都会人
近くで赤鬼の身動きする音が聴こえやしないかと、私は足を止めて暗闇に耳を澄ませてみた。辺りに虫や蛙の喧しい鳴き声が充満しているせいで、赤鬼の立てる物音どころか気配すらも感じられない。
呼びかけてみてはどうかと口を開いた私は、名前も知らない赤鬼を何と呼べばよいだろうかと考えを巡らせているうちに、大声を出したら火の中へ放り込むぞと脅されたのを思い出した。
「おい、なぁにぼさっとしでんだ」
前方の暗がりから赤鬼の声がして私は色々な意味でほっと胸をなでおろした。大声を出していたら危うく命を落としていたかもしれない。
「どちらにいらっしゃいますか? 暗くて何も見えなくて」
すると赤鬼が大袈裟に溜め息を吐くのがわかり、続けて「っとに鈍臭ぇなぁ」という声が近づいてきた。
「どぉご見でんだ、おめぇ。んな明後日のほう向きゃあがって」
声とともに右胸の辺りを小突かれる感覚があり、「こっぢだっつうの」と赤鬼が言うのが聴こえたが肝心の姿が見えず、私は「こっちって、どっちですか?」と同じ質問を繰り返した。
「ったぐ、手間のかがるやづだな。おら、こっぢだ」
シャツの右の袖をいきなり引っ張られた私は、前につんのめりそうになったせいでつい「ちょっ、あぶなっ!」と大きな声を出してしまい、赤鬼にどやされるかと思って軽く身構えた。
ところが私の予想に反し、赤鬼は先ほどのように脅迫めいたことや文句を言い返してはこず、ただ「これだがら都会もんは」とぶつぶつ独り言を呟いただけだった。機嫌の悪さや怒りが語気に含まれている感じもしない。
一体どういう風の吹きまわしなのかは知らないが、ここへきて急に赤鬼が饒舌になったような気もする。宿に着いたことでようやく私を宿泊客と認めてくれたのか、それとも余所者を案内するという面倒な役割から解放される安堵の気持ちの表れだろうか。
袖を引っ張られながら、赤鬼はどうやって私の居場所がわかったのかふと不思議に思い、どこからか明かりが漏れているのかと背後を振り返ってみた。
もしかしたら櫓の灯がまだ届いていて自分の身体がシルエットとなっているのかとも思ったのだが、ずいぶん遠くに篝火らしき光がいくつか見えるだけで、辺りを照らすような照明は何も見当たらなかった。
「おい、きょろきょろしでっど、まぁだ蹴っづまづいで転げんぞ」
赤鬼の言葉で正面へ向きなおったものの、周囲が真っ暗で何も見えないことに変わりはない。結局どこを向いていようが私にとっては同じだ。
「明かりもないのに、よく見えますね?」
「あぁ? なんだぁ、おめぇ、鳥目が?」
もともと視力は悪いほうではないのだが、夜目がきくらしい赤鬼に言われたのでは認めざるをえない。まず都会ではこれほど暗い場所もないし、どちらかといえば明かりもない暗闇で物が見える赤鬼のほうが異常である。
「鳥目も何も、ふつうこんな真っ暗」
「下り坂んなっでっがらな」
注意を促してきた赤鬼のセリフが意外すぎたせいで、もしや聞き間違いかと思った私は己の耳を疑い、何と答えたものかとつかのま言葉に詰まってしまった。この短時間で見てきた赤鬼の態度から、彼が冷たい人間であると判断したのは早計だったかもしれない。
「え? あっ、ありがとうござ」
「おめぇに転げられで巻ぎ添え食らったら、こっぢも堪んねぇがらよ」
妙に優しいと思ったらそういうことか。簡単に赤鬼への印象を変えそうになった浅はかな自分が恥ずかしい。
ちょっとでもよくされると相手をすぐ信用してしまうきらいがあるのは、決して褒められたことではないと私自身もわかっているし、常日頃から直したいと思っている短所でもある。しかしながら、染みついた性格というやつはなかなか直せる代物ではないのが厄介だ。
足元に意識を向けつつ一歩を踏み出そうとした矢先、赤鬼に注意をされたばかりにも関わらず私は足を踏み外してしまい、踏鞴を踏むようにしてよろけた勢いで何か硬い物体に左肩からぶつかってしまった。
「痛っ! つぅ、あっ、すいません」
反射的に謝ってしまったが、おそらく人ではなく樹木か柱のようなものだったと思われる。少なくとも岩や鉄板の類ではなかった。左腕を動かすと肩に鈍い痛みを感じる。
「言わんこっちゃねぇ」
「そんなこと言われても暗、うっ!」
蜘蛛の巣らしきものが顔にかかったのを左手で払うと、今度は泥を吸って濡れたままの袖がちょうど口元を掠め、私は失礼だと承知しつつも赤鬼がいないと思われる左側を向いて唾を吐き散らした。
「ぺっぺ、ぺっぺ、汚ねぇ野郎だな。うぢの庭は痰壺ぢゃねんだぞ」
「すいません。クモの巣が、というか泥が」
私が説明を試みようとしているあいだに、前の方で引き戸が開かれる乾いた小気味よい音がし、続いて赤鬼が「帰っだぞー」と声を上げるのが聴こえてきた。あたかも自宅へ帰ってきたかのような言い方である。
静まり返った闇のなかで家人の応答を待っていた私は、ライトがあろうがなかろうが自力でここまで辿り着くのは無理だったのではないかと思い、もし赤鬼に会わなかったら今も山中を彷徨っていたかもしれないと考えて身が震えるのを感じた。





