垂乳根
ドアを閉めて畳敷きに上がり、提灯を持って部屋をぐるりと一周する。四畳半の部屋で調度品は中央に置かれたテーブルだけ。テレビもなければ座椅子も座布団さえもない。
入り口の反対側にあたる面には障子が嵌っており、開けるとすぐ窓となっていたが外には真っ暗な闇があるだけだった。
部屋の隅でコンセントを見つけ、しゃがんで充電器を差し込み、完全に放電したスマホを繋げて電源ボタンを押す。しばらく待ってみると、バッテリー残量が不十分であることを示す赤い色をしたパラメータが画面に表示された。通電はしているのでそのうち使えるようになるだろう。
畳へ適当に腰を下ろし、喉を潤したいとテーブルの上へ提灯を向けた私は、ポットや急須ではなく菓子皿に入った五本の蝋燭を見つけて溜め息を吐いた。
寄りかかる場所を求めてスマホのそばへ這って移動し、近くの壁に背中を預けて再び大きく息を吐き出す。まったく、長い一日だった。温泉に入ったせいで気怠さが増してはいるが、かえってそれが心地良い。温泉も真々白氏の講釈を延々と聴かされたせいで芯から寛げたわけではないのだが。
しかし、そんなことはもうどうでもいい。あとは食事をして寝るだけだ。アルコールはあるだろうか。地酒でも構わないができればビールが飲みたい。炭酸で口内の血の味を洗い流してすっきりさせよう。
それにしても、とんだ休日になってしまったものだ。都会の喧騒や人混みから逃れられたのはいいが、まさかこんなへとへとになるまで歩かされるとは思いもしなかった。
一日ゆっくり休んだとしても下山のことがある。ならば、連休の中日を捨てるつもりで明日かむらた山を下り、最終日を家でごろごろと怠惰に過ごすのが得策ではないだろうか。そのほうが翌日の仕事に疲れを持ち越さずに済む。
やはり二泊するのはやめて早い時間に宿を出ることにした私は、女将が来たらバスの時間を訊ねてみようと思い、連休の初日から仕事に戻ったときのことばかり考えている自分に嫌気が差した。会社や同僚に迷惑をかけてはいけないという、いつのまにか刷り込まれてしまった社会人としての規範が根底にあるせいだろう。
私はそこで中村の顔が頭に浮かび、あの憐れな同僚のことを女将に訊ねてみようかと思いなおした。いや、中村からすれば余計なお世話かもしれない。道中で一緒にはなったが、彼は彼でカッポギ氏という友人とプライベートで来ているのだ。他人の行動を詮索するのは私の趣味ではない。
おそらく中村はもう正気に戻っているのではないだろうか。いつまでも薬物の影響下にあるとも思えない。中村だって成人した大人なのだ。あれこれ私が世話を焼かずとも、たいていのことは自分一人で対処できるはずである。
それにしても静かだ。
外から虫の鳴き声はするものの、宿内は他にも客がいるとは思えないほど何の物音も聴こえない。宿泊者全員、燃えている櫓でも見に行っているのだろうか。あれも何とかいう儀式の一つだと真々白氏が言っていたし、祭りが目的で来ているのならそれを差し置いて他にすることはない。
櫓の炎から肉の焼ける香りを思い出し、海鮮ではなく肉料理が出ることを祈ろうとしたところでドアが三回ノックされ、「失礼いだしますぅ。お食事お持ぢいだしましだぁ」という女将の声が聴こえてきた。
私が「どうぞ、開いてます」と返事をしようとする前にドアが開かれる音がし、食器の音を立てながら「お待だせいだしましだぁ」という声とともに、女将と思われる人物が部屋に入ってくるのが薄明かりの中に見えた。
「テーブルの上、片付げさせでいだだぎますねぇ」
そう言って菓子皿を畳に下ろした女将は、「この辺で採れだもんばっかだがらぁ、都会のひどのおくぢに合うがぁ、あれなんですけどねぇ」と、てきぱきと手を動かしてテーブルに食器を並べはじめた。
その様子をぼんやりと眺めながら、肉料理はあるだろうかなどと考えていると、 「おビールお持ぢしましだけんどぉ、飲まれるかだですか?」と女将に訊ねられた。
「え? ええ、実はちょうど頼もうかと思っていて」
「そうですかぁ。以心伝心ですねぇ」
女将はうふふと笑いを漏らし、「ああ、あど、痛み止めの薬ぃ、お持ぢいだしましだよぉ」と言って小瓶をテーブルに置いた。暗いのではっきりしないが、黒っぽい丸薬が入っているように見える。
「漢方なんでぇ、お酒どあわせで飲まれでも、だぁいじょぶですがらぁ」
「ありがとうございます。助かります」
それならば少しでも早く効果を出すためにもさっさと飲んでしまおうと思い、テーブルのそばまで這っていってビールの小瓶とグラスを手に取った私は、どこの銘柄だろうかと中身を注ぎながら貼られたラベルに目を細めてみた。筆文字で『たらちね』と記されている。聞いたことがないが、きっと地ビールなのだろう。





