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人影

 来た山道を戻ろうとして途中の分岐点のことを思い出し、「あの、みだまやへは、どの道を行けばいいですか」と、手錠を掛ける前と同じように私を睨みつけているマツナカ巡査に訊ねてみた。


「ひふみよいむなやここのたり」


「え?」


 出し抜けに珍妙な声色こわいろで呪文を唱え出したマツナカ氏を見て、一体何が起きたのだと疑問が湧くと同時に危険が迫っていないかと防衛本能が反応し、私は反射的に自分の周り見まわしてわずかに後ろへと下がった。


「ふるべ、ゆらゆらと」


「何ですか? それ」


 質問を無視して呪文を唱えつづける巡査が怖くなり、私は彼を見ながら少しずつ後ずさりで距離を取ると、すぐには追いつけないであろうと思われる場所まで離れたところで身体を反転させた。


 あれは呪文ではなく経文、いや祝詞のりとたぐいなのかもしれない。でもなぜいきなり唱え出したのだ。この地域住民の言動には不可解な点が多い気がするが、最初にそう感じたのはいつ何を見たときだっただろうか。


 ふと、警官というものは住所や氏名などの基本的な個人情報を控えるのが普通ではないかと思って振り返ると、マツナカ氏は眉間にしわを寄せながらも口角を左右に思い切り吊り上げた、笑顔と呼んでいいのかどうかも判断がつかないおかしな表情を作ってこちらを見ていた。


 見てはいけないものを見た気がした私は、左腕に提げていたデイパックを背負いなおし、顔を正面に戻して山道を歩く足を巡査に怪しく思われない程度に早めた。




 分岐点を目指して傾斜の緩い長い坂を上っていると、前方の木陰から人影がぬっと現れ、また厄介な地元民なのではないかと身構えた私は、遠目から相手の様子をうかがいつつ少しだけ歩く速度を落として慎重に近づいていった。


 余所者よそものとして冷遇され、そうかと思えばおかしな茶でもてなされ、つづいて盗人ぬすっとの疑いをかけられて警官に銃を向けられ、そのうえ冤罪えんざいで手錠までかけられて引っ張りまわされているのだから、彼ら地元民によって何かに巻き込まれることを警戒するのは至極当然である。


 人影の輪郭がちょっとずつはっきりとしてくるにつれ、私はそれが見覚えのある人のような気がしてきて、横を向いたままの相手の顔を不躾ぶしつけだとは思いながらも目をらしてよく見てみた。


「あれ? 中村さん?」


 他人の空似かと思ったら違う。同僚の中村である。アロハシャツの胸ポケットにサングラスを差し、ハーフパンツにビーチサンダルという山よりは海辺の砂浜が似合いそうな格好をしている。一体こんな場所で何をしているのだ。


「中村さん、ですよね? こんなところで何してるんですか?」


 はじめ中村は焦点の合わない目で私の方をぼんやりと見ていたが、やがて「あぁ。こんにちわぁ」と答えてうふふと気持ちの悪い笑い声を漏らした。薬物か毒キノコでも摂取したのだろうか。休暇中のプライベートとはいえ、職場で会うときの様子と異常なまでに違う。


「余計なお世話かもしれませんが、あの、大丈夫ですか?」


 心配して訊ねると、中村は私の眉間の上辺りと口元に視線を行ったり来たりさせながら、「何がですかぁ?」と逆に訊ね返してきた。


「ええ、その、失礼ですけど、具合が悪そうに見えるので」


「自分がですくわぁ?」


 中村はそう言って語尾を伸ばしながら首を左に大きくかしげた。ふざけている、というよりかは単純に様子がおかしい。会社では中村の方が先輩だが年齢は私よりもひとつふたつ下のはずなので、若者のノリと言われれば納得できなくもない。


 すると中村は首を傾けたまま右手をだるそうに持ち上げ、脱力したラッパーのようなポーズで私の顔を指差し「そっちのほうがぁ」と言葉を溜め、「顔色悪いですよぉ」と腰を前後に動かしながら早口で言い、つづけておほほと大きな声で笑い出した。


 狂態を演じる同僚に顔色を指摘された私は、マツナカ巡査とのやり取りやらタマコの頓死とんしやらで忘れかかっていた毒のことを思い出した。顔色が回復していないということは、一二三ひふみ宅で飲んだ毒出しの茶が効いていないのだろうか。


「はあ、まぁ、ちょっと事故で変なものを飲んでしまって」


「変なもの飲んじゃあ、ダメでしょうよぉ。プロテイン飲みましょうよぉ」


 喋り方や態度の奇妙さは別として、とりあえず会話ができる程度には意識があるようだ。内容も中村らしい筋トレ関連の話題に絡めてくることを考えると、ただ単に開放的になってテンションが上がっているだけなのかもしれない。


「ところであのぉ、一緒に来た後輩とはぐれちゃってぇ。どこかで見かけませんでしたぁ?」


 甘ったるい舌足らずの調子で中村がそう言い、さらに「おかしいなぁ?」と両肩を上げ下げしながら独り言のように呟いた。


 かぢな駅で降りてから私が会った外部の人間といえば、目の前にいる中村を除けば途中で擦れ違った女性と思われる下山者だけである。


「その後輩のかたって、もしかして、女性だったりします?」


「じょおせぇいぃ? カッポギは男の子ですよぉ」


「はい?」


 聞き慣れない響きに頓狂とんきょうな声を上げてしまったが、あだ名や外国人の名前という可能性もありうると思いなおし、見識が狭い己をさらしてしまったかのようで恥ずかしくなった私は咳払いをひとつして「失礼、よく聴こえなかったもので」と誤魔化した。


「えっと、そのカッポギ、さん? そのかたの携帯かスマホには連絡してみましたか?」


 私の問いに中村は己のハーフパンツのポケットを探って二台のスマホを取り出し、それぞれの手に一台ずつ見せびらかすようにして持ち、「自分と、カッポギィ」と言ってニィッと笑った。


「それは、カッポギさんの?」


 頭を前後に大きくゆったりと揺らしていた中村は、次第にその動作をヘッドバンギングを思わせる激しく速いものへと変化させ、最後には全身を縦に揺すって痙攣けいれんしているかのように小刻みに震えだした。


「自分とぉ、カッポギとぉ」


「ふざけてるんですか?」


 語気を少しだけ強めて言ったせいか、中村はいきなり縦揺れをピタリと止めると、焦点の定まらない瞳で私の目を覗き込んできた。おろおろと左右に揺れる中村の瞳は光を失っており、死んだタマコの作り物のようになった眼球を私に思い出させた。

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