勇者の印鑑
魔王城の入り口にある来城者窓口で、持参した入城申請のための書類を提出すると、事務員の緑色のゴブリンが、記述漏れがないかひとしきり確認した後で、書類を僕に突き返しながら言った。
「印鑑忘れてるよ。」
指差された場所を見ると、確かに、最後の署名の欄の末尾に、点線で囲んだ〝印〟の字が、薄い灰色の線で印刷してある。
「サインじゃだめですか?」
「だめだめ。規則だから。」
「マジかよ。ここまで来て、印鑑作りに最寄りの町まで戻るのか。」
戦士の持田がもううんざりという声を上げた。
それはそうだ。魔王城の周囲の広大な『迷いの森』は、結界に守られていて転移魔法が使えない。
強力なモンスターがうようよいるこの森を、三日もさまよった挙句に、ようやく城までたどり着いたというのに、また歩いて町まで戻るなんて、考えただけでもげんなりする。
すると、魔導士の文香が言った。
「ただの印鑑なら、魔法ですぐに作れますよ。」
「さすが大魔導士!頼りになる!」
パーティー一同、もろ手を挙げて大喜びしたが、それもつかの間、ゴブリンが、
「ただの印鑑じゃだめだよ。〝いにしえの印鑑〟じゃなきゃ。」
とくぎを刺した。
「何その印鑑?!宿屋に預けてあるアイテムのリストにもないよ!」
アーチャーの米崎さんが思わず窓口に身を乗り出したが、ゴブリンは、
「知らないよ。『勇者一行の入城許可申請書には、いにしえの印鑑が押してある事』って、規則で決まってるんだから。」
とあしらい慣れた様子で、取り付く島もない。
「どこかで、その印鑑を入手するイベントを、すっ飛ばして来ちゃったようですね。」
鍛冶屋の中本君が、淡々ともっとも考えられる理由を述べた。
「あああ~!もうやだぁ!村に帰りたいいい!」
道化師の泉のいつもの口癖が、夕暮れ時の暗くなって来た迷いの森にむなしくこだまする。
「どうするよ。霞。」
「印鑑を探しに戻る?」
「しかないでしょう。」
「勇者さん、ご決断を。」
「足が痛い戻るなら誰か負ぶってよ~。」
仲間たちから一斉にせっつかれて、僕はどうせ一つしか選べない選択肢を伝えた。
「戻りましょう。」
分かっていたとはいえ、みんなは見るからに疲れが上乗せされた様子で、深々とため息をついてうなだれてしまった。
そこでまた、泉が小悪魔のささやきのような誘惑の文句をつぶやく。
「ねぇ~、魔王退治なんか諦めて、もう村に帰ろうよ~。『道を見失ったらいつでも帰って来い。』って長老様も言ってたし。」
「やっとあと少しで魔王と対決できるってところまで来たのに、諦められるかよっ。帰りたいならお前一人で帰れ!」
イライラした持田に怒られて、泉は口をとがらせて、涙目になりながらそっぽを向いた。泉だって、文句は言うけど、これまで頑張ってみんなの役にも立ってくれている。一人で帰れなんて言うのは、ちょっとかわいそうだ、と僕は思った。だけど、やっぱり、いつもいつもみんなのやる気を削ぐような事ばかり言う泉も悪い。
だから僕は、持田をいさめたりせずに黙っていた。
すると、困り顔の米崎さんが取りなすように、
「今日はとりあえずその辺でビバークしよう。」と提案してくれたので、僕らはむくれた泉をそっとしておいて、そそくさと野営の準備に取り掛かった。
しかし、いったいどこで、いにしえの印鑑とやらを手に入れるイベントを見逃したのだろう。
そんな、回収し忘れた伏線や、フラグみたいなものが、身近などこかにあったのだろうか?
了