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誰も私を見ていない

作者: 悠井すみれ

 フレンチ居酒屋の個室にグラスが触れ合う音が響く。ゼミの女子での同窓会だ。家庭や仕事がある年齢になると、同期が集まる機会は貴重なものだ。だからお店もそれぞれのメイクや服装も、少し気合の入ったものになっている。


「今の会社、辞めようかなって思ってるんだ」

「転職? 同じ業界で?」

「ううん、いったん留学しよっかなって」

「良いなあ。うちは、子供がせめて小学校に上がらないと」

「旅行も大変そうだよね」

「そうそう! 陽菜はるなも今のうちだよお?」


 仕事に趣味に恋愛に。配偶者やその実家のちょっとした愚痴。子供がいる子は、まだこの中には少ないけれど。私にとって未知の話題だと、みんなが笑いながら話すのが自慢なのか悩みなのか、区別つかないこともある。

 久しぶりの席に座が盛り上がる中、私は主に聞き手に回っていた。適度に相槌を打ちながら見つめるのは、シャンデリアを模した照明でも、宝石のような彩の前菜でもない。小粒のダイヤが煌めく沙耶香さやかの指輪でも、品の良いベージュに艶めく陽菜のネイルでもなく──斜め向かいに座ったあおいの顔だけだった。


 良い子なのは誰もが認めるところだ。明るくてさっぱりしていて。仕事も順調らしい。今日のメンバーの中では、化粧っけが一番薄い。スーツ姿なのは、土曜にも関わらず出勤日だったからだって最初に言ってた。でも、飾り気のない格好は多忙だからというだけじゃない。葵が見た目に──比較的──無頓着なのは、学生時代からのことだった。


 もう少し手をかけたらなあ、とはみんな思っているかもしれないけど、社会的に問題がない程度の身だしなみが整えられてるなら、あえて口に出すことじゃない。腫れぼったい目蓋とか厚い唇とか──メイク次第でもっとこう、なんて余計なお世話だ。私が言うのは、特に。そう、何と言っても、彼女は良い子なのだから。人は見た目が全てじゃない。そうでしょう?


琴美ことみは? 彼氏さんとどお?」

「あ──えっと、そろそろ、かも。来年のゴールデンウイーク辺り、空けといて欲しいかも」


 葵の鼻のあたりを注視していた私は、急に声を掛けられてどもってしまった。嫌だな、今日の席で「そういう」話を振られるのも、スケジュールの打診をするのも、予想していたはずなのに。もっとさらっと言えるように、準備していたはずなのに。


「えー、ほんとお? おめでとう!」

「もう、そういうの早く言わないと!」


 決して大声を出した訳ではなかったのに、私の「報告」は、恥ずかしくなるほどの反響を呼んだ。みんなの視線が一瞬で私に集まって──咄嗟に、ぎょっとしてしまう。じめっとしたところにいる虫が、急に隠れている石をめくられて慌てふためくのはこんな感じじゃないだろうか。


「じゃ、今日は琴美のために飲も!」

「すみませえん、オーダーお願いします!」


 私が上手く口を動かせないでいる間に、誰かが個室の扉を開けて店員を呼んで、スパークリングワインをボトルで頼む。人数分のグラスが届くと、真っ先に私のグラスになみなみと注がれ、細かな泡と同時に華やかな歓声が。そして、かんぱーい、の声と同時にグラスが触れ合う軽やかな音が響いてジャズピアノの微かなBGMを掻き消した。そこからは、否が応でも私が場の中心になってしまう。


「式場は? もう決めたの?」

「都内で、ゲストハウスとかアットホームなとこが良いかなって、彼と」

「良いなあ。彼氏さん、優しそうだもんねえ」

「うん、ありがとう」

「じゃあ、あんまり派手じゃない感じ? 親族と友人だけ、みたいな?」

「どうだろ、まだ会社に報告してないから……上司も呼んだ方が良いのかとか、要確認で」

「とにかくおめでとう! なんか、私まで嬉しいなあ」


 乾杯したはずのグラスを呑み干す暇もない私に、葵も、みんなと同じく祝福の声を掛けてくれる。にっこりと笑うと、彼女の目は糸のように細くなるんだ。でも、明るい笑顔だ。私の友人の顔だ。可愛い? うん、少なくとも感じが良い。心から喜んでくれてるのが分かる。だから私も笑い返す。葵が相手だと少しだけ気が楽というか、気負わなくて済んでしまうのが、私自身でもとても嫌な奴だと思うんだけど。


「受付とかやるよー? なんかあったら声掛けてね」

「ありがとう、お願いするかも」

「新婚旅行は──まだ早いか。でも、楽しみだよね!」


 次々と浴びせられる質問の中、私が一瞬だけ答えに詰まってしまうものがあった。喉を潤す振りでグラスに口をつけるのは、気持ちを落ち着かせるための時間稼ぎのようなものだった。


「あー……うん。それは、新居にお金かけたいから、手近なとこかもしれない」

「そうなんだ。まあ、国内でゆっくりとかでも良いよね」

「でしょ? 温泉とかね」


 心のつかえは弾けるワインで洗い流して、すぐに笑って嘘を吐くことができたけど。その間も、私の目は葵だけを追っていた。みんなの視線を逃れるためだけでもなく、気になってしかたないのだ。彼女の顔が。その理由は、答えを濁した質問に関わることでもある。


 旅行より家電より、私は別のことにお金を使いたかった。そう、彼に相談してもいた。でも、そんなことは同期たちに言う必要はないことだ。言うとしたら──「彼女」だけに。


      * * *


 同期会が終わると、私は葵の隣をぴったりと確保した。店の外の路上で、駅のホームで。みんなのやり取りに耳を傾けて、葵の最寄駅を確認するのも忘れない。彼女の住まいは、とある路線の奥の方で、同じ方面の子たちも、葵の降りる駅まで乗る子はいないということだった。私にとっては、とても都合が良い。


「琴美、今、家こっちなの?」

 

ひとり、またひとりと同期が電車を降りていくのに手を振って、ついにふたりだけになると、葵は不思議そうに首を傾げた。


「ううん。葵とちょっと話がしたくて。──二軒目、行って良い?」

「良いけど……?」


 マリッジブルーを心配してくれたのか。細い目を瞬かせながらも葵はすぐに頷いてくれた。さすが、この子は優しかった。


 次の駅で下車した私たちは、目についたバーに入る。さっきのフレンチ居酒屋よりもずっと暗くてずっと静かで、バーテンダーも常連らしいお客さんと話している。これもまた、私にとっては安心できる環境だった。たとえ見ず知らずの人だろうと、二度と会うことがない人だろうと、絶対に聞かれたい話ではないから。こんな話、暗いところでするものだろうから。


 私はジントニック、葵はカンパリソーダ。もうたっぷり食べて飲んだ後だから、頼んだのはさっぱりしたカクテルだった。各々にグラスが届くのを見計らって、私は早々に「本題」を切り出す。


「私、XX美容外科のパンフ取り寄せたんだ」

「ああ」


 からり、とグラスの中の氷に音を立てさせた、葵の溜息のような声のトーンで分かる。私が何を言おうとしてるか、この子はもう分かってくれた。あのパンフに載ってた施術例のモデルは、やっぱり葵だったんだ。


 鼻尖形成術二十万円プラス鼻中隔延長術五十万円──団子鼻を小さくして、鼻先の形を整えて、鼻の穴を目立たなくする施術。


 そのモデルは、証明写真のようにまっすぐにこちらを向いてぎこちなく微笑んでいた。すっぴんのビフォア写真と、軽くメイクをして明るくライトをあてたアフター写真。その両方を、私は何度も何度も見比べた。だって、葵に見えて仕方なかったんだもの。でも、本当に? 私のよく知ってる子が整形していて、しかも私が取り寄せた美容クリニックのパンフレットに載ってるなんて。そんな偶然ってあるものなの?


 同期会の誘いが来たのは、自分の目が信じられなくなったところに、だった。さっきの店でも、私はずっと葵の顔を見つめ続けていて──でも、それでも確信は持てなかった。ううん、やっぱりあの写真はどう見ても葵だ、って思ったんだけど、信じ切れなかった。


 整形をする人って身近にいるものじゃないと思ってた。テレビや雑誌で見るような芸能人やセレブとか、そういう人たちだろう、って。不自然に大きな宇宙人みたいな目。ボールでも詰め込んだみたいな丸すぎるおっぱい。ああいう、よくできた人形みたいな作り物めいた綺麗な人たちは、別の世界の存在だと思っていたから。


「見られちゃったかあ。言われたの、初めてだなあ」


 だから──やっと確かめることができてなお、私は次に言うべき言葉が見つからない。葵みたいな、言っちゃなんだけど普通の、地味な子が「そう」するだなんて信じられなかった。葵は屈託なく笑って、赤く透んだカンパリソーダのグラスを傾けているけど、それが本当のことなのか夢を見ているだけなのか、あやふやになってしまうくらい。


 ジントニックのグラスの表面を水滴が伝った。私はもう、葵の顔をまっすぐ見ることができなくなっていた。だって、こんなことを話しながらなんだもの。整形の痕跡や「前」との違いを見出そうとしてるようにしか見えないだろう。それは多分、とても失礼なことのはずだ。さっきも私はそれをしてはいたんだけど、もう同じという訳にはいかない。


「掲載に同意すると、ちょっと割引があるんだよね。だから」


 話しかけられて黙っているのも、失礼なんだろうけど。葵は、尋ねるまでもなく私の知りたいことに応えてくれたんだから。いったいどうして、美容クリニックのパンフレットに顔を載せたりしたのか、って。割引っていうのはありそうなことだ。でも、それって、タダだと誰も載せたがらないってことなんじゃないの? だって──


「バレたら、とか思わなかったの?」

「や、なんで知ってるの? ってなるでしょ? ネットじゃなくて紙だし、そんなに気にしなくて良いかな、って」

「そう、なのかな……?」


 やっと口を開くことができたけど、私の問いは短すぎて、キツい感じになってしまっただろう。なのに葵はやっぱり笑って軽く答えてくれて、気にしないで、って言ってくれてるみたいだった。さっき、初めて言われたって言ってたっけ。


 確かに、言われてみればその通り、だろうか。美容クリニックのパンフレットを入手しているということは、「そういうこと」だ。真剣に整形を検討していると自白したも同然で、だから言いふらすなんてできないだろう。そもそも、ホームページで申し込まないともらえないものだし、人目に触れる機会は思った以上に少ないのかも。普通に暮らしていたら、って但し書きがつくんだろうけど。


「えっと……」


 またも言葉に詰まった私に、葵は今度は少し困ったように微笑んだ。


「琴美は、どこを弄ろうと思ってるの?」


 肺が締め付けられるような気がして、私は息を深く吸って、吐いた。心臓が鳴る音がうるさい。アルコールと相まって気分が悪くなりそう。でも、自分から声を掛けておいてだんまりもできない。葵の疑問も当然だ。「普通なら」目にすることもないはずの、美容クリニックのパンフレット。もしも私がまだ実家暮らしだったら、親の目を気にして取り寄せることはできなかっただろう。それくらい、心理的にハードルがあることを私はしたんだ。それは、具体的な目的があってのことだろうと思うのは当然だ。


「……小顔。エラを削りたくて。今なら式に間に合うから。エステのお陰って言えば何とかなるかな、って」


 私は両手で頬のラインを包んだ。骨格の問題はメイクで誤魔化すにも限界がある。こうすればもう少し見れるんだけどな、と何度鏡の前で思っただろう。プロポーズしてもらったのも、式の準備を進めるのも、とても嬉しくて幸せなことだ。でも、同時にその日のことを思い浮かべると消えてしまいたくなる。さっきみたいに、フレンチ居酒屋の抑えた照明の下、せいぜい十何人かに注目されるのとはまるで違う。真っ白なドレスで着飾って、親や親戚や上司や友達、もしかしたら百人単位の人の視線を浴びなければならないなんて。こんな私が。こんな顔で。


「そっかあ」


 琴美は、今のままで可愛いよ、とか当たり障りのないことは言わないでいてくれた。他人からどう言われても、「私の」気持ちが収まらないということを、分かってくれた。惨めな思いをさせないでくれた。さりげない相槌は、本当に助かる。


「痛みとか痕とか心配? 場所は違うけど、相談に乗る?」

「ううん……」


 ああ、葵は本当に優しい子だ。うんざりしそうなお説教なんかナシで、私の力になろうとしてくれている。こんな良い子に、私はひどいことを言おうとしている。自分自身に吐き気を覚えながら、私は首を振った。ジントニックを一気に呷ってから、言葉を吐き出す。


「ねえ、お金を出して整形した意味、あった? そ、そんなに──」

「まあ、そんなに変わってないっていうか、まだまだブスだよねえ」


 アルコールの勢いを借りて、それでも言い切れずに濁してしまったのをさらりと汲み取って、葵はまた軽く笑う。明るいけど、少し困ったような気配もある、苦笑だった、その表情で分かる。葵も私と同じことを考えていたんだ、って。


「そんな、ことは……」


 ああ、さっきの葵みたいに潔くなれない。気休めの嘘だって分かってしまうだろうに、ありきたりなことしか言えない。


 パンフレットを眺めるだけでも、整形美人、なんてそうそうあり得ない存在だと悟るのには十分だった。何百万円もかけて何か所も直して、でも効果は永続するとは限らない。それに、何より。ブスが頑張ったところでブスのままなのだ。葵に限らず、パンフレットに顔出ししていた人たちを見て思ったことだ。名前も知らない、会ったこともない、それぞれ悩みがあったであろう人たちだ。本当に失礼なのは分かってるけど、でも、正直な感想だった。


順平じゅんぺい──彼に、指輪はいいから手術したいって言ったの。新婚旅行もいらないから、って。OKしてくれたけど、意味がないなら──」

「そのままの君が良い、とかじゃないんだ……」

「それも、言ってくれたけど。でも、私が嫌だから」


 そう、その点では彼も葵と同じく優しかった。私が本気で言っていると、分かってくれた。でも、内面を好きになってもらえたと単純に喜ぶには、私は捻くれてしまってる。他人に対してなら人は見た目だけじゃないと言えても、自分のことについては、分からない。


 心から賛成はしないけど、それで君の気が済むなら、と。彼は困った顔で言ってくれた。彼の寛大さには感謝してもしきれないけど──エラ切り費用は、約百三十万円。大金を整形につぎ込む踏ん切りを、私はまだつけられないでいる。


「葵は……どう? 何か変わった? 後悔、してない?」


 だから、経験者の話が聞きたかった。何が変わるのか、変われるものなのか。それが、私の目的だった。


「私は誰にも何も言われなかったな。整形した? もキレイになった? も。だから無駄っちゃ無駄だろうね」

「そう……」


 淡々と語った葵に、私は深く溜息を吐いた。やっぱり、元が悪いと「お直し」にも限界があるんだ。それなら、お金の無駄遣いは止めなくちゃ。私を好きって言ってくれる彼を信じて、式や旅行や新居のためにお金を使うべきだ。でも──


「だから、良かったと思ってるよ」


 私と真逆の結論を吐いた葵に、私は目を見開いた。改めてまじまじと見つめても、彼女の顔は前に会った時と変わらない、と思う。私以外の同期も整形なんて疑ってもいないようだった。何十万もドブに捨てたようなものじゃないの? なのに、なんで笑っていられるんだろう。


「みんな、人の顔なんてあんまり見てないんだな、って分かって」


 口に出すまでもなく、葵は私の疑問への答えを教えてくれた。葵の意味深な笑みに、惹き込まれてしまうのが不思議だった。葵の悪口を言うような子はいないけど、褒める時だって優しいとかしっかりしてるとか、暗黙の了解みたいに中身に触れるのがいつものことなのに。今の葵の表情は、ドラマか映画のワンシーンのように、なんだか画になって決まっていた。堂々としている、っていうことなのかな。人の──私の目を気にしていないと分かるから、だから格好良いと思う。


「私だってさ、気にしてはいたんだけどね。整形までしても気付かれないんだもん、悩んでるのがバカバカしくなっちゃった」

「そう……!」


 今度の相槌は、溜息を吐いたんじゃない。葵につられてか、笑顔が自然と浮かんでいた。


      * * *


 家に帰ってスマホを見ると、順平からのメッセージが入っていた。同期会だということは伝えていたからだろう、楽しかった? と短くひと言。早く帰りなよ、とか、女子の集まりに水を差すことは言わないけれど、疑問形にすることで私からのリアクションを期待できる、そんな気遣いが見て取れた。私なんかに、とは思うけど、彼のひいき目がなかったとしても若い女は色々気を付けるべきだということは一応分かってる。


 荷物を置いて、顔を洗って──鏡の中のすっぴんの私はできるだけ見ないように──部屋着に着替えて、パソコンを立ち上げる。それから、私は順平に電話をかけた。葵と話していたら思ったより遅くなってしまったから、心配しているかもしれない。


『──琴美? お疲れ』

「うん。メッセージありがと。あのね、みんな相変わらずで楽しかった」


 案の定、何秒も待たずに順平の穏やかな声を聞くことができた。まさか、スマホを睨んで待っていたのかな。


「式の予定も発表してきたよ。みんな、空けといてくれるって」

『そっか、嬉しいな。これから色々詰めなきゃだけど』

「そうだね」


 相槌を打ちながら、私は右手でマウスを握ってウェブブラウザを立ち上げた。目当てのサイトはブックマークに登録しているから、会話を途切れさせることなく、滑らかに開くことができる。


「でも、その前に指輪、見に行きたいな、って」

 悪戯っぽく囁いてみると、スマホの向こうで順平が息を呑む気配がした。いつも穏やかな表情の彼が、大きく目を見開いたところが見えるみたい。

『……ほんと?』

「うん。えっと……一生もの、でしょ? まずはネットとかで目星つけなきゃだと思うんだけど」


 結婚式で、両親や友達の目を誤魔化すためだけの安物じゃない、何年も何十年も使うであろう、「ちゃんとした」結婚指輪を──順平の震える声に少しおかしくなりながら、私は念を押すように付け足した。これまでは、その分のお金を整形に使わせて欲しいと言ってた私が、急に意見を変えたのだ。順平が驚くのも動揺するのも、そして疑うのも当然だろう。でも、きっと最後には嬉しいと思ってくれるはずだ。


『じゃあ……『あのこと』は諦めてくれた?』


 彼にとっては、整形、なんてはっきり口に出すのも憚られるような言葉らしいから。多分、そういう選択を採る人が世の中にいることも許せない、なんてことはないだろう。将来を考えた──考えてくれてる──相手がだと、ものすごく抵抗があるってだけで。


「うん。今日ね、それもちょっと相談したの。それで、少し楽になったから」

『琴美、良い友達を持ったね』


 だって、こんなにしみじみと呟いてくれるんだもの。私の判断に任せると口では言ってくれていたけど、反対しても意固地になるだけだと思ってたのかもしれない。


「うん。本当に」


 順平とのやり取りは、次のデートの予定に移っていく。会って遊ぶだけじゃなくて、式場選びとか、お互いの両親の顔合わせのためのレストランかホテルを探したりとか。面倒で大変だけど、きっととても楽しくて幸せなこと。


 そんなことを話しながら、私は例の美容クリニックのホームページの、ウェブ予約フォーマットを開いていた。もう何度も訪ねて、何なら途中まで入力したことだってある。その履歴をブラウザは覚えているから、片手にスマホを構えて、手元に手帳を開きながらでも送信画面に辿り着くことができた。


『次に会えるまでちょっと空いちゃうね。仕事、忙しいんだ?』

「たまたま重なっちゃった感じかな。でも、電話はできるから」


 私が何をしているか、順平は想像だにしていないだろう。「送信完了」の画面と、それから予約確認のメールを確認して、でも、私は不思議な満足感を味わていた。

 葵は、整形してもしなくても変わらなかった、と言っていた。でも、誰も人の顔なんて気にしてないことが分かって安心した、とも。整形したことを後悔しないための強がりではないと思う。あの子の晴れ晴れとした笑顔は、心からの、自然に浮かんだものに見えた。


 葵は、だから整形しなくても良いんじゃない、って私に言おうとしていたんだと思う。考えてみるね、と言って別れた時の雰囲気は、多分そういう感じだった。順平と同じく、整形は「よっぽどのこと」で「やらないに越したことはないこと」と思っているみたい。あの子自身が満足していることと、それを友達に勧められるかどうかはまた別の話なんだろう。そういう感覚は、よく分かる。他人と自分はまったく違う存在だもの。葵を良い子だって、外見よりも中身だって心から思う一方で、私は自分自身にはそれが当てはまらないと思っている。


『なんだっけ、ウェブ会議のアプリ、あるでしょ。あれなら顔見て話せるよね』

「ごめん、そういう設定、よく分かんなくて」

『設定してあげるよ』

「うん、じゃあ次にうちに来てくれた時にお願い」


 でも、葵のあんな顔を見ちゃったら、どんな気持ちになるのか試してみたいじゃない。本当に気付かれないものなのか──本当に、誰も私を見ていないのか。百聞は一見にかずって言うじゃない。葵から聞いた話だけじゃなくて、自分で試してみないと納得できない。

 だから順平に嘘を吐かなくちゃ。美容クリニックの予約も、手帳の空いたスケジュールも、会議アプリの設定くらい、自分でできないはずないってことも。みんな、彼には言わなくて良いことだ。


      * * *


 お互いの実家への挨拶に、式場選び。料理や引き出物を選んで招待状を出して。ドレスやBGMを選んで、式次第を順平と考えて。普段の生活や仕事に加えてそれだけのタスクをこなしていると、日々も季節も瞬く間に過ぎていった。そんなはずはないんだけど、気が付いたら式場の控室にいて、コルセットで胸を締め上げられて、メイクさんとスタイリストさんに囲まれて最後の「仕上げ」をされていた──そんな気分になるくらい。


「とても、綺麗だよ」

「ありがとう」


 純白のドレス姿の私に、既にタキシードを纏った順平は熱く囁いてくれる。晴れの日の感慨もあれば、私のコンプレックスを拭い去ろうという思いもあるんだろう。整形を止めた、と伝えた後でも、彼は私の顔や何気ない仕草を大げさに褒めてくれていた。その言葉を私が心から喜んで受け止められたかというと、分からないけど。無理させちゃってるなあ、とか。順平の美的感覚ってズレてるんじゃ、とか。そんな風に思ってしまうから。──思ってしまっていた、と言った方が良いのかな。今なら、私はもう少し違うように考えることができていると思う。


「どう、かな?」


 ドレスの裾を持ってくるくる回る──なんてことはできない。そんな可愛らしい真似は私には似合わないからというだけでなく、アニメとかでお姫様が軽々と踊ってるのが信じられないくらい、生地は重いしコルセットは苦しいし、ぽっくり下駄みたいな厚底の靴は動きづらい。

 でも、私の笑顔は嘘偽りのない本ものだった。あの夜に葵が見せたのと、きっと同じくらい晴れやかな。


「やばい。泣きそう」

「まだ早いでしょ。『両親への手紙』まで我慢して?」


 靴底の厚みのお陰で、目頭を抑える順平の顔はいつもより近かったけど、私はためらいなく彼の耳に唇を寄せて囁いた。ブスが迫ってきたら嫌だろうなあ、とはもう思わない。メイクさんたちのお陰で今日の私は自分史上最高に綺麗だ。


 それに何より、順平はやっぱり気付かなかった。


 目頭の切開──ほんの三十分程度で終わる簡単な施術とはいえ、私は顔にメスを入れたのに。葵が言っていたのは本当だった。誰も、生涯を共にする伴侶でさえ、驚くほど人の顔を見ていない。


 でも、それはまったく悲しいことでも寂しいことでもない。順平にとっての私は、鼻の高さとか目の大きさとか顔の輪郭とか、そんなひとつひとつのパーツの寄せ合わせではないみたい、って信じることができそうだから。そんな些細なことより、私が笑っていることを喜んでくれているんだ、って。優しい言葉や気遣いよりもずっとずっと、彼が気付かないという事実が、私を喜ばせてくれる。幸せにしてくれる。──あるいは、ほんの何ミリか切り開かれた私の皮膚が、私の支えになってくれる。私の顔なんて気にする、気にされるようなものではないのだという、証拠になってくれる。




 式場に付属の教会で挙式して、披露宴が始まって。順平の上司さんの乾杯の音頭で歓談の時間が始まると、私たちが座る高砂には次々と友人が訪れた。


「おめでとう! 琴美、ほんとキレイだよ!」


 その中にいた葵の目が、一瞬だけ長く私の顔に留まったのは気のせいではないと思う。彼女には、「エラの」手術は止めた、とだけ伝えていた。それでも、実際に顔を合わせるのは例の同期会以来だったから、私が手術をしていないのを確かめて、やっと安心したのだろう。顔の輪郭を変えるのに比べれば些細な手術だし、今日の私の目はいつもより濃いマスカラとアイラインに縁どられている。順平や実の親でさえ気付かなかったミリ単位での違いを、葵が気付くのはとても難しいはずだ。


 そう、本当のところ、しっかりと見ていたとしても気付けないかもしれない、その程度の微妙な変化なのだ。間違い探しのゲームだったらズルいと言われてしまいそうな、ほんの少しの違い。でも、そんな小さな小さな秘密が私の心を守ってくれる。見た目で思い悩むのはバカバカしいと、どんな優しい言葉よりもはっきりと教えてくれる。何十という視線に晒されても、堂々と笑っていられることができる。誰も私を見ていないから。


「ふたりとも、おめでとう」

「ありがとう」


 何度となく掲げるシャンパンのグラスは、私たちの結婚を祝うと同時に、私の解放を祝うものでもある気がした。誰も何も気付かないと確かめるたびに、私は私の顔から自由になれる。


 今日は私の人生で最高の日。最も幸せな日。この喜びを、私は決して忘れないだろう。

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