老婆
電車を降りて腕時計を確認すると十二時半を回っていた。都内のアパートを出てから四時間半ほど経っている。車内で駅弁を食べたおかげで腹は減っていない。
プラットホームに立っている駅名標には平仮名で「かぢな」と大きく書かれ、その下に「Kadina」とローマ字表記もされている。
改札を覗くと駅員はおらず、代わりに「きっぷいれ」と消えかかった白い字で書かれた、小学生が作ったような不恰好な赤い木箱が柱に掛かっていた。木造の小さな駅舎内にも人のいる気配はない。
あの車掌に勧められるまま来てみたものの、周囲には樹木や背の高い雑草が生い繁っているだけで建物の類は見当たらず、まともな宿泊施設があるのだろうかと私は少しばかり不安になった。彼の話では駅からバスが出ており、かむらた山の登山口までは二十分ほどで行けるとのことだった。
ポケットからスマートフォンを出して画面を確認すると、アンテナのマークではなく圏外という表示が出ていた。こんな山深いところでは無理もない。それでも山の中腹にあるという宿まで行けばどうにかなるだろう。
ともかく、と私は改札を抜けて駅舎の表へ出てみることにした。ぐずぐずしていて本数が少ないであろうバスを逃すわけにはいかない。インターネットが使えないのだから、地域住民に会うまでは車掌から聞いた話が頼りだ。
改札の木箱に切符を落として駅舎内に入り、数メートルほどの空間を横切って扉のない出入り口から外へ出る。
当然バスターミナルなどあるはずもなく、正面は砂利の敷かれた小さな広場のようになっており、その先の視界は広葉樹の林で閉ざされてしまっている。広場の右側に面している道路の一方は林の奥へ続き、もう一方は線路と交差して反対側の林の中へと消えていた。
左側には駅舎の外壁を背もたれがわりにした小さなベンチがあり、そのそばに時刻表のついたバス停看板が立っている。近づいて時刻表を見ると、平日は十三時と十九時に一本ずつあるが、土日祝日にいたっては十四時に一本しか書かれていない。それでも毎日運行しているのだから、それなりに利用者がいるのだろう。
「とうぎょうのひどけ?」
突然の声に飛び上がりそうになるほど驚いた私は、思わず「うわっ」と叫んで後ろを振り向いた。いつの間に現れたのか、ほっかむりをした小柄な老婆がベンチの端にちょこんと座っている。私の驚くさまがおかしかったようで、老婆は口角を吊り上げて口を半開きにすると、「ひゃあ」と笑い声のような息を漏らした。
「あぁ、失礼しました。誰か人がいるとは思わなかったもので」
「とうぎょうのひどけ?」
耳が遠いのか、老婆は私の言葉を無視するようにして同じ質問を繰り返してきた。おそらく彼女の言う東京の人とは出身地のことではなく、どこからやって来たのかという意味だろう。
「ええ。出身は田舎ですけど」
老婆はまた「ひゃあ」と先ほどと同じように息を漏らした。この様子では会話が成立しているのか甚だ怪しいが、どちらにせよバスが来るまではすることもないので、私は彼女の隣に座ってこの辺りのことを訊ねてみることにした。
「お婆さんはこの辺りに住んでいらっしゃるんですか?」
すると老婆は「はぁぢじゅうさんだよぉ」と照れたように言って、何かを払うように顔の前で右手を動かした。私は彼女がまだ「なぁにいっでんだよぉ、おめぇ」とやっているのを見ながら、話を聞くのは難しいかもしれないなと溜め息をつきそうになるのを堪えた。
「どごまでいぐんだ?」
余所者が珍しいといった様子で老婆はなおも話しかけてくる。たとえ会話は成立しなくとも彼女の好奇心を満たしてやることくらいはできそうだ。
「ええと、かむらた山の登山口まで」
「やまさのぼんのが?」
なんだ聞こえているじゃないかと思いつつ、私は「ええ、趣味のようなものです」と答えた。
「だら、きぃづげでなぁ」
「はぁ。ありがとうございます」
あの車掌からは険しい山ではないと聞いているが、彼女の言うとおり気をつけなければ。大きな怪我をしたり事故に遭ったりして、休日が終わった後の仕事にまで差し障るような事態になるのは避けたい。
「かみさんのなめぇにきぃづげなぁ」
「いえ、僕、独り身なので。かみさんの目に気をつけるも何もないですよ。そもそも疚しい目的じゃないですし」
私が笑って答えると、老婆も「ひゃあ、ひゃあ」とさっきまでの吐息よりは笑いに聞こえる声を漏らした。二人で和やかに笑っていると、唸り声のような車のエンジン音が遠くから近づいてきた。