獲物
「それでは、今度は仰向けになっていただけますか?」
身体を反転させて仰向けになった私は、己の右手側に膝をついている彼女の顔を見上げてみた。
先ほどは影になってわからなかったが、蝋燭の明かりで見るカナエさんは目鼻立ちのはっきりとした美人で、芸能人やモデルにいてもおかしくないような顔をしている。おそらく歳は私と同年代か、少し下の二十代半ばといったところか。
カナエさんは「失礼いたしまーす」と言って私の右腕を取ると二の腕のほうから揉みだした。
左手に持ったスマホの画面を見ると、あと五分ほどで十一時半になろうとしていた。もう少しゆっくりやってもらいたい気持ちはあるものの、遅い時間に来てもらっただけでもありがたく、わがままを言って施術を引き延ばすのは何だか申し訳ない。
「クモがたくさんいるんですよ」
「クモ?」
「ええ、クモです。大きな、なんとかっていう」
一体何の話をはじめたのだ。バケモノについて訊ねたはずなのに、いきなり話が神社に飛んだかと思ったら、今度はそこから蜘蛛である。これでは私の求める話をしてくれるかどうかも怪しい。
いや、たしか『八ツ足様』は巨大な蜘蛛のバケモノで、その脚が八不浄なる不埒な輩に変化したのではなかったか。
「間賀津さんのほうにはいなくって、ヤツァーシサマんとこにだけいるんですよ」
カナエさんが指しているのは神社にいる蜘蛛のことらしい。そういえば八角堂の裏で大量の蜘蛛を見た。ということは、あれはこの山では異常な現象ではないのか。
「そのクモ、ふつうは毒を持ってないんですけど、たまぁに毒を持つのが何匹か産まれるみたいなんですね」
タマコが誤って口にしてしまった奴のことだろう。マツナカ巡査はモドキと別種のように言っていたが、もしカナエさんのほうが正しいのなら、突然変異に当たったタマコは本当に不運すぎる。
「それでその毒、あ、携帯ひかってますよ」
言われて左手に持ったままだったスマホを顔の前に翳すと、『助けて』という中村からのメッセージが目に入り、またかと思った私は出かかった溜め息をどうにか押し留めた。だから具体的にどう助けて欲しいのだ。
「どうかされました?」
「え? 何でですか?」
「険しい顔をされてたんで、なにかあったのかなと」
私がネットを使えるのを知っていることは彼女にも黙っておいたほうがいいだろう。カナエさんから宿の人間に伝わる可能性は十分にあるし、ワイファイのパスワードを教えようとしない女将や赤鬼に、私が勝手にネットを使っているのがバレたら何を言われるかわからない。
「ああ、目が悪いんですよ」
「そうですか。では今度は左腕をマッサージするんで、携帯は置いていただけますか?」
そう言ってカナエさんは立ち上がると、足先のほうをまわって私の左側へと移動し、先ほどのように布団の上へ膝をついて正座した。今度は蝋燭を背にしているせいで顔が見えない。
私はスマホを右手に持ち替えて左腕を彼女の前へと差し出しながら、「えっと、毒がなんでしたっけ?」と話の続きを促した。
「クモの毒って、神経に作用するものと、細胞を壊すものの二つがあるって知ってます?」
「あー、いや。神経毒っていうのは聞いたことありますけど」
聞いたことはあるが、その毒がどのような症状を引き起こすのかまでは知らない。神経だから麻痺などの感覚障害だろうか。
「なんのための毒だかわかります?」
「そりゃあ、外敵から身を守るためじゃないですか?」
自衛のための攻撃手段としてはかなり強力な部類だと思う。咬みついて毒液を注入するなど想像するだに悍ましい。
「ええ。それと、エサとなる獲物を動けなくさせるんです」
「ああ、なるほど。じゃあ、もう一つのほうが攻撃用の毒ですか?」
「クモ一匹につき、どちらか一方の毒しか持ってませんよ」
どうやら私は勘違いをしていたようだ。毒蜘蛛一個体で二種類の毒を使いわけているのかと思ってしまっていた。
「それなら、もう一方の毒の役割は?」
「壊死毒は消化を助けるんです」
まさに、その恐ろしい名称と細胞を壊すという作用から推して知るべしである。
「カナエさん、詳しいんですね」
「毒で獲物の身体を内側から溶かすんです」
「そう考えてみると恐ろ」
「どちらも食べるためにやってるんです」
カナエさんは私の言葉を遮ると、「以上でマッサージは終わりです」と言って立ち上がり、「おやすみなさい」と部屋から出て行こうとした。
あまりに急なことで呆気に取られていた私は、慌てて上半身を起こして身体を捩り、去っていくカナエさんの後ろ姿を目で追いかけながら「え? あの、お金は?」と声を掛けた。
支払いもそうだが、話が途中どころかまだバケモノのことにすら触れていない。私は蜘蛛の毒について知りたかったのではないのだ。
「お代金はのちほど、みたま屋さんのほうからいただきますんで」
立ち止まってそう答えたカナエさんに、「あと、バケモノの正体、まだ聞いてないんですけど」と訊ねてみた。このままでは中途半端な感じがして収まりが悪いし、帰るならせめて教えてくれてからにしてもらいたい。
「なぁに言ってるんですかぁ。お話ししたでないですか」
カナエさんは続けて「おやすみなさい」ともう一度言うと、衣擦れの音をさせながら闇の中へと消え、ドアを閉める音を残してさっさと部屋から出ていってしまった。
話していないではないか。彼女が教えてくれたのはバケモノの正体ではなく、蜘蛛が持つ毒の種類である。もし彼女の言葉どおりであるならば、バケモノとは毒蜘蛛を指していることになる。まったく、わざわざバケモノなどと称するから紛らわしいのだ。





