解放②
――櫻子の四十九日が終わった日。
女は昔は憎かった女の娘の手を引いて人の眼がない屋敷の裏へと歩みを進めていた。
元婚約者を奪われた当初はそりゃあ確かに殺したい位憎んだし、手が付けられない程暴れた。しかし今の夫と出会い、愛する息子が産まれて幸せな日々のお陰で憎しみの感情が消えた。
まぁ幾ら怨んではいないとは言え、過去が過去だから事件当初は警察に疑われたが、息子の部活の合宿で他県にいて、コーチや保護者等の大勢の人の証言のお陰で直ぐに疑いが晴れた。
その後、元婚約者の妻の死は自殺と断定されてこうして四十九日が済んだと言う訳だ。
女は元婚約者に対して何の感情も残ってはいなかったが、元婚約者夫婦の一人娘の事がずっと気掛かりだった。
最愛の母親が亡くなって悲しみの淵にいるのは分かる。実際に娘の父親は目も当てられない程に憔悴しきっていた。だけど娘の方は無表情のままじっと葬式や四十九日を黙って過ごしていた。
泣きもしない異様な子供の姿と足が動けない筈の元婚約者の妻がどうしてあの桜の木の近くにある池にいたのか。
嫌な予感がした女は誰にも見られない様に元婚約者夫婦の一人娘―――鷹羽を連れ出した。
『鷹羽。あの晩お母さんを外に出したのは貴女なの?』
『うん』
女は膝を付いて鷹羽と視線を合わせ、質問した。鷹羽は表情一つ変えずに即座に答えた。
『……どうやってあの池までお母さんを連れて来たの?』
女は驚きを殺しながら比較的冷静に話しかけた。鷹羽は淡々とあの晩の出来事を語り出した。
『キャスター付きの椅子を車椅子の代わりにして廊下を渡って、階段はお母さんが手摺りを使って降りた。私が椅子を元の部屋に戻している頃にはお母さんは階段を降りていたよ』
『お母さん歩けたの!?』
元婚約者の妻は不慮の事故でアキレス腱が切れて歩けなくなり、車椅子生活だった。過保護な元婚約者が屋敷の中にいる時は妻を抱きかかえて移動していた。元婚約者がいない時は使用人が車椅子を用意していたが、『妻の温もりが感じられるから』と車椅子が屋敷の中にある事を嫌がっていたから外出用として車椅子は外に置かれていた。
『うん。お母さんが歩けるのは私とお母さんだけの秘密だったけどね。お母さんが死んじゃったから『秘密』じゃなくなっちゃた』
『……それでお母さんを池まで連れて来た後はお母さんは何をしていたの?』
『池の中にお母さんが入ってポケットからお薬を取り出して飲んで、そのまま池の中に沈んだの。『今晩起きた事は全部忘れて、車椅子はそのままにして部屋に戻りなさい。お母さんの事はこのままで良いから』て。腕を組んで沈んでいくお母さんと桜の花弁と三日月が綺麗だったよ』
母親の死ぬ姿を綺麗と言う娘にゾッとした。何故そんな事を言うのか、そもそもどうして歩けるのに娘以外の大人達には隠していたのか謎が深まるばかりだ。
『おばさん此れ……お母さんの日記』
鷹羽は服の中から隠していた一冊のノートを取り出し女に渡した。あの女の日記? それがどうしてこの子が持っていたのかと疑問に思ったが、ペラペラと日記に目を通した。
それは悍ましい内容だった。
何故元婚約者の義理の妹と結婚したのか。
何故あんなにも屋敷から出たかった義妹が結局義兄と結婚して屋敷に籠る様になったのか。
その理由が余りにも惨く悍ましかった。
元婚約者が血の繋がらない妹に行った行為、そしてその事を知りながら息子可愛さで見て見ぬふりをした義父、己の利益の為なら自分の娘の尊厳を平気で溝に捨てた実母、何も知らない使用人を含めた他人達から無責任に祝福された事がどんなに吐き気がしたのか。
結婚生活で彼女がどんなに狂い、そして心を殺されていったのか。
この日記は一人の女の魂が無残にも殺害された告発書だった。
『……………貴女はこの、この日記を見たの?』
鷹羽は首を横に振る。
『『この日記はおばさんに見せて』てお母さんが。おばさん』
鷹羽の頬に一滴の液体が流れる。
『私は産まれてきて良かったの?』
女は鷹羽を強く抱きしめた。
自分の息子と同い年の女の子が自分が産まれた事を疑問視する様な事はあってはいけなかった。大人達には罪があったとしてもこの子供には一切の罪なんてない。
この子を利用して自殺した母親も身勝手だ。あの日記には鷹羽の事を一つも記述していない。利用するだけ利用してその後のケアをせずに傷付けたままで死んだあの女が許せなかった。
『そんな事はない! 貴女は産まれてきても良かったの!! 私達夫婦は息子と同い年の貴女が産まれたと知った時は嬉しかった。あの子だって貴女と一緒に遊んでオヤツを食べる時は楽しい時だった! 貴女は産まれてきて良かったのよ!!!!』
しっかりと鷹羽の眼を見て言い切った女。その時に女は気付いた。
死んだ母親と鷹羽が瓜二つだと言う事を。
――――彼女が鷹羽に高カロリーなオヤツばかり食べさせて太らせたのは周りにこの事を隠す為に?
何故そんな事をしたのかと考え、顔色が青褪めてゆく。
――――まさか。自分の代わりにさせない為に? だって鷹羽はあの男の正真正銘の血の繋がった父娘よ?
――――でも。この日記を見る限り、有り得たくない事が起きる可能性が高い。伯父夫婦も協力する可能性がある。もしかすれば私にこの日記を渡したのは鷹羽を守らさせる為に……
『良い事鷹羽。貴女は直ぐにこの屋敷から出て行きなさい。私の卒業した小学校から寮に入る事が可能で、高校までずっと寮生活よ。私の推薦と貴女の学校の成績なら絶対に入学出来るわ。入学出来たらこの屋敷に滅多に帰っちゃダメ。それからなるべく髪を伸ばして顔を隠す様にしなさい』
『髪はお母さんが伸ばしなさいと言われていたから別に良いけど……でも、この家に戻らない訳にはいかないよ?』
『それなら『おばさんが意地悪するから帰りたくない』と言いなさい。私も意地悪な事を実際に言うから』
『良いの? そんな事をしたらおばさんの評判が悪くなるよ?』
『私の評判が地の底になっても構わないわよ。貴女を守る為ならそんな事屁でもないわ。……貴女を守る事が貴女の母親への罪滅ぼしでもあるから』
知らなかったとは言え、義妹に酷い事を言ったのは事実だ。あの日記には女の事は書かれていなかったがその心中どう思ったか分からない。だって彼女はもう死んだのだから。
そしてあの日記は櫻子の魂が殺害された現場でもある桜の木と一緒に燃やすその日まで女の化粧台の鍵付きの引き出しの奥に隠されていた。