『サクラ』に呪われた話
私の家の人間は誰もがサクラの呪いに囚われていた。特に私の血縁上の父親は。
父親程ではないが私も、そして櫻を嫌っていたあの人も皆囚われていた。
私の家にはそれは立派な桜が一本植えられている。母の兄が母の名前と同じ桜の木を母の誕生日に記念として植えたと老年の庭師が世間話の一つとして話してくれた。
桜の近くに大きな池があった。昔は何かの賞を取ったなんか凄い鯉が数匹優雅に泳いでいたそうだが、最後の一匹が死んで以降は生き物は其処にはおらず、今では災害があった時の為の溜め池として活用していた。
だけどアレが起きてから池は埋め立てられて、『桜の木の近く』としか覚えていない私は正確な場所を覚えていない。
「随分と立派な桜じゃないか。昔は此処で花見でもしたのか?」
桜の木を見上げながら後ろを振り向かずに私に話しかけるのは内縁の夫のシキミだ。
紫色のオーダーメイドのスーツにヒョウ柄の派手な色のシャツ。しかも茶髪に派手なサングラスを掛けているから某大阪の喜劇のヤクザのみたいな面白い格好なのだが、如何せんこの男、顔がワイルド系のイケメンだから似合っているから何と言うか腹が立つ。
しかもこんなチンピラみたいな恰好なのに、とある大きな暴力団の若頭だから世も末だ。
「小さい頃の事は覚えてはいないけど、昔は桜の木の近くに大きな池に死んだ祖父の飼っていた数千万の鯉がうようよ泳いでいる様な場所で気軽にお花見なんて出来ないね」
「池? 周りは地面だけぞ?」
「池の鯉が全部死んでから防災用の溜め池になっていたけど……アレが起きてからは潰されちゃった」
「アレ?」
「お母さんが自殺した」
その日は春だと言うのに朝から肌寒い日だった。
寝ていた私は部屋の外から使用人達の騒ぐ声で起きた。部屋の外を見ると、皆慌ただしく走り回っていて、顔色が悪かった。
幼い私が出歩いても誰も気にする事はせず、私は母がいる部屋へと向かっていたが、屋敷の中以上に外が騒がしかった。
丁度応接間の前に来ていた。応接間の窓は屋敷の中で一番大きな窓だから外の様子を眺める事が出来るのだ。
応接間に入ると其処は誰もいなかった。この部屋は『桜がよく見えるから』と父が良くこの部屋にいるのだが、今日は父の姿が見えなかった。
近くにあったキャスター付きの椅子を運んで騒がしい外を窓から眺めた。屋敷が三階建てだから外の眺めが良いのだが、だけど騒ぎの元は遠くにあるし、当時の私は小さいから詳細は良く分からなかった。
だけど池の中に誰かが入っていて、何かを抱きしめている姿が見えた。よくよく目を凝らすと池の中に入っていたのは父で、抱きしめている何かは私が向かう部屋の主の髪色と同じ様な気がした。この部屋に常備している双眼鏡を使って両親の様子をもう少し良く見ようと覗こうとした時だった。
『お嬢様!』
古参の使用人が椅子から私を下ろすと、まん丸な私の手を握って自室へと連れ戻された。古参もかなり顔色が悪かったが、無知な私は古参の使用人に質問してしまった。アレは申し訳ないと今でも思っている。
『どうしてお父さんとお母さんは池の中で泳いでいるの?』
「誰かに殺されたのか?」
シキミの質問に私は顔を左右に緩やかに振る。
「屋敷の外には監視カメラが死角が無い様に幾つも撮影されていたけど、当時は野良猫一匹も映っていなかった。池の近くにお母さんの車椅子があったから結局、警察は『自殺』として片付けた」
「車椅子? 鷹羽の母親は足が悪かったのか?」
「両足の腱が切れて一人では碌に歩ける事が出来なかったの。警察も内部の誰かがお母さんを連れて殺したと疑ったけど、当時屋敷に居た人間の中で殺す動機がないし、使用人は夜になると全員屋敷の外にある専用の寮か自分の家に帰るからお母さんを外に連れ出す大人はあの晩はいなかった」
当時屋敷にいた人間達は母を殺す動機がない者ばかりだ。母を憎んでいた人は確かにいたが、その人は自分の息子の小学校の部活の合宿で遠くの県に泊まりで、色んな人の目撃があったからアリバイが成立した。
結局は母の自殺としてこの事件は捜査を終了する事となった。
「父は心底母に惚れ切っていてね。母が死んだ原因でもあるこの池を残す事が許せなかった。だから池を埋め立てた訳」
「原因……つまり鷹羽のお義母様の死因は『溺死』?」
「そう。お母さんは睡眠薬を服用していたから薬を飲んで池に沈んたみたい。ほら、『オフィーリア』て名画があるでしょ? あんな風に死んでたの」
丁度時期が春の季節で三日月だったから、言っちゃなんだがそれはもう名画にも負けない美しい姿だった。
「まぁお母さんの話はこの辺にしてそろそろ家に帰るよ」
「そう言えば遺産の話はもう終わったのか? お前のじー様とばー様が死んで莫大な遺産が残ったんだろ?」
私がこの屋敷に戻ったのは祖父母が不慮の事故で突然死去したからだ。
夫婦二人でドライブをしていた所、突風で桜の花弁がフロントガラスを覆い尽くし、ハンドルを握っていた祖母が驚いて思わずハンドルを切った先が不幸にも崖だった。ブレーキも掛ける暇もなく
崖から落ちて海にそのまま落っこちた。
予約していたレストランが時間になっても姿を見えない事を屋敷の人間に連絡。祖父母の携帯に連絡を取っても応答せず、警察に捜索願を出した。
祖父は大きな会社の会長だったから警察も大掛かりで捜索したお陰か、海の中で沈んでいた車を発見する事が出来た。
ドライブレコーダーが海に沈んでも生きていたお陰で事故原因が分かり、この捜査も直ぐに終わった。
遺族に残ったのは祖父が残した大きな会社と莫大な遺産と祖父程ではないがそこそこあった遺産だった。
祖父母の四十九日が終わったこの日に生前祖父が弁護士に預けていた遺書を公開する事にしたのだ。
「それで鷹羽には何が貰ったんだ?」
「大した物はないよ。祖父の個人預金の三千万、祖母個人の遺産の全て大体一千五百万位? それが私の取り分」
「そいつは凄いな! 四千五百万の金が鷹羽の手元に来たと言う訳か」
「税金で幾らか抜かれるだろうけどね。それでも資産運用すれば老後の生活が豊かになる程度の手切れ金を寄こしくれたし」
「手切れ金? ……バレちゃった?」
「ばれてた。と言うか大企業なんだから『ヤクザの内縁状態の会長の孫娘』なんてマスコミが知ったら骨の髄までしゃぶりつくされるわ。おばさんが私の事を調べなかったらどうなっていたのやら」
応接間で遺書通りに遺産の取り分を決められた後、おばさん(父の従姉妹)が立ち上がって私を睨みつけた。
『鷹羽さん。伯父様達の遺産を持って二度とこの屋敷に足を踏み入れないで頂戴』
『か、母さん! 何を言っているんだ!?』
『鷹羽さんヤクザの内縁の夫がいますよね? 別れるつもりがないのならこの家と絶縁して頂戴』
『……良いですよ。この家に愛着なんてないし。実父の葬式以外で此処に帰る事はもう二度とないと思って下さい』
おばさんは元々父の許嫁だったのだが、それを母が奪った形で婚約を解消された事を未だに怒っている。その怨みは深く、現在女性の権利向上を訴える組織を立ち上げちゃう程。この間テレビで『性的暴行は魂の殺害』と強く訴えていた。
私が様がある時にこの屋敷に戻る時もちょくちょくチクチク言葉を投げつける程度には私の事が嫌いだ。
母が生前私にケーキやクッキーやシュークリームを与えていた時も良く叱り付けてもいた。……あの人何時も怒ってばかりの人だったな。
「えっ? 鷹羽俺の為に家を捨ててくれたの!?」
「いやそんな嬉しそうに声を弾ませるな。元々あの家と縁を切るつもりでいたし、切っ掛け作りとしては最適だからそれに乗っただけよ」
「所で親父の方は何やっているんだ? 娘が絶縁される事に話を聞いても影の形も見えなかったが……」
「ああ、あの人は私に興味はないわよ。ずっと桜の木を屋敷の中から眺めているだけ。一日の大半をそうしているから皆諦めてる」
母を異常に溺愛していた父は母が死んでから頭が少し可笑しくなった。
仕事の時は普段通りなのだが、家にいる時は桜の木が良く見える応接間の窓からずっと眺めていた。トイレや食事以外はずっと。
話しかけたり祖父が怒鳴って引きずったりしたが、糠に釘。カウンセラーや精神科医も自宅に来て貰ったが高名なカウンセラーや精神科医達もお手上げでもうどうしようも出来なかった。
仕事では問題がないのでもうこのままの状態にするしかない、幸い仕事に支障はないし用かあれば彼方の方から声をかけるから放置する事になった。
それからずっとあの男は一日の殆どを桜の木を眺めている。例え桜の花弁が舞っていようと葉桜しかなかろうと木の枝しかなかろうと、ずっと母が死んだ場所を眺めていた。
屋敷の中から桜の木を眺めている癖に近づく事を恐れている事が心底愚かしい。
「それじゃあ今でも俺達の方を見ているのか?」
「私達の存在は無視しているけど、多分双眼鏡から桜の木を見ていると思うわよ?」
そもそも母が生きていた時だって私の事は母を繋ぎ止める為の道具だったし、その母が死んだ後はもう道具の使い道が必要なくなった後は殆ど会話らしい会話もなくなったし、私にとっては血が繋がっているだけの他人だ。
後ろを振り返って父が今でも眺めているであろう応接間の窓を見る。遠くからでは窓の人物を見かける事が出来ないが何となく人影らしき人物がうっすら見える気がする。
屋敷のすぐ下の柊の木は風水を殊更気にしていた祖父が鬼門の位置にあった場所に植えた物だ。小さい頃は又従兄弟と一緒に赤い実を千切って遊んで又従兄弟の母親に叱られたのが懐かしい。又従兄弟とは屋敷にあったキャスター付きの椅子で遊んだ事もあったけなぁ
あんなに植えられているのに誰も気に掛ける人がいない柊の木が、誰にも顧みなかった幼かった私の様で久方ぶりに心臓がチクリと針に刺さった様な痛みがした。
昔の嫌な記憶を思い出していた時に不意にシキミが私の三つ編みで結んでいた髪を解いた。
「……何すんの?」
「難しい顔していると思ってリラックスさせようとな。良い機会だから眼鏡も外したら?」
シキミは私から眼鏡も外した。まぁそもそもこの眼鏡は伊達眼鏡だから外しても問題はないのだが。
「好い加減この格好も止めたら? この屋敷に帰るからこの格好にしていたんだからもう二度と帰らないなら良いんじゃないのか?」
「実父が死んだら一度は帰るけど……まぁそうなった場合もこの格好を止めても問題はないな。うん。する理由もない」
顔を隠す様に伸ばした前髪をつまむ。良い機会だから髪を切ろう。本当はベリーショートヘアが好きなのだが、母の約束でずっと顔が隠す位に髪を伸ばし続けていたのだ。その約束が果たされたのだから母だってきっと許してくれる筈だ。
「鷹羽~?」
「何?」
「ちゅーしていーい?」
この男はヤクザの癖に妙に子供っぽい所があるんだよなぁ。……まぁ良いか。誰も見ていないし。
私が背伸びをしシキミが少し屈んでキスをする。
男にしては柔らかいシキミの唇が私の唇と重なる。シキミのあごヒゲがくすぐったくて「ふふっ」とつい笑ってしまった。
私がご機嫌なのが嬉しいのかだらしない顔になって私をぎゅうと強く抱きしめた。
「ちょっと苦しい――」
「ん~おじさん鷹羽の可愛い顔が見れて幸せで胸が一杯! 解禁祝いに俺が鷹羽の服のコーディネートしても良いか?」
「あんまり高いのは嫌よ。気軽に洋服を着れなくなるんだから」
シキミは私の肩を抱いたまま車へと歩みを進める。彼の肩越しでしばらく見る事がない我が家を眼に焼き付いた。
私が屋敷に戻る事になったのは意外に早く、今年の冬の頃だった。
父が不慮の事故で亡くなったからだ。