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 尋常ではないタマコの様子に「マツナカさん」と呼び止めた私の声は、自分でもそうとは気づかないほどに震えており、それで異常を察したらしい巡査が足を止めて振り返ったようだった。


 私は微動だにしないタマコから目を離せず、一体何が起きているのかと混乱する頭を整理しようとするのが精一杯で、どうして口内に血の味が広がりつつあるのかを深く考えようとはしなかった。


 マツナカ巡査がしゃがむのに引っ張られて膝を折った私は、ついさっき八角堂の裏で見たときにはそれほど汚れていなかったタマコの毛並みが、色艶いろつやが失われてくすんだようになってしまっていることに気がついた。


「死んでらぁ」


 出し抜けに口を開いたマツナカ氏は、いつの間にめたのか、軍手をつけた右手でタマコの下顎を押し下げて口内を覗こうとしていた。


「そんな、ただ気絶してるだけとか」


「見でみぃ」


 身体を移動させてタマコの顔を見ると、見開かれた両の眼球は輝きを失って作り物のように変化し、口元と鼻の周辺にも血液を薄めたような桃色の泡が付着しており、素人目でも彼女がすでに生命活動を終えていることは明らかだった。


「くぢんなが見でみぃ」


 マツナカ氏が傾けたタマコの口内を覗いてみた私は、はじめはネズミかリスの毛皮でも詰まっているのかと思ったのだが、よく目をらしてみてそれが噛み砕かれて半壊した状態のアシダカグモだとわかった。


「クモが」


「死因はこいつのどぐだな」


 そこで私はおやっと引っ掛かりを覚え、「このクモ、たしか毒ないって言ってたような」と一二三ひふみ氏の言葉を思い出して呟くと、「そりゃアシダカだ。こいつぁ()()()よ」と巡査が答えた。


「おら、立で。行ぐぞ」


 立ち上がったマツナカ巡査に引っ張られる形で立つには立ったものの、あわれな小動物を残して立ち去る気になれない私は、「タマコ、この猫はどうするんですか?」と剥製はくせいのように硬直したタマコの遺骸を見下ろしながら訊ねた。


「今はどうもしねぇ。あどでひど寄越よごす」


「このまま放置しとくんですか?」


神域しんいきけがれが穢れんなっただけぢゃねぇ」


「どういう意味ですか?」


 いきなり手錠の繋がった右手を引っ張り上げられた私は、「いたた! 何するんですか」と横暴な警官に対して先ほどと同じように抗議の声を上げた。


「いいが、質問しづもんすんのはおれだ。おめぇぢゃねぇ」


 巡査はそう言うと前を向いて歩き出し、今度は前方に引っ張られた私は前のめりになり、危うく転びそうになりながら足を踏み出した。


 歩幅が広い上に歩くのも速いマツナカ氏に遅れを取らないよう、ほとんど小走りのようにしてその背中を追っていた私は、背後を振り返って遠ざかりつつあるタマコの遺骸に向け片手で冥福を祈った。


 鳥居を潜って山道に出たマツナカ巡査は身体の向きを変えて傀儡宮くぐつぐうへ一礼すると、それをぼんやり見ていた私に「おめぇも挨拶あいさづしろっ」と鬼にような目つきでうながしてきた。


 氏にならって奥に見える八角堂へ頭を下げ、「マツナカさん」と遠慮がちに声を掛け「手錠を」と解錠を交渉しようとしたところ、巡査はまたもや私の鎖に繋がれた右手を力任せに引っ張った。


「痛っ! その引っ張るのやめ」


「いいが、いぐづが質問しづもんすっがら、正直にこだえろ」


 マツナカ巡査は一方的にそう言い、さらに私に顔を近づけて「いいな」とドスのきいた低い声で凄んで身体を引き、「したら外しでやる」と右手で手錠を指差した。


 署に連行すると言っていた巡査が、どうしてこんな場所で聴取をはじめる気になったのか不思議ではあるものの、解放してもらえるのなら私はそれでいい。もしかぢな駅の方まで引き返すことにでもなってしまったらのあるうちに宿へ辿り着くのは難しいだろう。


 マツナカ氏に右手首を上に引っ張られたままの私は、まるで宣誓でもするかのように「わかりました」と素直に応じた。


「おめぇ、お堂の裏さ行っだな」


「はあ」


「なんが見だが?」


「あぁ、柱だけの遺跡みたいなのが」


 私がそこまで言うとマツナカ氏が目をき、「おめぇ、さっぎは」と言いかけて口を閉じると、毛皮のベストの内側へ右手を突っ込んで何かを探しはじめた。


「さっき?」


 巡査は取り出した鍵で手錠を開けるなり、五歩ほど後ろへ下がって私との距離を充分に取ってから、「やぁっぱり嘘ついでやがったな」と絞り出すように言って猟銃を持ち上げようとし「あぁ! クソッ」と悪態をついてその手の動きを止めた。


 正直に答えたのに嘘つき呼ばわりされてはかなわない。それに今、マツナカ巡査は銃を構えようとしたのではないか。凶悪犯でもなければ抵抗すらしていない善良な市民の私に対してそれはないだろう。これではマツナカ氏の警官としての適性が疑わしく思えてくる。


「嘘じゃないですって」


「とっとど、いね!」


 おそらくかむらたの住民は一人の例外もなく全員が余所者よそものを嫌っているに違いない。どうやらその一因は神社や秘境を求めてやってきた外部の者たちの心ない所業にあるようだ。マツナカ氏の話しぶりからの推測でしかないが、武装したスタンガンで警官を襲うような人間に何人も遭遇しているのなら当然の態度だと言える。


 何はともあれ解放されたことに変わりはない。嘘つきの汚名を晴らすことはできていないが、あれこれ詮索せんさくされて時間を取られるよりはマシだ。また余計なことを訊かれないうちに氏の言葉通りさっさとこの場を立ち去るべきだろう。

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