぷりついた手で口を覆ったため、彼の口は真っ赤に汚れてしまった。
「ああ、ほら……これでは人食いのようだよ」
私が拭うと、彼は余計に笑った。
「世話好きの林檎ですね」
「こうでもしないと、君は単なる一方的なストーカーに成り果てるからね。世話をする事で私に意味を持たせ、君を成り立たせているんだ」
「もうストーカーを超えましたよ。今では先生のちょっとした変化もわかる。今日の先生は皮膚が一ミリ下がっている」
なんて、と冗談交じりに彼は言ったが。
久しぶりに寒いものが走った。なぜかはまだわからなかった。彼の言葉は時々怖い。絵が怖い。
私は苦く笑ったが、彼はわかってしまっただろう。ソレイユは一瞬固まったが、私と同じように笑うだけだった。
手紙を読み返しながら、私はあの頃の感情を思い返す。
私のような林檎を同僚に見せた時、なぜかみんな不気味がった。キャンバスに真っ赤な林檎と真っ赤な枠があるだけの、赤と白だけで構成されただけなのに、誰もが目を合わせようとしない。
問うてみると、誰かがこう言った。
羊を目の前で殺して食べるような感覚だ、と。
不気味であることを強く言いたかったのだろう。それを強く感じたのは、林檎の絵をもらってからしばらくしてからだった。
風邪を引いた。目蓋を焼き切る残照に苛立ち、毛布を投げ捨てようとしたところで彼が入ってきた。片手にはスケッチブックと鉛筆。指なのか鉛筆なのかわからなくなるほど、同化している。
「先生……大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。君は部屋から出ていた方がいい」
描きたいのだろう。風邪の私を。それはわかるが、熱による痛みと気だるさは必要以上に私を興奮させ、苛立たせていた。
「……先生。僕、何か食べれそうなものを買ってきます。ゼリーなら食べられますか?」
「いいから、部屋から出ていなさい。うつるよ」
「でも」
「早く描きたい気持ちはわかる。病床の私を描くのもいいだろう。けど、そこまでして今は描いてほしくない」
ソレイユは怒られた犬のようにしょんぼりと肩を落とした。今まで散々、私の事を優しいと言っていたのだ。裏切られた気持ちでいっぱいだろう。そこまで豹変したわけではないが、彼に声を荒げたのはこれが初めてだ。
「今の私の皮膚はどうなっている? 筋力も衰えているだろう。あまり食べていないから、眼球もどうなっている事か。苛立つ私の顔はどうだ。君が描きたかった私ではないだろう」
これが、うんざりという気持ちだ。ほとんど初めて、明確に味わう。
見られる行為に幸福感のようなものを感じた時期が多かった。けれどそれは、ひっくり返してしまうと恐ろしい行為だったのだ。林檎の絵を不気味がる同僚はそれを瞬時に感じた。私は鈍感なのだ。
女性が老化を恐れるのと同じような恐怖が、私の中に芽生えていた。あの林檎がすべてを物語っている。
「君は結局、優しいと言われる私が描きたかっただけだ。けれど私はさほど優しくない。君に都合のいい人間だっただけだ。君がどうして学生時代に描けなかったのかはわからない。もしかすると、見知らぬ先生に妄想を抱いていたのかもな。実際の人物で虚像を作っていたんだ。信仰する何かを、君は勝手に作り上げていたに過ぎない」
なぜこんなにも苛立っているのか、次第にわからなくなってきた。彼を傷つけているのかどうかもわからず、私はただ言う。
「君の絵は、君の自己満足だ」
酷い言葉だ。もし私が画家だったら、答えられず泣いたかもしれない。
しかし彼は――笑った。ソレイユの笑顔が咲いた。
「そうか……そうですね、先生」
彼は笑ったが、私には近づかなかった。それが彼の見せる、せめてもの誠意だった。
「僕は結局、自分に都合のいい絵しか描いてこなかった。都合のいい人間を描いて、勝手に閉じ込めていただけだ」
一呼吸置いたが、笑顔は崩れない。
「自分で言ったはずなのに。僕はおかしい人間だって。何もかも見過ぎている。見過ぎているから、自分の表現が出来ない。僕は僕の都合で何もかも赤い枠の中に押し込めていた……先生、そういう解釈でいいですか」
「ソレイユ……。すまない、変な八つ当たりをしてしまった」
「いいえ、本当の事です。先生の言う事はきっと……僕にとって答えになるはずです。いつまで経っても先生が描けなかったのは、それなのかもしれません。先生って案外と怖いですね。なるほど……。僕は見え過ぎていたから、何も見ていなかった」
言って、彼は部屋から出て言ってしまった。私は焦った。純粋そのものの青い瞳から涙が零れてしまっていないか。私は慌てて彼を追い、アトリエに入った。
彼はキャンバスに向かっていた。彼自身がモチーフになったように、静かに筆を滑らせる。薄暗い中、そこだけスポットライトが当たっているように、柔らかな光の輪郭が浮かんでいた。
話しかけられなかった。彼は目を伏せ、手に筆を任せていた。それでも筆は的確に何かを描く。迷いはなかった。
「今すぐには無理かもしれません。でも、僕はきっと別の道を見る事ができるはずです。先生が教えてくれたから」
「私は、何も」
「やっぱり一人より二人でよかった。そして先生でよかった。みんなは僕の事を画家先生としか呼んでくれないけど。先生だけは、原点であるソレイユの名で呼んでくれる。僕はもっと、この想いも大切にしなくちゃいけなかった」
先生、と続ける。これが私の聞いた、最後の言葉だった。
「先生。僕はもう、先生がいなくても描けそうです。今までありがとうございました。長い間お世話になりました。先生との生活は人生の中で一番楽しい時でした。だからあと一日。最後の日をください」
それは手紙の中でもう一度再現される事になる。
私は何も言えなかった。あの時感じた絆も一体感もどこかへ消え――ピーターパンを信じられなくなった大人のように、見えなくなってしまった――それでもそれは続いていると、勝手に思い込みながら、私は次の日、彼の家を後にした。
その後、彼からの連絡はなく、時々展示会を開いているという噂だけを聞いた。一度だけ見に行ったが、そこにあった絵画に赤い枠はなかった。ただそれだけの印象しか残っていない。
私は彼から何かを奪ってしまったのではないかと思った。赤い枠という彼の個性を奪ったのではないか、と。それは違うと、彼は手紙の中で言っている。
***
手紙の最後には、私のおかげで別の視点が見え、顧客が増えたと書いてある。赤い枠が取り払われた彼の絵画は幻想的で、まるで夢のようだと誰かが言っていたが、そうなのだろうか……。窮屈さを感じていたが、それでも彼はそこにあるものを、現実以上に描いていた。それでよかったのに。
私は手紙を手に、彼のアトリエへ向かう。
歩く度に冷気が足にまとわりつき、色を失いつつある景色は体を重く沈める。今年は寒暖の差が激しかったため、辺り一面が真っ赤に染まった。まるで彼の絵のように、私たち人間は紅葉と言う枠の中に閉じ込められ、季節の移ろいを噛みしめていた。
そういえば、彼の家の近くにあるひまわり畑が満開になるのを、まだ一度も見たことがない。暑い夏の日に見ていたら、どう見えただろう。突き抜けるようなコバルトブルーの空の下、鮮やかに咲き誇るカナリア色をした大輪の花。一面に広がる姿を見て、彼はどう思ったのだろう。
何もかもが小さく見え、彼はソレイユという枠の中、突っぱねながら散り消えたのだろう。ひまわりがあまりにも鮮烈過ぎて、己の花びらが砕けたのだろうか……。
家の前に立つ。遠く、枯れたひまわり畑が並んでいる。うな垂れた茎がいくつか残っているが、大半が土に横たわっている。土は灰色に乾き、木枯らしで舞い、空へ吸い込まれる。
手紙はこう、締めくくられている。
「先生を完成させることはできませんでしたが、それでよかったのです。完成させてしまったら、僕は別の人間になっていたかもしれない。もっと驕った画家になっていたでしょう。
ところで、今年はとてもひまわりがきれいです。ソレイユ、なんてあだ名がついているのが、恥ずかしくなるぐらい、鮮やかな満開です。自然の花はどうしてこんなにも美しいのでしょう。僕たち画家はどうしてそれができないのでしょう。どうしてそれをする必要があるのでしょう。何もかもが小さく見えてくるのです。悲しくなるほど、ひまわりは鮮麗なのです――」