山羊
身体を移動させた私はすぐに元いた位置へと戻り、想像したみたま屋の東側ではなく西側をまわり込むルートで、中村が潜んでいると思われる地点を目指すことにした。
来るときには気がつかなかったのだが、路地か畦道にでもなっているだろうと思っていた東側の場所には川があり、近くに立っても騒々しい虫の音のせいで水の流れる音がほとんど聴こえず、あと少し歩幅が違っていたら足を踏み外して落ちているところだった。
何度も足元を照らして橋を探すという面倒を嫌った私は、みたま屋の敷地に沿って南へ下る小径でもないものかと思い、見当をつけて宿の西側にあたる辺りへと慎重に歩みを進めた。
私は一体何をやっているのだ。玄関から出て、まだ宿の前をうろうろしているだけである。これでは山を下るなど、どだい無理な話ではないか。
往々にして物事というものは一つ綻びが生じると、まるで糸がほつれていくかのように、うまくいかないことが連鎖的に起こる仕組みとなっているらしい。もしくは、悪い予感はよく当たるというやつだ。
ようやく辿り着いた宿の西側には、玄関前のような急な坂道がない代わりに都合のいい小径などもなく、生け垣と思われる背の高い植物が隙間なく繁っているだけだった。単純に南へ下れば中村のもとへ着くだろうという私の考えが甘かったようだ。
これならば橋を探して渡り、宿の東側から南を目指したほうが目的地が近い。それとも、このまま生け垣が途切れるまで歩いてみたほうがいいのだろうか。
考えるあいだ、なるべく目立たないようにと生け垣のそばにしゃがみ、『警察と村がぐるになって人身売買をしている現場を見たんですか?』と中村のメールに対する返事を送った。こちらの質問に答えないのなら、私が中村に合わせるしかない。
期待どおりの返信が来るかどうかは別として、耳が聴こえず声も出ないらしい中村と会ったところで会話をすることは不可能である。会ってもスマホを介してのやり取りとなるため、今メールで意思の疎通が図れないのであれば、奴から詳しい情報を聞き出すことはできないということだ。
「次が最後だっぺ?」
どこからか男の声が聴こえた気がした私は、地面に片膝をついてなるべく姿勢を低くし、動いている濃い影はないかと暗闇に目を凝らしてみた。
「それがよ、さっぎ安子さんに会っでよ、まぁた逃げだっつって」
「またぁ? だがら言ったっぺよ。けちけちしねぇで、はなっがらたぐさん使えって」
「知んねぇよ。安子さんに言えっつうの」
「したっけ、まぁた俺らで探すのげ? ったぐ、自分で探せっつんだよ、なぁ?」
あまりにもはっきりと会話が聴こえ、もしや自分が気づいていないだけで極めて近くに人がいるのではないかと怖くなり、私は音を立てないよう注意しつつ生け垣を背にしてゆっくりと地面に腹這いとなった。
安子とは女将の名前だったように思う。それに、逃げただの探すだのと言っているが、まさか私が宿を抜け出したことがもうバレたのだろうか。
「そんな遠ぐにゃ行げねんだがら、すぐ見つかっぺよ」
「つうかよぉ、さっぎのやづで最後っつってながったが? したっけ、今度は逃げだやづが最後だとか言い出しやがって。最後、最後って、いづんなっでも終わんねぇ」
「おめぇ、最後はあれだぞ? さっぎあそごで寝でだやづだがんな」
「ああ? ぢゃあ、あど二人もいんのげ? ったぐ、めんどくせぇ」
会話から推測するに、彼らは先ほど部屋の外の窓付近で捕り物をしていた連中だと思われる。だとすると、逃げだやづではなく寝でだやづが私のことだろう。何をされるか知らないが、捕まって乱暴な扱いを受けるのはごめんだ。
「つうか、寝でるやづ先にやっぢまうか? 順番は関係ねぇんだっぺ?」
「でげぇのはマヅさんに任せっちまっでか? 俺らぢゃ見つけでも引っ張っでくんの無理だっぺがらなぁ」
逃げた奴の捜索を後まわしにされるのはまずい。連中に踏み込まれたら私が宿にいないことなどすぐにバレるだろうし、それでもし追っ手がかかったとしたら捕まるのは時間の問題である。
「そうすっど、どっちだ? ヤギカニエガ?」
「あー、どっちだっぺな?」
ヤギカニエとは何だ。意味はわからないが「山羊か贄」と言ったのかもしれない。
「ニエだっだら、俺らいらねんぢゃねぇのが? 家んながちょっど引っ張ってぐだげだっぺ?」
「あの人らも歳だがらよ、いぐらひょろっこぐでも自分らでやんのは難儀なんだっぺよ」
「おめ、失礼なこど言ってっど怒られっぞ。安子さんはまぁだ四十代だっぺ?」
そこで唐突に話し声が聴こえなくなり、BGMとなっていた虫の鳴き声が盛大に鳴り響きはじめた。足音もしなければ声が移動した感じもしなかったが、彼らはどの辺りにいるのだろうか。視界がきかないと音のする方向まで曖昧になる。
急な沈黙が意味するところは何なのかと考えていると、「ぢゃあ、先にこっちが?」という声がやたら近くで聴こえた気がし、男がすぐそばに立って私の後頭部を指差しながらこちらを見下ろしているのではないかと思えてきて息を止めた。
「櫓の連中に電話して訊いでみっぺ」
「今年はなんだがめんどくせぇなぁ」
「ヤギバはどごのだっぺな? それも訊いで、あ! もしもし、おづかれさんですぅ。マギノシダですぅ」
動くなら男たちがいなくなってからが無難ではあるが、そんな悠長なことを言っているとさらに逃げづらい状況になるやもしれない。これ以上は人が集まってこないという保証はないのだ。
「あのぅ、ほら、逃げだのはでがいがらマヅさんに頼んでよ、みだま屋で寝でるやづ先にやっでもいいがなって話してたんだけんどぉ。うん。どうだべか?」
地面から顔を上げ、人影らしきものはないかともう一度よく目を凝らしてみた。頭を少しずつ動かして樹木以外の濃い縦長の影を探す。視界の右端で何かが揺れたような気がして視線をそこへ固定する。
「うん。うん。ほんだら、順番が変わっとそうゆう、ああ、そうげぇ。うん」
電話をする声がくぐもったのと同時に影が動くのを見た私は、どうやら男がこちらに背を向けたらしいと判断し、もう一人いると思われる男の姿を探しながらそろそろと身体を浮かせて四つん這いになった。





