山菜蕎麦
「海に行くよ!」
土曜日の早朝。日の出と共に、麗香は宣言した。しかし、長時間睡眠を心掛けている冬美は目を覚まさず、その宣言は静寂に押し殺される。
「……うん、良し!」
沈黙を肯定とみなし、麗香は寝間着のままの冬美を抱えて、外に停めている車の助手席に座らせた。今日の朝陽は一段と輝いており、眩しさを防ぐ為にサングラスを自分と冬美に掛けて、麗香は車を発進させた。
午前十一時。長い眠りから覚めた冬美は、いつもよりも暗い視界に違和感を覚えた。
「……え?……うぇ!?」
いつの間にかサングラスを着けて、いつの間にか車内にいる。そして、いつの間にか海に来ていた。驚きの連続に、冬美は何らかの怪異に精神攻撃されているのかと疑った。
その疑いは、先に海の様子を見て戻ってきた麗香の姿を見て晴れた。ニコニコと微笑みながら助手席のドアの方へ来る麗香に、冬美は困惑の表情で見つめていた。ドアが開き、お互い無言のまま見つめ合っていると、突然麗香が声を張り上げた。
「海に来た!!!」
「……すみません、意味が分からないです」
「海に! 来た!」
「海に来てるのは分かります。目がちゃんと機能してるんですから。聞きたいのはそうじゃなくて、どうして海に来たかについてですよ! 昨日何も言ってなかったよね!?」
「今日の朝ね、凄く早く起きたんだ」
「うん」
「そしたら、凄く天気が良くて。予報でも、明後日まで快晴なんですって」
「うん……ううん?」
「だから、海に来た!」
冬美は頭を抱えた。あまりにも突発的な計画と、自分勝手過ぎる麗香の行動に。まだ自分は夢の中にいるのではないかとまで考えた。しかし、開いているドアから漂ってくる暑さに、これが現実の出来事だと気付いてしまう。
「……はぁ。分かった。海に来たんだよね。それじゃあ、存分に遊んできてください。僕はもうひと眠りしますから」
「冬美君危ない!!!」
冬美が目を瞑ろうとした矢先、刹那の衝撃が頬に発生し、痺れるような痛みが頬に染み込んでくる。目にも見えぬ速さで繰り出されたビンタであった。
「……ちょっと……ちょ、ちょっと……なぁーんで殴ったんですか!?」
「殴ってない! ビンタ!」
「同じだ! え、なんでビンタしたの?」
「凍える冬の日に、眠ったつもりが寒さで意識を失うって事があるでしょ? ほら、映画とかでよくあるじゃん。寝たら死ぬぞ!……っていうの」
「あぁ、ありますね。実際、あれって効果あるんですかね?…………え? 今は夏だよね? 関係あった、今の話?」
「あるわけないじゃん」
「えぇ……」
「ほらほら! せっかく海に来たんだし! 早く車から降りて、海に行こうよ!」
まるでホラー映画の殺人鬼かの如く、麗香は冬美を助手席から引きずり出した。目を覚ましたばかりで力が出ない冬美に為す術無く、麗香の肩に担がれて砂浜へと連れ出されてしまう。
白い砂浜。青い海。煌めく太陽。理想的な状況下の中、二人は膝を抱えて座りながら、呆然と海を眺めていた。
「……泳がないの?」
「だって、水着持ってこなかったし」
「そっか……釣り道具とか、ボールは?」
「財布しか持ってきてない」
「そっか……じゃあ、なんで僕ら、海にいるんですかね?」
「……なんでだろ」
突発的な計画故に、目的地に来たものの、肝心なその後の目的を一切考えていなかった。水着を着た他の人達は、砂浜に座ったまま、ただジッと海を眺めている二人を奇怪な目で見ていた。その視線に気付いていつつも、二人は何かをする事はなく、自分達の代わりに海を楽しんでいるサーファーを眺めた。
それから一時間後。車に戻った二人は無言で、腕や首から感じる日焼けを戒めとして受け入れていた。麗香は申し訳なさから。冬美は無意味な時間に意味をつけようと必死に考えて。
「……冬美君」
「……なんですか」
「……お腹、へったね」
「……山菜蕎麦、食べたい」
冬美の言葉に従うように、麗香は車を運転し、少し離れた場所にある定食屋にやってきた。扉を開け、適当な席に座り、メニュー表を開く。この店に、山菜蕎麦は無かった。
「……ヒグッ! ご、ごべんでぇぇぇ!!!」
麗香は悔しさと申し訳なさから泣いてしまい、涙で【ごめんね】も正しく発声出来なかった。突然泣き出した子供連れの成人女性という、何らかの重い訳がありそうな状況に、他の客や店員の注目が二人に集中する。
「泣かないでくださいよ。泣きたいのはこっちなんですから」
「ワ、ワダジは! ダメなオドナだ!」
「こんな時に気付かないでよ。あー、もう! 別に山菜蕎麦じゃなくても、他のにしますから。ほら、ちょっと違いますけど、山菜の天ぷら定食ありますよ」
「わ、私、豚カツ定食」
「豚カツね。じゃあ、注文しますね。すみませーん! 豚カツ定食と山菜の天ぷら定食をお願いします……いや、別に訳アリじゃないです。警察も必要ないです。すみません、騒いじゃって」
数分後、頼んだ品が運ばれ、二人はそれぞれ頼んだ定食を黙々と食べ進めた。
「……本当に、今日はごめんね?」
「いつもの事ですから。もう慣れっこだよ。これ食べ終えたら、夜ご飯の材料を買いにスーパーに行きましょう」
「夜は何食べたい?」
「……山菜蕎麦」
「フフ。うん! 美味しいの作ってあげる!」
さっきまでの陰鬱な雰囲気が嘘かのように、二人から漂う甘い雰囲気が店内を覆い尽くす。その影響は、食べていた物の味が甘く感じてしまう程のものであった。