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闊歩木

「したっけ、ヤギのほうさ連れてげばいいのげ? あ?」


 音を立てないよう気を張りながら片方ずつ太腿を胸に引き寄せ、しゃがんだ体勢からゆるゆると脚を伸ばしていって中腰になり、揺らめく影から目を離さずに上半身を起こしつつ立ち上がる。


「んでよ、その最後のヤギバはどごの、あ? どごだって?」


「ちょっど小便しょんべん行っでくるわ」


 そう声が聴こえたかと思うと樹木らしき漆黒から人影が分離して現れ、地面を蹴る音を立てながらゆらゆらと動くのが見えた。空がわずかに明るくとも足元はほとんど闇に飲まれている。転ぶのをかえりみずに走ることなど、とてもではないが私にはできない。


 こちらへ向かってきているのか、それとも逆方向へと走っているのかはわからないが、どこかの光が瞳に反射して相手に気づかれてしまわないようにと目を閉じた私は、動くのをやめてしばし様子を窺うことにした。


 それなりにではあるが私でさえ暗闇に目が慣れてきているのだから、先ほどから外を歩きまわっていると思われる男たちからすれば、少しでも動くものがあればそれが何なのか容易にわかってしまうのではないだろうか。


 できる限り静かに息をしながら、用を足すなら川のある逆側へ行ってくれと願っていると、ジッパーの開く音に続き小水しょうすいが地面を打つ嫌な音が、男の鼻歌に混じって右手のほうから聴こえてきた。


「うん。したっけ、タガオガさんとごに、あ? ナガオガ? どっちっつったんだ今?」


 二人ともそれぞれどのくらい離れた場所にいるのかは不明だが、どちらの男にも私がいることは気づかれていないようだ。


 やがて放尿の音が止んで鼻歌が遠ざかっていくのを聴いていた私は、二人の視線がれている今が好機であると考えて目を開き、顔は彼らがいると思われるほうへ向けたままで、西へと伸びる生け垣に沿ってじりじりと移動を開始した。




 どこまで行っても生け垣は途切れず、あれほど燃えていた篝火かがりびもすべての炎が消えてしまっており、少なくとも祭りの会場からは遠ざかっているらしいことがわかる。


 振り返った先に見える右手の空がまだ明るい。おそらくやぐらか大きな焚き火の炎と思われるが、それらが集落のどの辺りに位置しているのかわからないのでは、何の目印にもなりはしない。そもそも、私は自分がどこから集落に入ったのかすら知らないのだ。


 例の捜索アプリではなく、地図アプリで周辺の詳細が表示されないかとスマホを確認しようとした私は、中村から届いていた『闊歩木が捕まるのを見ました』というメッセージを見て足を止めた。


 まさか中村はカッポギ氏が捕まる現場を見ただけで、集落が人身売買をしていると判断したのだろうか。それでは早計や拡大解釈というよりもただの妄想でしかない。


 だいたい、私は『詳しく教えてください』というメールも送ったはずなのに、どうして中村は一言しか返事を書いてこないのだ。詳しくの意味がわからないわけではあるまい。それに、警察に捕まるのを見たのなら、それは単にカッポギ氏が悪事を行ったというだけの話である。


 もしそうであれば、中村のメッセージを本気にして宿から抜け出し、村人を警戒して彼らから逃げ隠れしている私が馬鹿みたいだ。これはひょっとすると、中村だけでなく私も、暗闇の見せる幻影のようなものに惑わされているだけなのではないか。


 私は半ば冷めた気分で『悪いことをしたから逮捕されたんじゃないですか?』と打ったメールを中村に送り、『長文で構わないのでもっと詳しく書いてください』という一文を続けて送った。


 それにしても、先ほどから民家らしき影が一つも見当たらないが、果たしてこれはどこかへ辿り着く道なのだろうか。


 前方にはこんもりとした巨影の稜線が、夜空の青褐色あおかちいろと山の漆黒とを曖昧に隔てる境界線となっておぼろげに見えている。


 例えばこれがみたま屋の私道で、彼らの所有している田畑へと通じて行き止まりということも考えられる。行き止まりならまだしも、道の終わりに肥溜めがあったり、この先が崖や沼になっていて落ちたりしたら無事では済まないだろう。


 このまま闇雲に移動を続けるよりも、中村からの返信を待ったほうがいいかもしれない。


 そうは思いつつも生け垣に沿ってゆっくりと歩みを進めながら、中村はメールを打つのが遅いななどと考えていた私は、焼けた炭の匂いが生温なまぬるい風に乗って漂ってきたのを感じ、もしや近くに人がいるのではないかと思って足を止めた。まだ村人たちへの疑念が完全に晴れたわけではないのだ。


 くすぶる炭のほこり臭い香りに混じり、消毒薬に似た臭み消しの匂いも微かにする。すぐそばに篝火の燃えかすでもあるのかもしれない。


 誰かの話し声が聴こえたりしないかと慎重に足を運んでいると、左手側に続いていた生け垣が唐突に終わり、ようやく南側の風通しがよくなったと思ったところで、アスファルトを想起させる濃厚な炭の香りが鼻先をかすめた。


 なぜか急に、真々白氏の湯船の一端が滝になっていたらというたとえ話を思い出した私は、もしかしたら自分は崖っぷちにでも立っているのではないかと想像して足を止めた。生け垣はないが、依然として背の高い黒い影が周りを取り囲んでいるため、自分がどういった場所に立っているのかわからない。


 ライトを点けてしまおうか。


 周りに人もいないようだし、どうせ点けても毒蜘蛛が寄ってくる程度なのだ。身体にたかられないよう注意していれば問題ないはずである。谷底へ落ちる危険とは比べ物にならない。


 私はもう一度周りに人の気配がないかと耳を澄ませ、虫と蛙の鳴き声しか聴こえないのを確認してからスマホのライトを点灯させた。


 暗闇に突如として光の輪が現れ、久方ぶりに見たライトがあまりにも明るいことに驚いた私は、これでは遥か遠くからでも村人に察知されてしまうのではないかと、慌ててスマホの背面を己の身体へと押しつけた。

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