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車掌

 上野駅から快速に乗った私は、高崎駅で上越じょうえつ線に乗り換えて群馬の谷川たにがわだけへと向かっていた。


 私は高崎駅で買った鶏めし弁当をボックス席で頬張りながら、やはり水上みなかみでいったん降りて宿を取り、山登りは早目に切り上げてゆっくり温泉に浸かる計画に変更しようかなどと考えていた。山の頂上を目指すのが目的ではない。


 弁当を食べ終えスマートフォンを出そうとして思い直し、左の手首に巻かれている腕時計で時間を確認する。まだ午前十時を過ぎたばかりだ。プライベートでは腕時計をしない主義なのだが、家を出たのが出勤時間に近かったせいか、いつもの癖で無意識につけてきてしまっていた。


 背もたれに身体からだをあずけて、窓外を流れていくのどかな田園風景に目をやり、電車の心地よい揺れに身をまかせる。こんなにのんびりとした気分になるのはいつぶりだろう。


 田舎の実家にありふれていた緩やかな時間は、都内のアパートで独り暮らしを始めてからはほとんど失われ、今や絶滅危惧種のような貴重なものとなってしまった。いくら息を吸い込んでも息苦しさが残り、シャワーでは疲れは洗い流せず、遠くを見晴らそうにも高い建物やスモッグが視界の邪魔をする。ストレスと疲労が蓄積していくなかで、私は安らげる時間と場所を渇望していた。




 いつの間にか眠ってしまったらしく、ゴーッという重い音で目を覚ました私は、窓の外が暗いのを見て内心「しまった」と舌打ちした。腹が膨れてうとうとしていたのには違いないが、さっきの弁当に睡眠薬でも盛られたのでない限り、夜まで熟睡するほどではなかったはずだ。しかしすぐに前方から光が射してトンネルの中だったのかと気づく。


「どつらまでですか?」


 いきなり通路側から声を掛けられて振り返ると、車掌しゃしょうおぼしき五十代くらいの男が笑顔で私を見ていた。年齢からして勤続年数も長いと思われるが、それに反してまるで入社したての新人が制服を着ているような、どこかちぐはぐな印象を受ける。


土合どあい、いや水上までです」


「あぁ、温泉で? いいですねぇ。お一人で?」


 車掌はそう続けて訊ねながら向かいの席に座り、私の左手を見て「あぁ、お一人でぇ?」とさっきとは別のイントネーションで言った。


「ええ、まぁ。連休なもので、山登りついでに羽を伸ばそうかなと思いまして」


「あぁ、トレッキングですかぁ。山がお好きで?」


 私は「まぁ、そうですね」と適当に答え、話題がマニアックな方へ向かったら面倒だなと思っていると、急に笑顔を消した車掌が「女は買えませんよ」と真顔でピシャリと言ってきたので驚いた。


「女もお好きで?」


 ニコニコ顔に戻った車掌が小指を立ててそう訊ねてきたが、そういう話をしたい気分ではないと閉口していると、「男色なんしょくかたで?」といらぬ邪推をしてきた。面倒を避けようとした行動が逆に面倒を引き寄せてしまったらしい。


「違いますよ。女性が好きですよ。でも、そういうつもりで行くのではないですし、そういう話をしたい気分でもないんです」


 すると車掌は顔をしかめ、感心するように「へぇ」とうなって身体をらせたが、またニコニコしだすと「だけんど、買いに行かれるんで? 山登りついでに?」と言いはじめた。


 私は少々うんざりしながらも、「ですから」と辛抱強く説明を試みようとすると、車掌が少し声を強めて「越後えちご湯沢ゆざわで?」とさえぎるように言った。


「新潟じゃないですか。行きませんよ、そんな遠いところまで」


「へぇ。だけんど、過ぎましたよ。水上」


「えっ」


 狼狽ろうばいしつつ「今はどの辺りを走っているのか」と車掌に訊ねてみると、「県境のすこんしばかり手前でないですか?」とおおよその場所を答えた。つまり、もう谷川岳の近くまで来ているということだろう。そうなると宿のためだけに水上まで戻るのは骨だ。


 私が参ったなと呟くと、車掌は「だいじょぶですよぉ」と言って「いいどこ知っでますがらぁ」と『かむらたやま』への行き方を話しはじめた。

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