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カナエさん

 左側に並ぶ四つの部屋を通りすぎた突き当たりを右に折れ、さらに奥まで行ったところの右手が男性用トイレで、廊下の終わりが女性用となっている。


 入り口の正面に位置する洗面台に蝋燭を置いてその前に立った私は、本来であれば鏡が掛けられているべき箇所の壁面を一瞥いちべつし、歯ブラシに歯磨き粉を絞り出して口の中へと突っ込んだ。


 刹那、口内に異物を感じて洗面台へ唾とともにそいつを吐き出した。陶器の上を石が転がるような軽く乾いた音がし、私は蝋燭を手に持って排水口を照らしてみた。金属製のゴミ受けに薄橙色うすだいだいいろの小石のようなものがあるのが見える。


 まさかと思って歯磨き粉の残る口内にぐるりと舌を這わせてみると、下顎の右側の歯が一つすっぽりと欠けていることに気がついた。奥歯の一つ手前のやつだ。歯ブラシの先で突いたぐらいでは折れるはずがない。では、なぜ折れた。虫歯で歯根しこんが弱っていたとでもいうのか。


 私はゴミ受けにある己の歯らしきものをまじまじと見つめ、それが折れたのではなく根刮ねこそぎ抜けているのだとわかって眉間に皺を寄せた。


 ますますあり得ないではないか。悪くもない歯が抜けるのはどういう原理だ。それに、まるで痛みを感じないのも変である。ともかく、抜けてしまったものは抜けてしまったのだから、いくら考えたところで何も解決しない。


 歯磨きを中断して口をすすいだ私は、排水口から己の歯を拾い上げて歯ブラシ類と一緒に浴衣のふところへ放り込み、もしかしてずっと血の味がしていたのはこのせいだったのかもしれないなどと考えながら、歩いてきたばかりの廊下をゆるゆると戻った。


 部屋に入るなり急に酔いがまわってきたような頭の痺れと、誰かに背後からし掛かられたようなだるさを身体に感じ、私は布団の上に胡座あぐらをかいて座ると首筋を右手でみながら目を閉じた。


 現金なもので、マッサージをしてもらえると思った途端に、身体が凝りを感じはじめたのかもしれない。来るなら早く来て欲しいものだ。このままではまた眠ってしまう。




「お客様。お客様?」


 身体を揺すられる感覚で薄目を開ける。やはり、また眠ってしまっていたらしい。いくら姿勢を変えようが、もう疲労と眠気の限界であると身体が訴えているのだろう。


「お客様?」


「はい? ええ、起きてます、起きてます。大丈夫です」


 私は再び閉じかけたまぶたを無理やり開いて無意識にそう答え、半目のまま声のした左側へとゆっくり首を傾けた。逆光のせいで影となってしまってはいるが、白衣らしきものを着た女性の姿がぼんやりと目に入った。


「按摩をさせていただきます、カナエと申します。よろしくお願いいたします」


「え? ああ、どうも。こちらこそ、よろしくお願いします」


 顔はよく見えないが声質からは若そうな印象を受ける。それになまりがさほどきつくない。それにしても、ふつう下の名前を名乗るものだろうか。


「どこか凝っていたり、痛かったりするところはありませんか?」


「え、あー、そうですね。首筋ぃ、とあと、太腿ふとももとか、ふくらはぎとか、脚全体というか」


「首筋と脚の全体ですね。かしこまりましたぁ。それでは、お布団の上にうつぶせんなって寝ていただけますか?」


 カナエさんの言葉に身体の向きを反転させつつ、私は「はーい。よろしくお願」まで口に出して「ちょっと待ってもらっていいですか?」とスマホに手を伸ばして充電器から外し、「すいません。それじゃ、よろしくお願いします」ともう一度同じ言葉を繰り返して掛け布団の上に俯せとなった。


「失礼いたしまーす」


「はーい」


「お客様は、どちらのかたですか?」


 言いながらカナエさんの両手が私の両肩を掴み、大きな動作で肉を慣らすように軽い揉みほぐしにかかったのを感じた。


「僕ですか? 出身は茨城なんですけど、今は東京に住んでて」


「いえいえ。そうでなくって。覚悟をしてきた方なのか、そうでない方なのかってことですよ」


「覚悟? えっと、なにが、なんの覚悟ですか?」


 この按摩の女性は何を言い出したのだ。覚悟をしてきたというのは、集落で電気を使えないことを言っているのか。もしくは、山道を長い時間かけて歩かされる羽目になったことを訊いているのだろうか。


「んでもまあ、わざわざ山を越えていらしったんですから、そういうことですよね」


 カナエさんの指が首筋を強く摘むようにするのを感じた私は、目を閉じて顔面を枕に押しつけ、その指先がかける圧の心地よさにうなり声を上げた。わざわざではなく、成り行きでこうなっただけである。


 首筋から再び肩へとカナエさんの手が移動し、先ほどよりも強い力で揉まれながら次第に息苦しさを感じはじめた私は、呼吸がしやすいよう顔を左へと向けて気道を確保した。


「そんなんじゃないですよ。覚悟もなにも、こんなに歩かされるなんて思いもしませんでしたし」


「んでも、名残なごり惜しいんでないですか?」


「いやいやいや、今日着いたばかりでまだ何も見てないんで、名残を惜しむようなものはないですよ。あ、山歩きのつらさのことですか?」


 肩から背中へとカナエさんの手が動いていき、腰の辺りで止まって圧力がかけられ、私は「あー、腰も結構やられてるみたいです」と快感のうめき声を漏らした。疲れが溜まっているのは肩や脚だけではないようだ。


「カナエさんは、この集落の生まれですか?」


「私ですか?」


「まさか、村から出たことない、なんて言いませんよね?」


 女将と比べてカナエさんはずいぶん若い人のはずだ。おそらく私と同年代か、もしかすると年下の可能性だってある。こう言ってはなんだが、こんな何もなさそうな辺鄙へんぴな村に、いくらでも外部の情報を得られる若者たちがいつまでも留まっているとは考えにくい。


「お客様は、村から出られたことありますか?」

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