主人
みだまやの玄関に着いたらしいのはわかっても、屋内と思われる場所にもまったく明かりがないせいで、建物の外観もそうだが内装もどうなっているのかまるで見当がつかない。こうなると本当に宿に案内されたのかさえも疑わしく思えてくる。
「おがえんなさい」
突然、暗闇のなかから女性の高い声がしたことに驚き、私はもう少しで悲鳴を上げるところだった。衣擦れの音や歩いてくる気配はなかったが、はじめからその場にいたのだろうか。
「あら、そぢらのかだは?」
「都会の鳥目だ」
そんな紹介の仕方をしなくとも単に客と言えばいいではないか。あとで主人だか女将だかに使用人の態度がなっていないと文句を言ってやらねばなるまい。声の高さや口調からだけでは判断できないが、もしや目の前にいると思われる女性が女将だったりするのだろうか。
「こんばんは。一泊だけですが、お世話になります」
姿の見えない相手に対して挨拶をするというのは何やら妙な具合である。
「どうもこんばんわぁ。こんな遠いとごまで、よぉぐいらっしゃいましだねぇ。さぞがしお疲れでしょう」
女性に労いの言葉をかけられたのを合図に、今日一日の疲れがどっと押し寄せたような気がした私は、「ええ、まあ」と答えるとともに思わず軽く溜め息を吐き出してしまっていた。
「あら、どうなすったんです? お召しもんが泥だらげでないですか」
「あぁ、これは、実は田んぼに落ちてしまいまして」
そうは言っても、私には自分の衣服がどれほど汚れているのかさっぱりわからないのだが、この暗闇のなかでも彼女にはしっかりと見えているらしい。いくら田舎育ちで暗がりに目が慣れているとはいえ、彼女も赤鬼も夜目がきくという度合を超えていやしないだろうか。
「あらあら、それは大変でしだねぇ。んなら、まづは温泉に浸がってきだらどうですか? そのあいだにお食事のご用意いだしますがら」
「くっせぇ身体でうぢんなが入っで欲しぐねぇがらよ」
赤鬼に横槍を入れられ、私は両の肩口に鼻先を交互に押しつけて己の匂いを嗅いでみた。汗臭くはあるが言うほどではないように思う。
「まぁだあんだは、そんな言いがだしだら失礼でしょうよぉ」
「うるせぇ。おれんちで勝手なこどさせっが」
「ごめんなさいねぇ。田舎の古いひどだがらぁ、勘弁しでやっでくださいねぇ」
適当に笑って返答を誤魔化した私は、姿の見えない二人のやり取りを聴いているうちに、赤鬼が使用人などではなく『みだまや』の主人であるらしいことがわかってきた。もしそうであれば苦情を伝えるべき相手はもういないということになる。
「それぢゃあさっそぐ、温泉のほうご案内いだし」
「おい、さぎに宿帳書がせろ」
「もう、そんなのあどでいいでしょうよ」
「いいがら書がせろっつうの」
譲らない赤鬼に根負けしたらしく、女性が「まぁったぐ、言い出しだら本当にきがねんだがら」と呆れたように言うのに続き、紙袋をくしゃくしゃに丸めているような乾いた音が聴こえてきた。
何をしているのかと思っていると、小さなマラカスを振っているような音がし、さらに擦過音がして硫黄の匂いが鼻をつくやいなや、火の点いたマッチを持った指先が膝近くの闇にぼうっと浮かび上がった。
橙色に照らされた指先が移動して蝋燭に火が灯り、鋭く息を吐く音とともにマッチが消え、代わりに床の一部が明るくなって畳まれた提灯が光の輪の中に現れた。
提灯の蛇腹が伸ばされていく様子を見ていた私は、先ほどの乾いた音はこれだったのかと思いつつ、室内であれば行燈やランプを使うのが普通ではないかと余計なことまで考えはじめていた。
「すいませんねぇ。うぢのひどがうるさいがら、さぎにこぢらの記入お願いでぎますか?」
蝋燭が細くて炎が小さいせいか、明かりが弱くて女性の顔を確認することができない。
床の上に用紙とペンが差し出され、拾い上げようと腰を屈めて手を伸ばすと、「このまんま、床の上で書いでいだだけますぅ?」と女性が言い、私が頭に思い浮かべた疑問を読みとったかのように「敷き紙がないもんで、すいませんねぇ」と説明を付け加えてきた。
帳場で書かせてもらえないのかとも思ったが、泥塗れの私をここから先へ入れることは赤鬼が許してくれないだろう。
たいして平らでもない床の上で必要事項を記入し、上下の向きを変えて女性がいると思われる場所へ用紙を突き出した私は、紙片の隅に『民宿 みたま屋』と小さく印字されているのを見つけた。
みだま屋ではなくみたま屋か。タマコとマツナカ巡査に続き、これでもう三度目なので何となく予想はしていたことだ。
「恐れ入りますぅ。はぁい、では、温泉のほうご案内いだしますね」
床にあった提灯の明かりが顔の高さに持ち上がり、己の右隣を通過していくのに合わせて身体を反転させた私は、土嚢を背負わされているかのような腰の重みに耐えながらやっとのことで立ち上がった。





