中村
冷房が効いているわけだし、そのうち空気が入れ替わって匂いも消えるだろうと考えたところで、この酢酸臭が空調からも漂ってきていることを思い出した。この匂いで目が覚めたのだ。ドアが開いていたからではない。
調理場に行ったことを隠そうとするあまり、女将に匂いについて訊ねようという考えが頭から完全に抜け落ちていた。
それでも、一晩中この異臭に付き合わされることはないだろう。おそらく調理が終わって数時間もすれば匂いも消えるはずである。わざわざ女将に言いに行くまでもない。下手にうろつくと先ほどのように不審がられるのがオチだ。
布団の上に放ったスマホの画面が光り、どうせまた中村からのショートメッセージだろうと思いつつ私は腕を伸ばした。
『村はヤバイです』
私はその文字列を見て何かの誤変換なのではないかと考えてみた。一見『村は』は『むらは』と読めそうだが、『そんは』ということはないだろうか。
これが『中』という文字が抜けていて『中村はヤバイです』ならばふざけているが、『中村はハイです』の誤字というのもありうる。もしくは、自分の危機的状況を訴えている可能性も否定できない。
そのまま『村はヤバイです』の場合はどうなる。
村の何がヤバイというのだ。中村は会社の先輩に当たるが、ここは私が人生の先輩として倫理観というものを少々説いてやらねばなるまい。
たしかに、かむらた山の住民の言動には看過できない部分が多々ありはするものの、都会で生活する我々と考え方が違うからといって、いち社会人がヤバイなどという掴みどころのない表現を用いて、村という集合体を十把一絡げに揶揄するのは如何なものだろう。
そもそもこれは中村がいる集落を指しているのか、それとも私がいるこの集落のことなのか。もしや、中村もこの集落内のどこか、または私と同じくこのみたま屋内にいて、ヤバイと抽象的な表現を使わざるをえない状況に陥っているのかもしれない。
こう言っては失礼だが、出された夕食だってヤバイ部類に入ると私は思う。味の好みは人それぞれでも、あれでは苦情が来てもおかしくはないし、その上で改善していないのだとしたら宿側の感覚は十分にヤバイ。
いずれにせよ、依然として中村がどの程度の助けを求めているのかはわからない。通報しろと助言してもなお、まだ私にメッセージを送ってくるのはどういうわけなのだ。だいたい、送るにしても私ではなくカッポギ氏が適当ではないか。
私はそこで、中村がカッポギ氏のスマホも所持していることを思い出した。近くにいるのがわかっていて、連絡を取れる知り合いが私だけということなのだろう。だがそれでも、危険な状況にあるらしき中村がなぜ警察に助けを求めないのか、という疑問に戻ってきてしまう。
待て待て、単純に考えてヤバイには良いという意味もある。ならば、『助けて』も逆の意味合いかもしれない。
実際のところ中村は祭りを楽しんでおり、『村はヤバイです』は『は』が余分で『村ヤバイです』が正しく、『助けて』もそのままの意味ではなく『楽しすぎる。助けて』辺りを略したものとは考えられないだろうか。
並んでいる中村からのメッセージをよくよく見てみれば、祭りの会場で私を探しつつ実況報告しているようにも思える。
はじめが『どこですか?』で、『ヤバイです』『何かいる』『助けて』『中村です助けてください』『イタズラないですここヤバイ』『せまいとこ』『声がでない』で、最後が届いたばかりの『村はヤバイです』だ。
中村が祭りの会場にいるのだとすると、先ほどの『何かいる』も危険な動物などではなく、儀式の演舞などで奇妙な格好に扮した演者でも見たのだろう。
祭りを見て興奮状態にある中村が作った文だと思えば、『イタズラないですここヤバイ』という不完全な形になったのもわからなくはない。
続く『せまいとこ』は人集りに圧迫されているのを表しており、『声がでない』あるいは『声がだせない』のはそのせいであるとも考えられる。
同僚が助けを求めているなどと悲観的な考えに傾いてしまうのは、村民の態度が冷たいのと単純に明かりが乏しくて視界が暗いせいだろう。通報しろなどという見当違いなメッセージを送ってしまったことが恥ずかしい。
おかしな返信をしてしまったと気まずい思いが広がりはじめた私は、『さっきの返信はナシです。お祭り楽しんでください。疲れてるのでもう寝ます。おやすみなさい』と打ち、スマホを充電器に繋ぎなおして布団の上で仰向けに寝転がった。
これではいつまで経っても気が休まらない。中村も野暮な男だ。祭りを一緒に見ようとしていたカッポギ氏がいないからといって、代わりに私と楽しさを分かち合おうとするのは控えてもらいたい。私と中村とではノリが違う。お互いの趣味嗜好を理解して領分を弁えるのが配慮というものだ。
私は大の字に四肢を広げて身体を伸ばし、目を閉じて「うー」と唸ってから緊張を解いて瞼を開き、木目が薄っすらと見える暗い天井をぼうっと眺めながら、部分的に聴こえた赤鬼と女将の話を思い出そうとした。
家畜に餌をやっただか逃げた個体が戻ってきただかの話ではなかったか。そうではない。赤鬼がふたりと数えていたような気がしたのだ。訛りがあるのではっきりしないが、二体をふたたいやふたいなどと特殊な言い方をしたのを聴き間違えただけかもしれない。
本当にそうだろうか。
思い返してみると、赤鬼の溜め息が聴こえた辺りで話題が変わったような気もする。家畜の話があれを区切りに終わっていたのだとして、それ以降に口にした「あと二人か?」は、今夜だか祭りの期間中だかに来客する予定の残りの人数だとしたらどうだ。
赤鬼の厄介そうな口ぶりから考えるに、明日ではなく今夜の遅い時間に到着予定の客なのではないか。もしそうであれば、仕事がいつまでも終わらないことに苛立ち、ついつい悪態を吐いてしまう赤鬼の気持ちもわからないでもない。そこに加えて祭りの準備があるのだからなおさらだ。
このままでは按摩が来る前に眠ってしまうかもしれないと思い、私は布団から引き剥がすようにして無理やり上半身を起こし、背中をまるめた姿勢でわざとらしく声に出して大きな溜め息を吐いた。
マッサージをしてもらっているあいだに眠ってしまってもいいように、今のうちに歯磨きに行っておいたほうがいいだろう。それに動けば多少は眠気覚ましになる。
持参した歯ブラシと歯磨き粉を右手に、火を移した予備の蝋燭を左手にとそれぞれ持った私は、梅雨入りのようなじめじめとした蒸し暑い空気が充満する暗い廊下へと出た。





