赤鬼
家屋の壁際まで近づくと薪の爆ぜるパチパチという音が聴こえてきた。
私は相変わらず人の声がしないのを奇妙には思いながらも、鼻腔を擽る肉の焼ける匂いに猛烈な空腹感を覚えていた。考えてみれば昼前に電車の中で食べた弁当以来なにも口にしていない。
静かなのはもしかしたら神事の最中なのかもしれないと思い、なるべく足音を立てないよう注意して家屋に近寄った私は、陰から顔だけを覗かせて建物脇の様子をそっと窺ってみた。
ところが、そこには人の姿などひとつもなく、左手前方のちょっとした広場に井形に組まれた薪が燃えており、あとは時代劇に出てきそうな篝火が奥へと伸びる正面の道に沿っていくつか置いてあるだけだった。
建物も私の右隣にある二階建て以外には見当たらない。
これだけの火を焚いておいて誰も近くで見ていないのは非常識である。周囲の木々から離れているからといって、何かの拍子に燃え移らないとも限らない。それとも、ここの家の住人が火の番をしているのだろうか。
誰も見ていないのをいいことに、私は肉の焼ける香ばしい匂いに目を瞑り、くんくんと鼻を鳴らしながらその出所を探ってみた。消毒薬のような刺激臭も一緒に漂っているのが何とも邪魔くさい。
篝火で肉を焼くとは考えられないが、かといってキャンプファイヤーのごとく大きな炎を上げている左側の焚き火を使ったのでは、いくらなんでも火力が強すぎてそれこそ誰かが見張ってでもいなければ簡単に炭となってしまうだろう。
肉のことが気になりはするものの、とりあえずは先ほど山の上から見えた開けた場所を目指そうと思った私は、焚き火のそばを通りすぎざま燃えさかる炎のなかに人影を見たような気がして足を止めた。
どうせ丸太か何かを人影と見間違えたのだろうと再び炎に目をやると、薪の上に黒い物体が横たえられているのが見えた。大きさからして仔牛か豚でも丸焼きにしているといった感じである。
そう思いはじめると現金なもので、熱風が顔面に吹きつけてくるのにも関わらず、私はまるで甘い蜜の香りに誘われる虫のように、肉の焼ける匂いにつられるまま燃え上がる炎へふらふらと近づいていった。
「おーい、そんなに近よったら危ねぇぞぉ」
周りに誰もいないと思っていた私は、背後から突然上がった声に驚いて肩を竦め、あたかも金縛りにでもあったかのように身を強張らせて動きを止めた。
「あんれ? あんだぁ、さっぎの」
その声に振り向くと先ほど雉の処理をしていた男が立っており、私の顔を確認するなり「あぁ、やっぱりあんだがぁ」と言い、続けて「あの活ぎのいいあんちゃんはどうしたぁ? 見づかったのげ?」と中村のことを訊ねてきた。
驚きはしたがそこに知った顔があってほっとした私は、さて、それでは男になんと説明したものかと考えを巡らせた。
見つけたには見つけたけれど、ちょっと目を離した隙にまたどこかへ消えてしまったなどと言おうものなら、下手をすると住民総出で中村の捜索をするという大事にまで発展しかねない。
それともここは適当に誤魔化し、彼は先に宿へ向かったとでも言っておくべきだろうか。嘘をつくことにはなってしまうが、余計な心配や迷惑をかけるよりはマシなように思う。
私が答えに窮して黙っていると、さらに男は「そういやぁ、あれ、なぐなってたっつってたっぺ? なぁ?」とよくわからないことを言いだした。
「え? あの、なんのことですか?」
「あんだ言っでたっぺよ。看板なぐなってるっつって、つぢんとごの。あ?」
どうやら男の言う看板とは、四叉路に立っていたはずの『みだまや』の案内板を指しているらしい。
なくなっていると言われても、私は一度もお目にかかっていないのでどんな形状かも知らないし、たとえさっき通ったときに立て直してあったとしても暗くて気がつかなかっただろう。
興味もないので「ああ、まあ」と素っ気なく私が相槌を打つと、男は「ぢづはな、あれよぉ」とあらたまった様子で何事かを言いかけた。
その刹那、背後で焚き火が爆ぜる大きな音がし、反射的に振り返ったところで「おう、シュウちゃん。なぁにやっでんだぁ?」と別な男の声が近くから聴こえ、私は後ろへ向けたばかりの顔をすぐさま正面へと戻した。
シュウちゃんと呼ばれた男の左隣には、眉間に深い縦皺の刻まれた六十代くらいの小柄な男が立っており、嫌なものを見るような険しい表情をして私のことを睨みつけていた。炎に照らされているせいか、その顔つきとあいまってまるで昔話などに登場する赤鬼のように見える。
「お、ちょうどいいとごに来だ」
「あ? 誰だ、こいづ」
男は隠すどころか私に対する拒絶の意思をあからさまに示してきた。かぢな駅で降りてから何度も目にした表情だが慣れない。
「僕はただの」
「おめぇんとごの客だぁ」
旅行者であることを告げようとした私の言葉を遮り、シュウちゃんなる男がそう言うと、「ぢゃあ、あいづが言っでだやづっつうのわ、これげ?」と赤鬼がこちらへ向かって顎をしゃくった。
「んだ」
「なんだが貧相なやづだなやぁ。ひょろっひょろでもやしみでぇだ」
たしかに私は筋骨隆々でも肥満体型でもないが、初対面の人間にそんなことを言われる筋合いはない。それに言い方というものがあるだろう。まぁ、今さらかむらた山の住民に礼儀正しさなど期待してはいないのだが。だいたい私の体型が何だというのだ。
「あの、お話し中のところすいませんが」
「あぁ? そう思うんならだぁってろ」
男の威丈高な物言いに閉口したものの、猟銃を向けられてもなお臆せずマツナカ巡査に食ってかかった私としては、相手が単に強面だからという理由だけで大人しく引き下がるわけにはいかない。経験上こういう人間は弱みを見せると大抵つけ込んでくるものだ。
「そうもいきません。僕にだって喋る権利くらいはあります」
「んだとぉ? くんの」
赤鬼が何か言い返そうとするのを「まぁ、まぁ、まぁ」とシュウちゃんが宥め、「ひどまづよ、みだまやさぁ連れでってやっでくれや。な?」と説得するように言った。
先ほどシュウちゃんが私を客だと紹介したことからも、この赤鬼がみだまやの関係者であることは間違いなさそうだ。客に対する態度からして雑用係の使用人といったところだろう。
「ったぐ、しゃあねぇなぁ」
赤鬼は面倒くさそうにそう言い、続けて「おら、とっとど行ぐぞ」と苛立たしげな調子で私を急き立てると、先に立ってさっさと林道の方へ歩いていってしまった。





