差出人
空調が効きすぎているせいなのか、肌寒さを感じた私は浴衣の袖から出ている両方の前腕を胸の前で摩りながら、こちらに背を向けている女将に「え? 持ってきた水を飲みましたよ」と答えを返した。
「他になんが飲まれましだ?」
「他にですか?」
質問の意図が見えない。
「あぁ、山道に湧いてた水を飲んだんですけど、なんか毒入りだったらしくて」
「そんだげですか?」
毒入りの水を飲んだと言ったのに、それだけとはずいぶんと素っ気ない反応ではないか。宿に着いたときに私を労ってくれた女将の言葉とはとても思えない。
「そんだげですか?」
詰問するような口調で同じ質問を繰り返す女将に気圧されつつ、「えっと、ある方のお宅でお茶をいただきましたよ」と答えると、衣擦れの音がして「誰に?」と鋭い声が飛んできた。
「誰って、あの、ご本人から伺ったわけでは」
「誰にもらっだ」
女将のこれまでとは明らかに異なるぞんざいな口のきき方に驚き、私は「ひふ」と詰まりながらも「おそらくですけど」と断りの言葉を挟み、「一二三と家の表札には」とだけ伝えた。
どこで何を飲もうと私の勝手である。女将に追求される謂れはない。
答えたにも関わらず女将からの反応はなく、蝋燭の明かりに照らし出されている着物の衽の部分もこちらを向いたままなため、もしや顔を凝視されているのではないかと思った私は、何やら急に落ち着かない気分になってきた。
何事かを思案しているのか、それとも言葉の真偽を私の表情から読み取ろうとでもしているのか、女将が話し出そうとする気配は感じられない。彼女の言っていたことが本当であれば、近くに明かりがあるこの状態では私の顔は見えていないはずである。
沈黙に耐えられなくなった私が「あの、それが何か」と口を開き、問題でもと続けようとしたところで「お客さん」と女将が声を上げた。
「その器、そういう使い方すんの、よしていだだけますか?」
私は女将が言っているのが燭台代わりに使っている小鉢のことだと気づき、反射的に頭を振ってテーブルの上へと視線を走らせ、「あっ、すいません」と謝罪の言葉とともに顔を上げたのだが、先ほどまでそこに立っていたはずの彼女の姿はすでに煙のように消えてしまっていた。
すぐに女将が戻ってくるとはわかっていても、闇に紛れて得体の知れないものが入り込んでくるようで不安になった私は、開けっ放しになっていた部屋のドアを閉めてからテーブルの前に座り、最前のやり取りを思い出して彼女の質問の意図について考えを巡らせはじめた。
女将は一体何を確認したかったのだろうか。はじめは私が飲んだものを知りたがっていたようにも思えたのだが、どちらかといえば誰がそれを振る舞ったのかということのほうをより重要視していた気がする。
毒水を飲んだと私が言った時点での女将の反応は消極的であったのに対し、繰り返された言葉には、知りたいことはそれではないという思いが強く滲んでいた。あの問い詰めるような言い方は明らかに尋常ではない。
女将が沈黙したのは私が茶をもらったと答えて一二三氏の名前を出したあと。ならば、やはり彼女が知りたかったのは茶の提供者ということになる。
茶で私をもてなしてくれた一二三氏が何だというのだ。
馬鹿げていると思いはするものの、可能性として考えられるのは、一二三氏が村八分などの前時代的な制裁を集落から受けており、私がそんな人物と関わっただけでなく施しまで受けたことが気に入らなかった、といったあたりだろうか。
奇妙なのはそれだけではない。
どうやって女将は私が何か特別なものを飲んだことを察知できたのか、という点である。そもそも、何か飲んだかという質問からしておかしいのだ。いくら木陰が多い場所とはいえ真夏の山を歩きまわっているのだから、何かしらの飲み物で水分補給をするのは当たり前ではないか。
毒水のせいで私の顔色が灰色だか土気色だかに変わっているにしても、いくら夜目がきこうと提灯や蝋燭の明かりごときでは、さすがに色味まで窺い知ることはできないだろう。つまり、あれは私の変じた顔色を見ての質問ではないということになる。
では、なぜあのようなことを訊いてきたのだ。女将の単なる気まぐれだったのだろうか。どうも腑に落ちない。何かを見落としているような気がする。
なにやらすっきりしないが、疲れた頭では明確な答えが出そうにないと判断した私は考えるのをやめ、充電はどうなっただろうとコンセント付近に転がっているスマホへと手を伸ばした。
画面を確認して数件のショートメッセージが届いていることに気がつき、表示されている文言を見るなり私は眉間に皺を寄せた。
新しいメッセージが上から順に『助けて』『何かいる』『ヤバイです』『どこですか?』と並んでおり、もっとも古いのが十分前で最新のものでも五分前となっている。ちょうど調理場へ行って部屋を空けていたあいだに届いたらしい。
差出人の名前ではなく番号が表示されているので、アドレス帳に登録されていない人物からということになる。
もしかしたら番号を変えた友人の悪戯かもしれない。だとすると、季節がら怖がらせてやろうという魂胆なのだろう。よく見れば、並んでいるのはスマホを使ったホラー系の創作物に出てきそうな陳腐なセリフばかりである。
それはそうと、ワイファイは使えなくとも電話回線は生きているようだ。これでもうパスワードを聞き出せなくても問題はない。
充電が五十パーセントを超えているのを確認した私は、ショートメッセージの差出人に『誰だか知らないが、悪ふざけはよしてくれ』と返信してスマホを放り投げ、両腕を突き上げて思いっきり伸びをしてから畳の上へと仰向けに寝転がり、このまま眠ってしまっても構うものかと静かに両目を閉じた。





