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 僕の朝は忙しい。

 毎朝5時に起きるのは慣れてきたものの、やはり眠気というやつは厄介だ。どうしても拭い去ることができない。人間の三大欲の一つに“眠欲”があるのが関係しているのだろうか。じゃあ優志は朝眠くないのだろうか。いや、眠いはずだ。朝眠くない生き物なんて、えーと、あれだ魚くらいだろう。だって水中だし。

 今日の朝は、まぁ60点だ。とくに何も問題はない。

 人間たるもの、朝起きたらまずは顔を洗おう。洗顔は大事だ。朝の眠気を大分洗い流すことができる。そしたら歯磨きだ。僕はなぜか歯磨き粉のミントっぽい味が好きなので、つい付け過ぎてしまう。悪いわけではないのだろうが、取り立てて良いわけでもないので、いややっぱだめか、目安の量より大分多く使ってしまっている。半月でチューブ一本を使い切るなんて異常だ。だから、きっと直した方が良いのだろう。

 歯を磨いたら、僕の行動パターンは二つに分かれる。着替えるか、そのまま朝食に移るか。これについてはそのときの気分で決めてしまうのが常だが、今日はそういうわけにはいかない。僕に限ってそんなことはないと思うが、万が一制服に朝食をこぼしてしまうなんて失態を犯さないとも言い切れない。

 何事にも慎重に考えれば、失敗はない。優志はよくそう言って得意げになっていたが、慎重に考えすぎて○○ってこともあるしな。僕はザックリと生きていくことにしよう。で、どっちにするかと言えば後者だ。口の中がデオドラントなので冷たいものはやめておこう。ということで温かいもの。目玉焼きでも焼くか…あれって、別に温かいわけじゃないけど、火を通すわけだからそれなりに熱を持つはずだ、“温かいもの”の中に入れても矛盾はない。

 しかしこの季節、こんな寒い朝は久しぶりだ。確か今は暦的に春ではなかったか? それもエイプリルフールで嘘をついてから40日もたっている。寒すぎだ。いつから日本はグリーンランドの仲間入りをしたのだろう。寒いことによって得るものは限りなく少ない。まだ暑いほうがマシだ。はるかにマシだ。地球温暖化なんてほっときゃ直る。そんなグローバルな世界規模の問題は実はスケールのでかさで重要に見えるだけで、実際はそれほどでもなかったりする。大体地球の問題はそれだけではないだろう。日本だけでも、政治とカネだとか少子高齢化だとか病院のたらい回しだとか、いかにも先送りにしたい面倒な問題を抱えているではないか。まずはそういう実生活に関わってくるような些細な課題から攻略していくべきだと思う。人間本気を出せば、出来ないことなんて空を飛ぶことくらいだ、というのは紅華様が言っていた言葉だったか。

 いつも思うのだが、卵って何でこんなに割りにくいのだろう。フライパンのふちに卵を打ちつけると、必ずといっていいほど卵のカラが混ざってしまうのだ。淡黄色の白身にアプリコットのようにキレイな黄身。その中に無機質な白い塊。邪魔だ。空気を読め。白身と黄身の中に貴様が入ってくる余地はない。自主的に去れ。砕くぞ。

 熱したフライパンに触れ、卵は急激に固体へと変化していく。黄身は半熟がいいよね。僕は白身のふちのコゲ具合をチェックしながら黄身のプルプル感をキープさせる。これがなかなか難しい。百妃(ももひ)さんはどうやって毎朝あんなにハイクオリティな目玉焼きを作っていたのだろう。うん、これは十分尊敬に値するかもしれない。

 焼き上がってきたようだ。僕としてはそのまま延長してベーコンエッグと洒落込みたいところだが、生憎時間がない。火を止め、皿を出し、目玉焼きを上に乗せると、冷蔵庫からハーフカットのキャベツを取り出して刻む。千切りキャベツ、かっこよく言えばコールスローだ。これでタンパク質とビタミンは揃ったわけだがしかし、主食がないじゃないか。パン派の僕は、あろうことか食パンを切らしてしまっていた。まずい。まずいぞこの状況は。どうにかして打破するしかない。時間がないんだって。

 何かあったかなと、戸棚をあさってみる。インスタントのラーメンが残っていた。クソッなぜ味噌しかないのだろう。朝から味噌味のラーメンなんてこってりしたもの食えるか。これでも健康にはわりと気を使っている。ラーメンはだめか…仕方がない、不本意だが買い弁にするしか道は残されていないようだ。近くのコンビニで、バターロールでも買っていこう。忙しい朝にせっかく用意した朝食なのに、もったいないとしか言いようがない。急いで食べなければならないなんて焼かれた卵や刻まれたキャベツに失礼じゃないか。一人でつぶやきながら席に着く。客観的にいえば、かなり頭のいかれている高校生だと思われるだろう。しかしそんなものは所詮、そう思うやつの利己的感情でしかないと思わないか?

 目玉焼きに塩を振り、まずは一口、二口。うん、いける。目玉焼き程度作れない方がおかしいのだが、問題は塩の振り加減だったりする。僕はしょっちゅう『お前は病的な薄味派だ』と言われるが、この食文化の国際化が叫ばれているご時世に、なぜ本来の日本人にあった味覚をしている僕が非難されなくてはならないというのだ。あれか。赤信号の原理か。みんなで渡れば怖くないってか。集団行動の成れの果てだな。一人になったとたんさびしくて死んじゃうタイプ。ウサギ以下の下等生物も甚だしい。三途の川でも渡ってろ。

 食事も済み、一段落したところで僕は気づいた。なんてこった、僕はまだ着替えすらしていないじゃないか。時計を見ると、5時45分ちょい過ぎ。ヤバイ。遅れる。6時前には家を出なくてはならないのに。無理だ。あー、ほら、もう47分だよ。一分って早いな。二階の自室に戻った頃には50分ってパターンだろ。しかしそんなことをぼやいている場合ではない、僕は行かなくてはならないのだ。

 ダッシュで階段を駆け上がる。3秒だった。意外と速いものだ。まずパジャマを脱いで、あー寒い、自室のスタンドにかけた制服をハンガーごととり、シャツ、ズボン、ネクタイ、セーター、最後にブレザーを羽織ってハンガーを戻す。階段を下りる間にボタンを留め、準備完了。時計の長針は【11】の手前。思ったより時間があった。時間があったら何をする。…とりあえず、髪でも整えておくか。ここ数ヶ月、散髪を怠っていたせいで、ベリーショートの女子くらいの長さになってしまった。帰ってきたら床屋に行こう。

 カバンを持って玄関に向かう。ちょうど、壁時計が6時を知らせるメロディーを奏でる。間に合う…か? 6時半集合だ、少し早歩きをすれば済む程度のタイムロスだろう。外に出ると、暖かい春の日差しが僕に降り注いだ。今の僕にとってはまぶしいだけの視覚的障害物でしかない。あんまりな言い方だとは自分でも思っているが、思っているだけだ。撤回する気はない。

 僕は早速小走りで進む。案外余裕で間に合うんじゃないか。少し気を緩めながらコンビニの前を通ったときだった。

 Uターン。

 馬鹿か僕は。何普通にスルーしているんだ。コンビニに寄ってバターロールを主食代わりに買い弁していくと言い出したのは誰だ。僕か。うわぁ…とんだ誤算だ。一気にロスタイムが大きくなる。でも食べないわけには行かない。午前中は過酷な授業が待ち構えている。何てことだ…どう転んでも分が悪い。僕は少し悩んだ末に、やはりコンビニによることにした。さすがに高校生男子が朝のエネルギー源を目玉焼きと千切りキャベツだけというのは無理がある。

 店員ののん気な『いらっしゃいませー』という朝の挨拶を完全無視してひとしきり悪い印象を与えた後、まっすぐにパンコーナーに歩み寄ってバターロールを手に取り、レジに直行。店員が黙々とバターロールのバーコードをスキャンしている間に、僕は120円を店員に手渡して早々とコンビニを出た。しばらく、このコンビニには寄らない方がいいだろう。

 ズボンのポケットからバイブレータ。この急いでいるときに誰だ、メールなんか送りつけてくるやつは。歩きながら携帯電話を開いて受信ボックスを確認すると、優志からなんの絵文字もない無機質なメールが送られてきていた。

[何をやってる?]

 お前から届いたメールを見てんだよ。もう15分じゃねぇか。間に合う方がミラクルだ。食パンを切らすとろくなことがない。僕はメールを無視して携帯電話を閉じ、バターロールの包装紙を破いてがっついた。うまい。

 しばらく走る。やっと校舎が見えてきた。門をくぐった時点で、6時半ぴったり。どう急いでも、2-Cに行くまでに5分はかかってしまう。

 とりあえず遅刻は確定だ。ならばいっそのこと思いっきり遅れてしまおう。ていうかサボってしまおう。レッツサボタージュ。6時半集合なんて無茶な召集命令を出した杉由にはあとで懺悔してもらうとして、ひとまず校舎内へ入ろう。教頭が門のところで仁王立ちしていた。黒に灰色のストライプが入った真面目度ハイパーのスーツをビシッと着こなし、まだ枯れていない短髪を風になびかせ、走ってくる僕の姿をとらえたのかかけていたサングラスをはずし、こちらを眼見してくる。しかし問題はない。

 僕はそのまま止まりもせずに一直線に突っ切った。案の定すでに校門は閉まっていたが、軽々と乗り越え、華麗に着地すると、聳え立つ校舎を左折して昇降口へ――は向かわず、途中で曲がり、渡り廊下を越えたところにある裏道に身を隠す。ヘッ、予想どおり。一年経ってもヘタレぶりは健在だ。去年もよく遅刻して、その度に校門で待ち構える教頭を完全スルーで通り過ぎていったものだ。なんでも以前勤務していた中学で傷害事件があったらしく、それから教師らしからぬ‘生徒恐怖症’みたいなものを患ってしまったとか、そうじゃないとか。あいつの情報はあてにならないからな…ま、ウソだとしても、そんなガセネタを信じるやつがいるくらい教頭はヘタレだということだ。ご愁傷様としか言いようがない。

 裏道は朝と言えど薄暗く、木々が鬱蒼と生い茂る不法地帯へと続く道であるため、手入れも施されていない。これでも一応学校の敷地内なのだから、しかるべき処置をしないとそのうち近所から苦情の電話が殺到することだろう。今はその一歩手前をなんとか維持している、といった非常に不安定な状態にある。明日には芝刈り機が唸りを上げていてもおかしくない。というか、一般的にはむしろさっさとこの伸び切った草を刈れこの野郎、なんて思ってるやつも少なからずいたりして。

 その中にしかし僕はいない。ここは誰も立ち入らない、言ってしまえば僕専用のガーデン。伸び切った草も、雑木林へと続く薄暗い道も、そしてその先に待っている≪アイツ≫も――僕にとって、なくてはならない必要不可欠な存在だ。

 いきなり挨拶もなしに顔を出したら怒るだろうか。今度こそ、顔面を金属バットで殴られるかもしれないし、チェーンソーを大きく振りかぶられるかもしれないし、単純にボコられるかもしれないし…。≪アイツ≫は他に類を見ない残虐な性格をしているから、もしかしたら死ぬかもしれない。でも、死なないかもしれない、かもしれない。知れないんだったら、知りに行こう。というわけで、僕は一度は止めた足を再び前へと運び、雑木林に造られた腐葉土の道を一歩一歩踏みしめた。

 何度通っても、慣れることが出来ないこの薄ら寒さ。毎日のようにこの道を通っていたが、ここに生えている木々にマイナスイオンを放出する能力は皆無なのだろうか。初めて来た時も、めんどくさい授業をここでならサボれるだろうと思って、単なる避暑地くらいにしか感じなかった。今思えば、あの時僕が学校を抜け出して近くのコンビニで涼むという選択肢を選んでいたら、今こうして意気揚々と雑木林を歩む自分なんて夢にも現にも考えることはなかっただろう。あー学校ってめんどくさい、生きるってめんどくさい、剃刀買ってリスカしようかな、クソッだめだ金足りねぇ、みたいな事を延々と頭の中でつぶやきながら週刊誌のページでもめくっていたかもしれない。

 光が差した。

 雑木林の奥まで行くと、空が見えないほどに生い茂った木々の間から、かすかに日光が降り注ぐ場所がある。≪アイツ≫はいつもそこで、本を読んでいる。

 今日も、暗くなったステージの一角を照らすスポットライトのような光を浴びて、≪アイツ≫は寝そべって小動物と戯れていた。


 僕が足を踏み入れた瞬間、小動物が≪アイツ≫のもとから去る。厳密に言えば、≪アイツ≫の方から小動物に『逃げろ』と指示したのだ。

「よ、鈴森」

 僕は軽く手を挙げた。

「…――……」

 相変わらずの鋭い目つきでこちらをにらみつける≪アイツ≫――鈴森(すずもり)星慈(せいじ)

「何だよ、今日もまた一段と機嫌が悪いな。悪かったとは思ってるよ、小動物との至福の時を邪魔し」

「帰れ」

 即答だった。

 これは…もう、機嫌が良いとか悪いとか、そんな問題じゃない。

 爆発寸前だ。

 ここは正直に帰った方がよいのだろうか。

「……冗談抜きで機嫌悪いな。どうした、僕以外にも何か原因があるのなら遠慮なく言ってくれ」

 棒読みにならないように注意してみた結果、逆に芝居がかった口調になってしまった。

 彼に、あるはずなどないのだ。

 僕以外に、彼の感情が変化する原因など。

 あったとしても、どうせ巡り巡っての起源は僕だろう。

「鈴森、きみの機嫌が悪いわけは分かってるよ。ごめんね。用が済んだら、すぐに返してあげるから」

 心にもないことを言ってみる。

 それを知ってか知らずか、

「御託はいらねぇ。さっさと失せろっつってんだよ」

 厳しい一言を僕に浴びせてくる。

 さすが、残虐ボーイ。口の悪さも天下一品だが、あいにくこちらも彼の毒舌には慣れてしまった。

 僕は作った顔を緩めると、

「それは自殺宣言か? 鈴森、今お前が言ったことはそれすなわち、死を意味するぞ。僕がいなかったら今頃、お前は苦しみ悶えながら無残で無意味で無意義で無用な死を迎えていた。それはお前自身が一番よく知っているはずだがな」

「失せろっつってる」

「それは無理だ。用もないのに授業を抜け出してこんな辺境に行くほど僕は物好きでもないし暇でもない」

 というのは大嘘で、単に“遅刻”という烙印を押されるのが嫌だったからだ。どうせなら大胆にサボったほうが後味よくすっきりだ。それにただでさえあんなクラスで肩身の狭い思いをするのは真っ平だった。

「人の忠告は素直に聞きやがれ」

「お前に言われる筋合いはないな」

「じゃあせめて、今からでもここ以外のどっか行くべき場所に散れ。俺の目の前に一分以上立つな目障りだ」

「お前のその悪すぎる口をどうにかしろ耳障りだ」

「……なめてんのかテメェ」

「ただお前の言葉を対句法を利用して書き換えただけだが。人に言われて嫌になることは他人にも言わないようにしよう」

 さて。

 そろそろか。

「おっと」

 何の前触れもなく繰り出された拳を間一髪でかわす。危ないところだった。

「何するんだよ…僕の方は何もしていないじゃないか」

「“言葉の暴力”ってーのを習わなかったのかクソが」

「“言葉の暴力”ね…お前が、そんな実体もない“言葉”なんて抽象的なものによって傷つくなんて、実はわりとガラスのハートだったりするのか?」

 言い過ぎた、と後悔したのは、鈴森が怒りに満ちた目でこちらを睨んでからだった。短気な性格は去年と変わらない。そして、切れた鈴森がこの後どういう行動に出るかは分かりきっていることだった。

 いや――分かりきりすぎた。

「マズ」

 これは真面目に重大なミスだ。早くここを離れなければ。

「よし分かった。お前の忠告を素直に聞いて、僕は校舎に戻るとしよう。じゃ、また会う日までこの森で大人しくしているんだな」

 誰も近づかない…。

 この、月夜森で。

 心の中でそうつぶやくと、僕は急いで来た道を戻っていった。


 昇降口を抜けてすぐの所にある階段を駆け上る。二階、三階とやり過ごして、四階。廊下には誰もいなかった。通路の時計を見ると、9時45分。いつの間にか、すいぶんと時が流れていたことに驚いた。あれから3時間弱、僕はずっと外にいたのか。

「1941年に、日本は真珠湾を襲撃し、それをきっかけに太平洋戦争が――」

「ジャスティスとキャシーは初めて日本へきて、ハイ木村」「〜〜〜…」

「えー、夏目漱石といえば【我輩は猫である】という――」

 すでに1時限目が始まっているようだ。僕は過ぎ行く教室の引き戸越しに先生達の声を聞きながら、自分の教室まで、あえて急がずに悠々と歩いた。どうせ急いだところで遅刻は遅刻だ、何分遅れたのかまで細かく決められているわけではないだろう。決められていたとしても関係ないし、関係があったとしても、ただあるだけで直接僕に作用してくるわけではない。それなら適度に遅れて、休み時間かなんかにひょっこり顔を出すか、担任の受け持つ授業である日本史の時間に教室に入り「病院に行ってました」とかなんとか言えば今回の遅刻は免除、以後気をつけなさいで終了だ。あぁ、脳があるってすばらしい。考える力ってすばらしい。やっぱ理数科に行けばよかったかな。いやダメだ、文系の僕がついていけるはずがないし、ぶっちゃけ理科は苦手だ。とくに物理。いや生物もダメか。何かへんな水溶液使う実験もうろ覚えだし、数学は嫌いじゃないが、取り立てて好きというわけでもない。つまり僕は理数科には向いていないと結論付けることが出来る。我ながら自ら自らの首を絞めている。とんだ被虐思考だ。

 チャイムが鳴った。

 現在時刻、あれから五分たった9時50分。1時限目は9時から始まるので、50分区切りで間に10分間休憩、よし思い出せてきた。丸々一年離れていると、こういう基本的なことまで忘れてしまうからいけない。

 待てよ、いい口実を思いついた。「向こうと違うんで来る時間間違えちゃいました」これはなかなか信憑性のあるウソではないか。まぁ、もし向こうの学校のカリキュラムを万が一誰かが知っていたら一発でばれる危険性の高いものだが、あんなクラスの中に向こうへ行ったことのあるやつなどいないだろう。いたとしたら、その人物は相当……。

「お、いたいた。よぉー高井(たかい)

 と、僕は思考を一時中断する。

 目の前に現れた、というか正確に言えば数秒間視界には入っていたのだろうが、さわやかに朝の挨拶をしてきたのは、えっと…いかん、誰だっけこいつ。あんまり仲が良いわけではなかったような気がする。いや、この際仲の良し悪しは関係ないといったところだろう。クラスメイトの名前まで忘れるとは、全く年はとりたくないものだ。あ、年も関係ないのか。ダメだ…久々に、いろいろ思考しすぎた。頭の情報が重量オーバーで耳の穴から出て行きそうだ。って、僕は一体何を言っているんだって。まずい。本格的に混乱してきた。

 クソッ大体、ほんと誰なんだよお前は。実は偶然今朝やってきた転校生ですなんてオチじゃあないだろうな。それじゃあ逆に無視した方が自然なのか? 初対面で一年ぶりの登校で、それでもって転校生の名前まで知っているなんて、お前何者だ、みたいな話になるじゃないか。うんそうだ、ここは無視するべきなんだ。クラス棟の四階といえば2年の領域だから、先輩後輩でもないだろうし。そういえば、あっちはなぜ僕の名を知っているんだ? あっちも僕と同じ条件ではないか。なのに僕の名前を知っていて、それでいてしかも、こんな親しげに挨拶してくるなんて、それこそお前何者――。

「あり? どした、高井? ずっと向こう行ってて、日本語忘れたか?」

「ぅわッ!!」

 いつの間にこの転校生、僕のすぐ横に居座っていた。やめろ。覗き込むんじゃない。今僕は、飼い主が決まってゲージの中に入れられ躊躇なくじろじろ見られているウサギのような気分を味わっているのだろうか。しまいには抱っこなんてされたりした日には人生おしまいだ。そういえばこいつ、僕より背が高い。

 あ。

「――…杉由(すぎよし)?」

「は? あ、えと、うんそうだけど。何、ほんとどうした? まさか俺のこと忘れたの? ひでぇ!」

「そっか杉由か…名前は珍しかったから頭の中に残っていたが、お前が杉由…」

「ほんとに忘れてたのかよ!? 冗談だろおい」

「肩をたたくな馴れ馴れしい。…下の名前は何だ?」

「杉由が下だっつの! 上が、つか苗字が松川(まつかわ)! 漢字分かりますか? 松に川ですよ!」

 なめてんのかこいつは。まずその説明じゃ漢字が理解できないやつは分からないだろう。英語にするとどうなるのだろうか。パインリヴァー? 甘酸っぱい川か。

「分かった分かった。で、パインリヴァー杉由。僕に何の用だ」

「何その二つ名。ダサさ半端ねぇな。いや、別に用っていう用は…ないけどよ」

 用がないのに話しかける必要性がどこにあるのだろう。そんな暇があれば教室に戻って勉強の一つもしていればよいのに。

「あれ、そういやお前、朝からいたか?」

「いや…今来たところだけど」

「ふぅん。ま、向こうといろいろ違うだろうからな」

 アバウトに、僕の口実を言い当てる杉由。

 もしかして、割と勘がよかったりするのか?

「ま、とりあえず教室入れよ。まだ先生にも会ってないんだろ?」

 いやーほんと久しぶりに会ったよなー、みんな待ってんぞ、クラスのみんなとか、あと優志とか六合村とか…、と杉由は独り言をひけらかしながら手前の教室へと入っていく。じゃあ、ここが2-Cだったのか。

「あ、あと、お前は教室にいなかったけど、俺からクラスのみんなに話したいことが――って聞いてねぇな」

「失礼しま〜す…」

 そういえば、なんでこのパインは6時なんて無謀な時間にクラスメイトを集めたのだろうか。みんなよく集まったな。僕とは大違いだ。

 と、入ってすぐに目に付いた人物は。

「…啓介(けいすけ)?」

優志(やさし)?」

 優志がいた。

 あれから、あまり変わっていないように見えるけれど、それでも、なんとなく雰囲気というものが大人っぽくなっているようななっていないような。元から幼さを感じさせない奴だったから、やっぱり変わっていないんだろう。

 あの時と同じ姿のまま、優志はそこに立っていた。

「や…」

 僕はつい、本当につい、感極まってしまって、

「優志ぃ〜〜〜」

 ひどく情けない声を出してしまった。

「情けない声を出すな」

 バッサリ切り捨てられてしまった。その冷たい態度も、また相変わらずだ。

 邪険に扱われながらも、僕はもう少しで感涙するほど気持ちが高ぶっていた。やっぱり優志に会わないと、ここへ――“日常”へ還ってきた気がしない。

 実感した。

 僕は、向こうから還ってきたんだ。

 離れたところで、パインリヴァー杉由がこちらを見て微笑んでいたのが軽く気に食わなかったけれどね。

「優志とは、えっと…半年ぶりか。ほんと、懐かしいな」

「懐かしい?」

 優志は微妙に目を細めて僕を見た。

「たかが半年くらいで懐かしいなど…俺とお前、一体何年の付き合いだと思ってる。そのうちの半年だ、たいした年月にもならん」

「そう言わずに。わりとさびしいものだよ、常日頃そばにいた存在が…」

 言いかけて、僕は口をつぐむ。

 よみがえってきたのは、あの出来事。

 ――仕方なかったんだ。あの時の優志は、ああするしか術がなかったんだから。

 頭の中では、すでにそう決着をつけたつもりでいた。

 それでも、どこか納得できない自分が少なからず存在していることにも気づいていた。

 この広い世界、人間一人の力で済ませることの出来る問題は、本当にごくごく限られた範囲内での、眼中にもとまらないほんの小さな細事しかないのだ。そんなくだらない課題を一つ二つやり遂げたところで、手に出来るものなど限られている。そういう意味では、人は確かに、一人では生きていけないのかもしれない。

 でも僕は。

「…ううん、なんでもない。それより優志、あの双子様は元気かな?」

「……あいつらか」

 とたんに、優志の目がひどくつまらなそうに光を弱める。

 この反応は、まぁ予想していたことだが、話をはぐらかすには最適な話題だろうとあえて振ってみた。

「俺はなるべく関わりたくない…行くなら一人で行け」

 僕はうなずいて、優志との会話を中断し、双子様の元へ急いだ。


 双子様がいるクラスは、3-B。

 階段を降りて、三階。廊下をまっすぐ進み、プレートが見えてきた所で足を止める。10分間休憩はもうすぐ終わってしまう。サッと会って、すぐに教室に戻らなければ。

「何の用?」

 後ろの引き戸から顔だけ出して話しかけてきたのは、春実さん。そういえば、この人もB組だった。

「あの方々に、あいさつです」

「へぇ。優志には会ったの?」

「……」

 なぜかそこで、返答に迷った。

「はい」

「そう。じゃ、呼んでくるよ」

 お願いします、と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げる。

 急に落ち着かなくなった。時計は9時58分を指している。かなり本格的に時間がない。

 思えば、双子様と会うのはこれが初めてだ。僕がここへ来たとき、ちょうどあの人たちは向こうから帰ってくるところで不在だったのだ、今の僕みたいに。で、双子様が帰国したその日に向こうへ渡ったのが、僕ら。要するにすれ違いというやつだ。最初の頃は向こうから連絡を取り合ったりしていたが、だんだん余裕がなくなってきて――余裕なんて、もとからなかったのかもしれないが――しばらく絶縁状態だった。その都合で、僕は一度も双子様とお目にかかったことはない。

 初対面。それが、こんなにも緊張するものだったとは。

「おまたせー」

 再び後ろの引き戸から春実(はるみ)さんが頭を出した。

 そこから現れたのは、二人の美男美女。

 “美男”の方は、僕を見てにこやかに手を振ってくれた。年齢に合わない幼さの残る、元気いっぱいの笑みだ。一瞬人違いかと思ったくらいだが、後に続く人物でその考えは消し飛んだ。

 “美女”の方は、僕を一瞥して、気分を害したのか教室へ消えた。

 …いやいや。

 もはや論外なのか、彼女にとって僕は。

 あの初対面は痛い。

「もしかして…啓くん? 啓くんだよね君! はじめまして★ ボクの名前は紅華(べにか)…ていっても、本名じゃないけどね。よろしく、啓くん!」

 一方“美男”こと紅華様は人柄もよく明るい人だった。僕を一目見て教室へ戻った誰かさんとは大違いだ。向こうにいたときから“美女”さんの態度の悪さは分かってはいたけれど、いやはやここまでとは。

 なんて思ったりしていると、

「ほら、藍華(あいか)も失望してないで。気持ちは分かるけど」

 軽く傷つく一言が教室の中から聞こえた。

 しばらくの応酬の後、春実さんのように後ろの引き戸から顔だけ出す“美女”さん。

「あんた、本当にあの“レナ”?」

「ちょっ……!!」

 つい僕らしからぬ大声を出して“美女”さんを止める。

 な…何てことを。

 この公の場で、その名を言ってくれるなんて。

 もう一度言おう。

 なんて人なんだ…。

「何ですかあんた! 何なんですかあんた! それでも人間か! 僕が向こうでどんな目に遭ったかまさか忘れたわけじゃあ…!!」

「うーっさいわねぇ、大声で叫ばないでくれる? あんた、数ヶ月前は当たり前みたいにその名で呼ばれてたじゃない。何今さら恥じてるの? なんだったらもっと言ってあげるわ、レナレナレナレナレナレナレナ」

「ワァ――ッ!! ちょっと、あんたほんと何なんだ! 紅華様とは大違いだ…なんでこんな人が紅華様の双子の姉なんだ…信じられない…きっとこれは何か宇宙のエネルギー的な根本的部分から生まれた生命源の…」

「あんたこそ人の話を聞きなさいよ! さっきからぶつぶつぶつぶつ、天文学的理論自慢げに繰り広げてんじゃないわよ全く…やっぱレナはレナのままね」

「レナ言うなレナ!! 今の僕は高井啓介です! ていうか、今も何も名づけられた瞬間から僕の名前は変わってませんよ!」

「そういえば、何で【レナ】って呼ばれるようになったのかしら?」

「呼んでたのはあなただけですよ…他のみんなはちゃんと名前で呼んでくれました。紅華様もね」

「ねぇ…。あんたってもしかして、性格悪い? さっきから紅華の話題出してきてさぁ。さてはあんた一人っ子ね? 一人っ子は他人の労りを分からないって言うし」

「生憎ですが僕には弟がいるんですよ……とっくの昔に絶縁しましたけどね。ろくでもない、人間のクズ中のクズでしたよ。未だこの世界に潜伏していると思うと虫唾が走ります。見てください、鳥肌半端ないでしょ」

「仮にも血の繋がった実の弟に、よくそんな情も何もあったもんじゃない罵詈雑言をかませるものね…洒落じゃないけど、それこそ血も涙もなく」

「いえいえ、これでも褒めてるんですよ」

「あんたに命ずるわ、レナ。一から国語を勉強してきなさい、早急に!」

「ていうか大体ですね」

 そこで、チャイムが鳴った。

 ここまでタイミングの計れないチャイムに存在価値はあるのだろうか。今すぐ校内の中枢機関に殴り込みに行ってやりたい気持ちになったが、それはさすがに帰国直後で立場の弱い僕がやるわけにもいかない荒療治だ、やめておくとしよう。

 しかし、まぁ収穫がなかったわけでもない。

 僕と藍華さんは、マイナス方面に振り切れるほど馬が合わない。


「いや…コンビ組んでもらいたいくらいに息ぴったりだよ」

 紅華様のつぶやきは、階段を駆け上がる僕の騒がしい足音に消された。


 ガラッ!!

 引き戸が開くその音は、心なしか妙に教室中に響いた。

 僕は息が上がっていたので、しばらく声を出すことが出来なかった。

「……」

 静かだ。

 いや、静かっていうそれ自体は決して居心地の悪い環境じゃない。むしろ過ごしやすい、僕としては快適とも言える。本を読むにも映画を観るにも、辺りが騒がしかったらまるで集中できない。それに僕自体が基本静かなので、やはり自分にあった環境をよく思うのは当たり前、ていうか何で静かなんだ。

「……」

 おい。シカトか。まさかシカトを決め込むつもりなのかクラスメイト。松川杉由、貴様もこの状況の中で僕を無視するというのか。あ、パインリヴァー呼ばわりしたのを怒ってるのか。それなら謝る、だからなんか一言ギブミープリーズ、なんて思ってみたところで、所詮言葉にもならない“考え”だけのそれは杉由に届くはずもなかった。

「……」

 クソッ誰かお願いだからなんか言ってくれよ。今の僕の立場って、すごい不安定なんだぞ。えっと、授業開始の号令の途中お邪魔したわけですか。はい、ごめんなさい。僕の事なんか無視して杉由くん、どうぞ号令しちゃってください。

「……」

 ヤバイ笑えてきた。あぁ全く、僕が心のうちとはいえこんなに取り乱すのは向こう以来だ。

「何やってんだ、啓介」

 クラスメイトなんてそんなもんか。しかもクラス替えしてるし。あの、窓際の席座ってこっち凝視してる女子誰だ? 大してかわいくもない顔を長時間こちらに向けられて僕の不愉快度数がリミッターを超える。目に毒だ、あの女子の顔は視界から消そう。

「え?」

 啓介?

 あ……。

「お前の席は左から3列目の一番後ろ。さっさと席に着け」

 以外にも、ホントに以外にも、沈黙を破ったのは優志だった。

 半端ない安心感が溢れ出てきたのはいうまでもない。信じてたよ優志くん、前から思ってたけどきみは名前の通り優しいやつなんだね。あ、ギャグじゃないよ。

「……っ」

 ちょっと笑ってしまった。まずいな、一応僕、優志に助けられた形になるのに、ここで笑ってしまっては助けた甲斐もあったもんじゃないと優志に見捨てられる可能性大、立場の弱い今の状態では、優志がいなくなるとかなり不便だ。

「あざっす」

 とだけ言って、僕は早々に席に着いた。運よく最後列だったのが幸いしたのか、とくに騒がれることもなく、至って平常に二時間目は始まった。


 運悪く二時限目は“徘徊主義者”の武倉(たけくら)先生による数学の授業だった…。


 このお話、登場人物紹介はありません。書いたらほとんどネタバレしちゃいますからカッコ笑い。

 1話1話がちょっと長い上に理屈っぽいんで、ムカつくと思いますがカッコ笑い。

 次回をお楽しみにカッコ笑い。

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