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 信じがたいほどに味付けの薄い煮物をねちねちと咀嚼そしゃくしていた私は、もしかしたらこれは流行はやりのヴィーガンというやつで、動物性の素材を使わない料理なのではないだろうかと思い至った。誰も肉料理が出るとは言っていない。


 ともかく腹は減っているので何も食べないよりはマシかと、味のない煮物を口にしては塩辛いだけの味噌汁で調和をはかり、麦混じりの白飯を頬張ってはビールで流し込んだ。


 闇を見つめながら独りでする食事ほどわびしいものはない。火を使えるようになった頃の独身男性たちはみな、夜毎よごとこのような気分と戦っていたのだろうか。


 気持ちが押し潰されそうになった私は、充電の進捗しんちょく具合はどうだろうかと、座ったまま腕を伸ばしてスマホのバッテリー残量を確認した。まだ二十パーセント以下である。使えなくもないが、せめて半分は充電されていないと何をするにしても心許こころもとない。


 汁物ばかりを口にしたせいか、私は急に尿意をもよおし、箸を置いて立ち上がろうとしたところで動きを止め、女将からトイレの場所を聞いていないことに気がついた。だからといって、いつ来るとも知れない彼女を待つ余裕はすでにない。


 洗濯物を増やすわけにはいかないと思い、たいして魅力的でもない食事を中断して立ち上がった私は、提灯と鍵だけを手にしてトイレを探すために部屋を出た。


 トイレを入り口付近に設置する宿もないだろうと、玄関へと続く右手の廊下ではなく、奥へと伸びているらしい左手の廊下を進む。丈夫な木材なのか床のきしむ音がしない。


 客室と思われるドアを二つ通りすぎた私は、涼やかな虫のに混じり、獣のようなくぐもった低いうなり声を聴いた気がして足を止めた。


 他の宿泊客がいびきでもかいているのだろうか。静かすぎて忘れてしまいがちだが、私の他に十五人もの客がいるのだから、一人ぐらいは祭りを見ずに部屋で寝ていたとしても何ら不思議ではない。今が何時だろうと私だって食事が終わったらさっさと寝るつもりである。


 たとえ鼾といえども盗み聴きの趣味はないと、再び歩き出そうとしたところで今度は壁を叩くような鈍い音が間を空けて二回し、続けて畳の上で何か重い物を引きっているような擦過音が聴こえてきた。寝相ねぞうが悪くて身体を壁に打ち付けたのだろうか。


 隣の部屋でなくてよかった。壁も薄いようだし、これを夜通しやられたのではうるさくて眠れない。


 するとまた、壁を叩く鈍い音が聴こえてきた。先ほどと同じような間隔を空けて二回。


 悪い寝相と規則正しさは同居できるものなのだろうかなどと考えていた私は、今度はたしかに大型犬の唸り声のような低い音を耳にし、もしかしたらこれは誰かの救難信号なのではないかと身を強張こわばらせた。喉を詰まらせたり発作を起こしたりしていて声を出せないのかもしれない。


 だからといって、いきなり飛び込んでいって違っていたら気まずい。見ず知らずの人の部屋をノックするのも気が引ける。


 たいていの宿では部屋から帳場へ繋がる内線が引かれているものだが、暗くて見つけられないのだろうか。あるいは私の膀胱ぼうこうと同じく、探す余裕もない逼迫ひっぱくした状況ということも考えられる。


 受話器を上げただけで繋がるタイプであれば、声は出せなくとも何度か上げ下げすれば、異常を察した従業員が駆けつけてくれる可能性はある。一刻を争う状況かもしれないが、それは私も同じであるし、軽率な行動に出ることはできない。


 下腹に力を入れて尿意を我慢しながら、まずは音の出所を探そうと耳を澄ませてみると、虫の声を残して急に唸り声が消えてしまった。壁を叩く音も聴こえない。


 しばらく待ってみたが音も唸り声も再開されず、膀胱の限界が近づきつつあることを知った私は、おそらく有事ではなかったのだろうと自分に都合のいい判断をし、半ば急ぎ足でその場を離れた。




 あれは唸り声などではなく、牛蛙うしがえるの鳴き声だったのではないだろうか。


 私は廊下の突き当たりを右に折れた奥まったところでトイレを見つけ、用を足しながら天井と思われるあたりに視線を投げつつ、先ほど聴こえた音の発生源に考えを巡らせていた。


 疲れて神経が過敏になっているのか、それとも暗闇を警戒する動物としての本能がそうさせるのか、なぜか現実的ではない悲観的な考えばかりが先に浮かんできてしまう。


 考えてみれば、発作が出るような持病のある人間が、たかが祭りを見るためだけにアップダウンの激しいかむらた山を越えて、わざわざこんな山奥までやってくるはずがないのだ。田んぼだって近くにあるし、状況的にも牛蛙の鳴き声だと考えるほうがふつうである。


 用を足し終えて洗面台で手を洗いながら、そういえばずいぶん長いこと鏡を見てないなと思い、私は顔を上げて正面の壁へと目をやった。何も反射していないように見えるのは明かりが届いていないからかと、床に置いた提灯を拾って壁面を照らしてみた。


 鏡がない。左隣の洗面台の正面も照らしてみたが、あるのはタイル張りの壁だけである。温泉の浴場にも脱衣室にも鏡はなかった。悪戯いたずらをされないように外しているのだろうか。ないならないでいい。見たところで二十代後半の疲れた男の顔があるだけだ。


 無意識に右の手のひらで口元をこすった私は、人差し指の側面にぬるっとした温かいものを感じ、鼻血かと思って離した手を提灯の明かりにさらしてみた。黒っぽいものが指にべっとりとついている。


 私は「あー、なんだよ」と小声で独り言を漏らし、右手に三つ並んだ個室のうちもっとも奥にあるものの前へ行き、誰もいないだろうと高をくくってノックもせずにドアを押し開けようとした。


 思わぬ抵抗があってドアが開かず、引くタイプだったかと把手とってを探したがない。誰かが入っている。


 今さらながらノックをし、「すいませんでした。誰か入ってると思わなくて」と声を掛けてみたが返事はなかった。個室の隙間からも明かりは漏れていないので、ただ故障していて使えないだけかもしれない。


 もし誰かが入っているのなら邪魔をしては悪いと、あまり深く考えもせず右隣の個室へ入った私は、適当に千切ったトイレットペーパーを両方の鼻の穴へと突っ込み、血で汚れた手をもう一度洗ってからトイレを出た。

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