梟
果たして宿までの帰り道がわかるだろうかと不安がありはしたものの、どうやら温泉に行くのに通ったのはみたま屋の敷地内だったらしく、何度か側溝に落ちそうになっただけで無事に玄関らしき引き戸の前まで戻ってくることができた。
引き戸を開けるなり提灯の明かりに着物の帯が照らし出され、私はもう少しで正面に立つ女性らしき人物に体当たりしてしまうところだった。
「おがえりなさいましぃ」
「女将さんですか? ただいま戻りました」
「お部屋とお食事のご用意がでぎでおりますぅ」
私が礼を言って中へ入ろうとすると、女将に「お客さん、お履物は脱いでくださいましねぇ」と温泉のときと同じく釘を刺されてしまった。常識のない人間だとでも思われているのだろうか。私だって土足で人の家に上がるほど育ちが悪いわけではない。
「まあまあ、さっぱりしでぇ。いい香りがしますわぁ」
ボディーソープやシャンプーの類は使っていないのだが何か匂うのだろうか。私はそこで温泉に入る前からずっと口で呼吸をしていたことに気づき、しばらくぶりに鼻から空気を吸い込んでみた。
臭み消しの強烈な消毒臭が鼻腔に刺さり、自分の身体からの匂いだというのに、私は眉間に皺を寄せて思わず「うっ」と呻き声を漏らしていた。ちょっと湯船に浸かったぐらいで肌にここまで匂いがうつるものだろうか。
「あら、やぁっぱりお身体に合わないんでないですか?」
「いや、合わないというより、正直あまり好きな香りではないというか」
式台に腰掛けて登山靴を脱ぎながら、「だいじょぶですよぉ。すぐに慣れますがらぁ」という女将の言葉を背中で受けた私は、そう簡単に慣れるような生易しい匂いではないと思いつつも「はあ、そうですか」とどうとでも解釈できる無難な答えを返した。
「明がりはわだぐしがお持ぢしますねぇ」
女将の声が背後でするなり、左隣に置いていた提灯が私の顔の高さまで持ち上げられた。振り向こうとして提灯で視界を阻まれ、「ちょっと、熱いですって」と私が控えめに抗議の声を上げると、女将は「どうぞスリッパをお使いくださいましねぇ」とまるで関係のないことを言ってなおも明かりを押しつけてきた。
「あの、やめてもらえませんか?」
「どんなお顔しでんのがなど思っでよぉ。イゲメンだっだらどうすっぺど思っでぇ。お客さん、けっごう男前ですねぇ」
「女将さん、夜目がきくんでしょうし、そんなことしなくても見えるんじゃないんですか?」
年齢も顔も容姿もわからない女将の軽口をいなしつつ、私は皮肉の意味も込めてそう訊ねてみた。
「そんなフグロウでもあるまいし、明がりが近ぐにあっだら見えないですよぉ」
それが常人である。赤鬼も女将も超人的に目が良いのかとも思ったのだがそうではないらしい。もしかしたら赤鬼は私を案内する道中、わざと明かりを見ないようにしていたのかもしれない。考えてみれば、私は篝火を数えたり櫓の炎に目を奪われたりしていた。
立ち上がった私は言われたようにスリッパに足を通し、提灯の明かりを目で追いながら、女将がいると思われる位置の右側に立って廊下を進んだ。空調もつけず換気もしていないのか、蒸し暑い空気が充満している。
「お食事はすぐ、お部屋のほうへお運びいだしますねぇ」
「ありがとうございます。あの、それでですね。こちらでランドリーのサービスとかやってませんか?」
着てきた服が思った以上に汚れていただけでなく、デイパックも泥を吸っていて替えの下着類まで濡れてしまっていた。かろうじて無事だったのはジーパンの右のポケットに入れていたスマホだけである。
「ああ、お召しもんですかぁ? お出しいだだげればぁ、わだぐしのほうでお洗濯いだしますよぉ」
「助かります。なんせ替えの服を持ってきていないもので」
「気ぃにしなぐでもぉ、だぁいじょぶですよぉ」
「あとそれと、炎症止めの薬ってありませんか?」
浴場で何度もうがいをしたにも関わらず、一向に消えてくれない口内の血の味をどうにかしたい。やはり一二三氏の茶が原因だろう。あんな雑巾の絞り汁に似た匂いの液体が身体に良いはずがないのだ。
「炎症止めですが? どごがお怪我でもなさったんですか?」
「怪我というか、口の中が酷く荒れてしまって」
「くぢんながですかぁ? んなら、軟膏ぢゃあ駄ぁ目ですねぇ。うぢのひどに訊いでみるんで、探しであどでお持ちいだしますねぇ」
「色々とお手数をおかけして、本当に申し訳ないです」
他に訊いておくことはなかっただろうかと考えていると、提灯の動きが止まって「こぢらのお部屋でございますぅ」という女将の声がし、続けて金属のぶつかり合う音とドアノブがまわされる音が聴こえて涼しい風が流れ出てきた。廊下は地獄のように暑いが、ありがたいことに部屋には空調があるようだ。
「畳んなっでおりますんでぇ、スリッパはこぢらで脱いでいだだげますが?」
「わかりました。あの、それと、電気って使ってはいけないんですか?」
「あら? お話しいだしませんでしだぁ?」
女将から詳しく聞かされた話といえば、今や己の身体からも匂うようになってしまった、胸をむかつかせる香りを放つ臭み消しなる植物のことだけである。
「ええ、申し訳ないんですげどもぉ、電気のご使用はご遠慮ねがっでおりますぅ」
「その、スマホの充電をしたいんですけど、それも駄目ですか?」
「充電ですか? ライドさえ点げでもらわなげればぁ、しでもらっでもけっごうですよぉ」
どうして電気を使った照明を点けてはいけないのかと訊こうとする前に、女将は「それでは、すぐにお食事のほう、お持ぢいだしますねぇ」と言いながら、私に提灯と部屋の鍵を押しつけるなりさっさと暗がりの中へと消えてしまった。





