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医者

 小瓶から二粒の丸薬を取り出して口の中へと放り込み、グラスの半分くらいまで注いだビールを一息にあおってきっ腹へ流し込んだ。喉越しの良さよりも炭酸の刺激による口内の痛みのほうが勝り、ビール自体の味まではよくわからなかった。


「あの、それで女将さん。またちょっとお訊ねしたいんですけど」


「へえ、なんでございましょう?」


「かむらた山の登山道入り口にバスの停留所がありますよね? そこに来るバスの時間を知りたいんですけど」


 停留所の時刻表は塗装が剥げていて読めなかった。かぢな駅で確認したときはたしか一日に二本はあったように思う。その二本とも午後だった気もするが、そういえばあれは行きのバスの到着時刻ではなかったか。


「さぁ、わだぐしにはわがりがねますねぇ」


「え? だって、街へ行かれるときとか、ああ、漁火いさりびのほうを使ってるってことですか? そっちのほうが近いとか」


「いーえー。違いますよぉ。山がら下りだこどないがらぁ、わがんないんですよぉ」


 この令和のご時世にそんな前時代的な人間がいるものだろうか。山から下りたことがないというのであれば、買い物はもとより外食や旅行の経験もないということになる。それでは医者にかかる場合はどうするのだ。


「そんなまさか。山から出たことがないって、冗談ですよね? だって、食料とか生活用品とか、ここで手に入るんですか?」


「ああ、買い出しはうぢのひどが行っだりぃ、月に何度かですけどぉ、商店しょうでんのトラッグが色んなもん売りにちがぐまで来るんですよぉ」


「なら、医者はどうです? 今まで一度もかかったことないんですか?」


「お医者の先生せんせなら村に一人ひどりおりますがらぁ。みぃんなお世話になっでますわぁ」


 たとえ医者がいても十分な医療設備はないだろう。かむらた山での大きな怪我は命に関わると思ったほうがよさそうだ。さっきは田んぼに落ちたくらいで済んで本当によかった。


「ええと、それじゃあ、あの、ご主人ですか? ご主人にバスの時間を確認してもらってもいいですか?」


「ええ、かしごまりましだぁ。でもうぢのひど、さっぎ出がげっちまったんですよねぇ。しだら、戻っできだら聞いとぎますねぇ」


 女将が「他にご用がなげればぁ、わだぐしはこれで」と言って立ち上がる気配を感じた私は、「あの、これ、洗濯物」と汚れた衣類を入れたビニール袋を慌てて差し出し、「それから、ワイファイのパスワードを教えてもらえますか?」と追いすがった。


「はい、お預がりいだしますぅ。でも、パスワードですか? それはうぢのひどしが知らないんでぇ、少々お待ぢいだだげますがぁ?」


 待てないとも言えないので、「わかりました。でも、できれば今夜中にお願いします」と軽めに念を押すに留めておいた。とくに調べものがあるわけでもないのだが、ネットが使えるというだけで心理的な負担はかなり軽減される。


「それぢゃあ、失礼しづれいいだしますぅ」


 女将が部屋を出ていってドアが閉まる音が聴こえてから、私はまたもや電気のことを訊ね忘れたことに気がついた。次に来たときにでも訊けばいいか。


 グラスに注ぎ足したビールを飲み干した私は、提灯がテーブルに乗らないので予備の蝋燭に火をともし、小鉢の料理を適当な皿に移し替えて空いた容器を燭台の代わりとして使うことにした。行儀が良いとは言えないが、よくわからないものを口に入れたくはない。


 私は箸を伸ばす前に、どんなものが皿に盛り付けられているのか確認しようと、溶けた蝋を垂らさないよう注意を払いつつ、蝋燭を傾けて卓上の料理を照らしてみた。


 左手前に白米、その奥が大皿にのったサラダと沢庵たくあん漬けらしき扇形おうぎがたの物体、隣には煮物と思しき大きな塊が入った深皿があり、あとは右の手元に黒っぽいものが浮いた汁椀が置かれている。肉や魚といった主菜と呼べるものが見当たらないのだが、もしや煮物に見えるこれがそうなのだろうか。


 蝋燭の小鉢をテーブルのすみに置いた私は、ビールを飲んでおきながらも、いつもの癖で口内を湿らそうと汁椀に手を伸ばした。ほのかな磯の香りでワカメの味噌汁だろうと判断し、液体を少しだけ口に含んでしばし味わってから、出汁だしを入れ忘れたような旨味も深みもないただしょっぱいだけのぬるいそれを飲み下した。


 続いて主菜かもしれない薄い色の煮物と思われる塊へ箸をつける。煮た芋のような感触が伝わったせいで私は少しばかりがっかりし、切り分けた欠片かけらは取らず、肉か魚の身でも入っていないかと深皿の中を箸でつつきまわした。どれも似たような色と形をしていてわからない。


 肉の捜索を諦めた私は、野菜だけでも味が染みて美味うまいかもしれないと、切り分けた欠片を口へと運んでみた。山芋のようなねっとりとした食感があるが味がしない。味噌汁と同じく冷めており、こちらも何かが足りないような味である。お世辞にもプロの料理人が作ったとは思えない。


 私は誰も聞いていないのをいいことに盛大に溜め息を吐き、今回の旅行は選択ミスが招いた結果に違いなく、責めるべきは己の無計画さであるとわかって再び大きく息を吐き出した。


 やはり、知らない土地へ何の準備もせずに乗り込むのは性に合っていない。少年漫画の無鉄砲な主人公のような、あるいは気の向くままに放浪する旅人のような、そんな行き当たりばったりでもどうにかなる運の良さは私にはないらしい。


 サラダぐらいはまともだろうとキャベツの千切りを口へ放ると、ドレッシングもソースもかかっていない素材をかした味がした。中村ではないが、私も心のどこかでは雉肉や猪肉ししにくが振る舞われると、浅ましいながらも勝手な期待をしてしまっていたようだ。

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