第2話 街道の出会いと、初めての街
馬車の荷台は意外と居心地が良かった。
干し草の匂いと馬の体温が混ざり、時折揺れる車輪の音が心地よいリズムを刻む。リリアは荷台の端に腰を下ろし、膝の上にノートを広げていた。羽ペンが軽快に走る。
『第1日 街道にて
馬車の揺れは、村の揺りかごよりずっと大きい。
でも、怖くない。むしろ楽しい。
風が顔を撫でるたび、新しい匂いが次々に入ってくる。
草の甘さ、土の湿り気、遠くの川の匂い……。
全部、初めての感覚だ。』
「へぇ、娘ちゃん、ずいぶん熱心に書いてるな」
御者の老人が振り返って笑った。名前はガルド。五十代後半くらいの、日に焼けた顔に白い髭を生やした男だ。荷物は主に薬草と毛皮、街で売るための干物類。
「えへへ、メモメモ~♪ だって、全部知りたいんですもん!」
リリアは無邪気に笑って答えた。ガルドは肩をすくめる。
「知りたい、か。いいねぇ。若い頃の俺も、そんな気持ちで旅に出たもんだよ。今じゃただの運び屋だがな」
「ガルドさんも、いろんなところに行ったんですか?」
「ああ。王都はもちろん、北の雪原、南の砂漠、果ては魔物の巣窟近くまでな。……まあ、今はもう無理だが」
リリアの瞳がキラキラと輝いた。
「じゃあ、教えてください! 王都ってどんなところですか? 街の匂いは? 人の声は? 食べ物は? お祭りは?」
「ははは、質問攻めか! まあ、ゆっくり話してやるよ」
ガルドは馬の手綱を軽く叩きながら、ゆったりと語り始めた。
王都アルテミアは大陸最大の都市。石畳の道が何重にも広がり、市場では世界中の品物が並ぶ。朝はパン屋の焼きたての香り、昼はスパイスの刺激臭、夜は酒場の歌声と笑い声。貴族の馬車が通り、冒険者たちが酒を煽り、吟遊詩人が竪琴を奏でる……。
リリアは目を閉じて、想像した。
「わぁ……全部、全部知りたい!」
「まあ、着いたら自分の目で確かめな。言葉じゃ半分も伝わらんよ」
馬車は森を抜け、徐々に視界が開けてきた。左右に広がるのは黄金色の麦畑。遠くに煙突の煙が立ち上り、小さな村が見える。街道沿いには時折、旅人や商人、荷馬車がすれ違う。
リリアは荷台から身を乗り出して、通り過ぎる人々を観察した。
「わっ、あの人、角が生えてる! 獣人さんだ!」
「そうだな。狼族の傭兵が多い街道だ。向こうの荷馬車はエルフの行商人だぞ。あの耳、尖ってるだろ」
「本物のエルフ! 初めて見た!」
リリアは興奮してノートに書き殴った。ガルドは苦笑しながら続ける。
「娘ちゃん、こんなに無防備だと危ないぞ。旅人はみんな、いい人ばかりじゃないからな」
「え? でも、みんな優しそうに見えますけど……」
「見た目で判断するなよ。腹の中はわからん。金目当ての盗賊も、腹黒い商人だっている」
リリアは少し首を傾げたが、すぐに笑顔に戻った。
「わかりました! 気をつけます。でも……知りたい気持ちは、止められないんです」
ガルドはため息をつきながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
「まあ、その気持ちが一番大事だ。守ってくれるのは、剣や魔法より、そっちの方が多いからな」
昼近くになると、馬車は小さな川にかかる石橋を渡った。橋の下で休憩することになり、リリアは川辺に降りて水を飲んだ。冷たくて透き通った水。指先で水面を撫でると、波紋が広がる。
「きれい……」
ふと、川の向こう岸に人影が見えた。
少女だった。灰色の耳と尻尾を持つ、獣人の少女。歳はリリアと同じくらい。服はボロボロで、足元に小さな籠を置いている。少女はこちらをじっと見つめていたが、目が合うと慌てて視線を逸らした。
リリアは手を振った。
「こんにちはー!」
少女はびっくりしたように耳をピクッと立て、すぐに背を向けて走り出した。
「あ、待って!」
リリアは思わず川を渡ろうとしたが、ガルドに肩を掴まれた。
「危ないぞ。向こうは獣人の集落に近い。人間が入ると面倒なことになる」
「でも……なんか、寂しそうだったんです」
「旅の途中で、いろんな人を見るさ。全部助けようとすると、足が止まるぞ」
リリアは少し唇を尖らせたが、素直に頷いた。
「……はい。わかりました」
休憩が終わり、馬車は再び動き出した。夕暮れが近づく頃、ようやく目的地が見えてきた。
街の名はルミエール。
王都への街道中継地として栄える中規模の交易都市だ。石造りの城壁に囲まれ、門の上には青い旗がはためいている。門前には商人や旅人が列をなし、衛兵が荷物を検めている。
馬車が門に近づくと、ガルドが声を上げた。
「着いたぞ、リリア。ここまで無料で乗せてやったんだ。感謝しろよ」
「本当にありがとうございました! ガルドさんのおかげで、たくさん知ることができました!」
リリアは荷台から飛び降り、深々と頭を下げた。ガルドは照れくさそうに髭を撫でる。
「まあな。……これ、持ってけ」
そう言って、小さな革袋を渡した。中には銀貨が五枚と、干し果物が入っている。
「え、でも……」
「いいから。十八歳の旅立ち祝いだと思ってくれ」
リリアの目がうるっとした。
「……ありがとうございます。絶対に、忘れません!」
ガルドは馬車を動かし、門の向こうへ消えていった。リリアはしばらくその背中を見送っていた。
そして、ゆっくりと門に向き直る。
「よし……ここが、最初の街!」
門をくぐると、すぐに喧騒が耳を打った。
石畳の通りには露店がずらりと並び、商人たちの呼び声が飛び交う。焼きたてのパンの香り、鉄を打つ音、馬のいななき、子供の笑い声……。すべてが混ざり合って、生きている音の渦になっていた。
リリアは深呼吸した。
「すごい……すごいすごいすごい!」
ノートを取り出し、走り書きする。
『ルミエール到着
街の匂いは、いろんな匂いが混ざって、ひとつの大きな匂いになる。
人の声は、歌みたい。
胸が、どきどきして、止まらない。
ここから、本当の旅が始まるんだ。』
夕陽が街を橙色に染めていく中、リリアはゆっくりと歩き出した。
まずは宿を探そう。次は冒険者ギルド。そこから、もっと広い世界へ。
銀色の髪が風に揺れ、紫の瞳は次の「初めて」を求めて輝いていた。
「えへへ、明日もいっぱい知れるかな♪」
小さな足音が、石畳に軽やかに響いた。
(第2話 終わり)




