4.魔物と変態ストーカー(前編)
ジャスミンの森の中は、大きな木がたくさん生い茂ってはいるけれどあまり薄暗くはなく、寧ろたくさんの木漏れ日のおかげで明るい。
花もたくさん咲き、暖かな陽光の中、わたし達はまるで散歩をしているかのように、のんびりと進んでいた。
耳を澄ませば、小鳥達の囀りが……
ハァ、ハァ、ハァ……
「…………?」
「どうかなさいましたか、勇者様?」
「いや、今なんか……」
小鳥の鳴き声に混じって、何か変な……荒い息遣い、のようなものが聞こえた気がした。
「ねぇ、ジェイちゃん。今、何か聞こえなかった?」
「? 私には何も聞こえませんでしたが」
……わたしの、気のせい?
「勇者様、早いところこの森を抜けないと日が暮れてしまいますよ」
「あ、うん。そうだね、早くしないとね!」
ジェイちゃんに急かされ、わたしは進む速度を少し上げた。
でも……
ハァ、ハァ、ハァ……
ハァ、ハァ、ハァ、ハァ。
ハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァハァ
「じ、ジェイちゃぁああああああああん! 何か荒い息遣いが聞こえるよ!? 誰かついて来てるよぉおおおおおおおお!」
「私には何も聞こえません。急ぎましょう、勇者様」
「嘘だぁああああ! ジェイちゃん、現実を認めて! きっと君にも聞こえているはずだから!」
「私には何も聞こえません」
ジェイちゃんは焦るわたしを冷たくあしらうと、さっさと先に進んでしまう。
置いていかれたくなくて、わたしは急いで後を追った。
……ジェイちゃんを追いかけてる間も、後ろから聞こえる息遣いを幻聴だと信じながら。
***
気持ち悪い幻聴(だと思いたい)を振り切り……ようやく、わたしはジェイちゃんに追いついた。
でも、ジェイちゃんの様子はどこかおかしかった。十歳の女の子とは思えない険しい顔で、辺りを見回し、手には武器を構えている。
わたしは、様子のおかしい彼女に近付いて声をかけた。
「ど、どうしたのジェイちゃ……」
「下がっていてください、勇者様!」
焦ったようなジェイちゃんの言葉に従って、わたしはその場から素早く後ずさる。
ジェイちゃんは、素早く杖を構え一際大きな声で叫んだ。
「アイス・ロック!」
すると、杖から氷の塊が茂みに向かって飛び出していった。
氷の塊は、そのまま茂みに命中……すると思いきや、命中する前に砕け散り、その場に霧散する。
わたしはと言うと、その光景にただ呆然とするしかなくて。
「……出てきなさい」
ジェイちゃんが静かな、でもトゲのある声で茂みのほうに声をかける。
すると、茂みのほうから一人の男の人がのそりと出てくる。
普通の人間と違うことを上げるとすれば……その人の頭に、ネコの耳があったということだろうか。
「ルエリアの女王め。やっと勇者を送り出したかと思えばよぉ、やって来たのは女とガキのパーティだとは。オレ達も嘗められたモンだぜ」
「な、何でわたし達のこと……」
「勇者様、魔族です。戦闘準備を」
「え、あ、う、うん!」
ジェイちゃんが至極冷静に、魔族に向けて杖を構える。
「そこの魔族、名前は?」
「聞いたって意味ないだろうが……冥土の土産に教えてやんよ。俺の名前はネル。テメェらを地獄に送る名前だ、よーく覚えときな」
そう言うと魔族……ネルは、いきなり何本ものナイフを投げつけてきた――わたしに向かって。
「きゃあっ!?」
「勇者様!」
ジェイちゃんがわたしを呼ぶ。
「勇者様! 今助けに、」
「おっと、テメェの相手はコイツだぜ!」
ネルが素早く何かの呪文を唱えたかと思うと、次の瞬間にはジェイちゃんの周りには大きなネコが現れた。
「オレの配下「ビッグキャット」だ。あのガキにはアイツの相手をしていてもらうぜぇ」
「嘘っ!? ジェイちゃん!」
ジェイちゃんに声をかけるけど、大きなネコと戦うのに精一杯でわたしの声を聞く余裕はないみたいだ。
「さぁて勇者様よぉ。こっちはこっちで楽しもうじゃねぇか」
「……っ!」
近付いてくるネルに対し、わたしは間合いを取って、腰の【ローズ・テイル】を抜き、構える。
どこでもいい、どこでもいいから狙えばいい。そうすれば。
「……っやぁああああ!」
剣を大きく振り上げ、右足を踏み出す……狙うのは、相手の正面。
でもその一撃はあっさりと避けられ、相手が投げたナイフがわたしの頬を掠める。
飛び散る、血。
「ひっ……」
「なんだよ、今のへなちょこな攻撃は。勇者っつーからもう少し期待してたんだが……こりゃハズレだな」
ネルは、わたしを見て優しく笑った。でもそれは、わたしにとっては恐ろしいものでしかなくて。
わたしは逃げた。恐ろしい魔族から逃げるために。
バカみたいだ、ちょっとだけいい気になって、楽観的になって。命を、狙われるなんて思いもしなくて。
わたしは走る、逃げるために。
でも、相手も追いかけてくる。わたしを殺すために。
わたしは追いつかれないように必死で逃げた。その場で戦っている、小さな女の子を一人残して。
***
どれだけ走っただろうか。気付くと、少し開けた場所にわたしはいた。
そこにはもう道はなく、目の前には大きな木の群れだけがあった。
……そう、行き止まり。
逃げる場所も、もうどこにもない。
「なんだぁ、追いかけっこはもう終わりか?」
いつの間にか追いついていたネルが、わたしに近づいてくる。
わたしはどうすることも出来ず、その場に座り込んだ。
どうすればいい、どうすればいい?
そう何度も頭の中で問いかけた。でも、答えてくれる人なんて一人もいない。
守ってくれる人なんて、一人も、いない。
「そんじゃ、さようなら」
そう言って、ネルがわたしに飛び掛ろうとした、その時だった。
「ピンチだな、勇者!」
上からの声に、わたしは反応して顔を上げた。
周りは木、見上げても木ばかり。
でも、その中の一本の木に……一つの人影が、あった。
その人影は、立っていた枝から素早くジャンプすると、わたしとネルの間に着地した。
まるで、わたしを守るかのように。
振り返ったその人は、きれいな黒髪と炎のような赤い目を持ち、背には大きな剣を背負った男の人で。
「俺の名はエルノ・ユヴォネン! 勇者よ、助太刀するぞ!」
――この時わたしは、彼との出会いが、その後の旅の運命をそれほどまでに変えるなんて、少しも思っていなかった……。