マタギ
厄介な枝を潜って傀儡宮の真裏まで戻ってきた私は、命を削りながら騒ぎ立てる蝉の鳴き声に紛れて、何やら建物の方から人の声が聴こえたような気がして立ち止まって耳を澄ませてみた。
くぐもっていて何と言っているのかまではわからないが、声には狂言のような節回しの独特な抑揚がついている。護符で封をされた八角堂に人が入れるとは思えないので、おそらく建物の正面に誰かがいるのだろう。
どうせなら傀儡宮を一周しようと通ってきた方とは逆側の草むらを進んでいると、半ばまで差し掛かったところで「ふるべ、ゆらゆらとふるーべ」と呪文を唱えているような調子の男性の声が聴こえてきた。たとえ手入れのされていない神社であっても参拝者はいるらしい。
何か話が聞けるかもしれないと思い、急いで草葉を掻き分けているうちにぴたりと声が止んでしまった。参拝が済んで帰ってしまったのだろうか。
ようやく建物正面の雑草がまばらな場所へと転がりでた私は、銃身の長い猟銃のようなものを構えた体格のいい男が目に入り、思わず「え?」と声を漏らしてその場に固まった。
年齢こそこさか氏や一二三氏と同世代ぐらいだろうと思われる男は、真夏だというのに毛皮のベストのようなものを半袖の上に羽織って頭には時代錯誤な編み笠をのせており、ちょうど昔話などに登場するマタギの風貌を彷彿とさせる格好をしている。
男の身長は二メートル近くありそうなほど大きく、太い腕や逞しさを感じさせる厚い胸板からは、ちょっとやそっとのことでは倒れなさそうな頑健な雰囲気が漂っている。
最悪なのは男が銃口を真っ直ぐにこちらへと向け、片目を瞑っていつでも引き金を絞れるよう私に狙いを定めていることだ。
「ちょ、あの」
「誰だ、おめぇ」
誰と問われて男に名乗っても意味はあるまい。私は「旅行者です」と簡潔に正体を明かし、「それ、下ろしてくださいよ」と少しだけ語気を強めて言った。言葉を交わしたにも関わらず、未だ銃口をこちらに向けたまま警戒を解かない男に対し、これまでの住民の態度も加味されて私は苛立ちを覚えはじめていた。
「どうだがなぁ」
何かを疑うような口調に「どういう意味ですか?」と訊ねると、男は「くんの盗人がぁ」と絞り出すように言い、私が両手を挙げようとしたのに反応して銃を構えなおした。
「ちょっと! やめてくださいって。盗ってませんよ、何も」
おそらく男との距離は五メートルと離れていない。もしこの近さで撃たれでもしたら文字通り木っ端微塵である。だいたいこんな打ち捨てられたような場所に盗られて困るようなものなどあるのだろうか。
「いながもんだど思っでこのぉ、なぁめ腐りやがって」
「ちょっと、落ち着いて話を聞いてください」
「どうせおめぇも、あれだ、ネッドでぐぅしで来だマーニャどかいうやづだっぺよ、あぁ!」
男の言わんとすることの察しが何となくついた私は、「違います。ただの旅行者です」と相手の思い込みを否定しつつ、下手に刺激を与えないよう自分の正体を繰り返し主張した。
「騙そうったって、そうはいがねぇ」
どうすれば疑いを晴らすことができるだろうかと考えていると、「背負ってるもんのながぁ見せろ」と男の方から問題解決に繋がる要求がなされた。そんなことで命が助かるのならいくらでも見せてやる。
「わかりました。バッグ下ろすんで、撃たないでくださいよ」
男は催促の意味なのか一瞬だけ銃身を右に振ると、またすぐさま銃口を振り戻し、片目を細めて私の胸の辺りを狙うようにして銃を構えた。
ゆっくりとデイパックを背中から下ろした私は、ジッパーを全開にして中身が見えるように男の方へと傾けてみせた。バッグの中には着替えの下着とTシャツが一枚ずつに一組の靴下、あとは汗を拭う用のタオルと今朝行きがけにコンビニで適当に見繕った菓子ぐらいしか入っていない。
男は何度も私の顔とバッグとに視線をチラチラと往き来させ、中身をもっとよく見ようとするためか、銃をこちらへ向けたままじりじりと近寄ってきた。
「もっど開いで、よぐ見せろ」
「じゃあ銃を下ろしてください」
「んだとぉ」
あらぬ疑いをかけられているだけでなく銃まで向けられ、その上さらに相手の要求に一方的に従うなんてまったくもって冗談じゃない。このまま言いなりでは男を増長させるだけだ。それに、体格も武器もより有利な立場にあるこの男は、両手のふさがっている私の一体何をそんなに警戒しているのか。
「見せねぇど撃つぞ」
ライセンスさえあれば猟銃の携帯も使用も国から許可されているのを知ってはいるが、それはあくまでも狩猟の場に限ったことであり、このように故意に人へ向けて発砲の意思があるのを明確にすることは脅迫という犯罪行為に他なるまい。普段は警察嫌いの私だが、今ほど国家権力に頼りたいと思ったことはない。
「撃つって、あの」
「なんで見せねぇ、あぁ? やましいごどがあっがらだっぺ、あぁよ」
「見せてるじゃないですか」
「くぢごだえすんじゃねぇ!」
こう言ってはなんだが、かぢなおよびかむらた山の住民たちは、みな一様に何らかの特殊な病気にでも罹っているのではないだろうか。この男もこれまでの住民たちの態度と同様、単に排他的や短気という言葉だけでは納得がいかないくらい感情の変化が極端で急激すぎる。
ただの脅しだとばかり思っていた私は、男が銃の安全装置らしきものを外し、照準の微調整をするかのように銃口を少しずつ動かすのを現実離れした気分で見ていた。もはや己の正当性を主張している場合ではない。
「わか、わかりました。バッグそっちへ投げるんで、もう自分で確認してくださいよ」
男は銃を構えて眼光鋭く私を睨みつけたまま微動だにせず、まるでよく訓練された兵士のような一分の隙もない気迫を放っている。私は開いた状態のジッパーのあいだから中身が飛び出さないよう、デイパックを上に向けて男の近くへそっと放り投げた。





