蝿
男の家の正面にまわった私は、ペットボトルに水をもらってくればよかったという後悔と、自分が通って出てきた藪は果たしてどの辺りだっただろうかという問題に直面した。近道を通らない山道への戻り方を訊いておくべきだった。
背後にある玄関の戸をノックして男を呼べば済む話だが、先ほどの様子からすると素直に教えてくれるかどうか甚だあやしい。それでも迷ったり井戸に落ちたりする危険があることを考えれば試さない手はない。
振り返って玄関の前まで行き、引き戸をノックしようとして柱に掛かっている表札に気がついた。ずいぶんと年季が入っており、色がくすんで文字も滲んでしまってはいるものの、どうにか「一二三」と書かれているように見える。これが暗号ではなく苗字だとしたら何と読むのだろうか。
「すいませーん」
続けて「ごめんくださーい」と引き戸をノックした私は、男に聞こえるようにわざとガシャガシャと派手な音を立ててみた。しばらく待っても応答もなければ磨りガラスに影も映らない。もう一度「すいませーん」と言いながら引き戸に手をかけてみると鍵が掛かっている。
首筋にぞわっと悪寒が走り、違和感を覚えて私は引き戸から手を放した。
頭上から降り注ぐ蝉時雨が静けさの中で強調され、まるで耳鳴りのように私の鼓膜を細く鋭く震わせる。姿の見えない生物の鳴き声で空間が満ち、騒音の濃度が上がって息苦しささえ感じるような気がする。
たしか、男と家に来たとき、玄関の戸に鍵は掛かっていなかった。昼間に施錠せずに外出することなど、警戒するような出来事が滅多に起きない私の故郷でも普通によくある。では、どうして男は外出のときではなく、在宅中の今の状況で鍵を掛けているのか。
短絡的かもしれないが、これまでに遭遇した地元民の態度とあわせて鑑みるに、このかぢなという土地の住民は外部の人間を受け入れるどころか、良好な関係を築くことすらも快く思っていないのだろう。
私は念のため裏庭の方にもまわってみたが、いつの間にやったのか、こちらは雨戸まで引かれて厳重に戸締りがされてしまっていた。
まだ夕方にすらなっていないのに雨戸は少しやりすぎではないだろうか。私に会いたくないのならサッシ窓を閉じてカーテンを引けば充分である。バスの連中とは違って「一二三」氏が親切だっただけに、何だか裏切られたようで悲しくなってきた。
再び正面へ向かいながら、そういえば家のもう一方の側面をまだ見ていないと気づき、もしかしたら山道へ抜ける道があるかもしれないと玄関を通りすぎる。しかし、私の思惑に反してそこにあったのは他と同じような藪だった。つまり、この家は外周をぐるりと藪に囲まれた孤立した場所に建っているらしい。
ひとつ深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。あいかわらず顔色はおかしいままなのだろうが、幸いにも体調はまだ何ともない。変調をきたす前に宿に着いて事情を説明すればきっと大丈夫。薬だってあるに違いない。
スマホを用意してライトを点けた私は、自分が通ってきたのではないと思われる藪の辺りに見当をつけ、足元を照らしながら井戸に注意して第一歩を踏み入れた。
いくら枝葉が繁っているからとはいえ、こんな真っ昼間からライトを使わなければならないほどに、夏の太陽の日差しとは斯くも弱いものだっただろうか。
行く手に立ち塞がる名前も知らない植物を腕や脚を使って掻き分け、足で地面の硬さを確認しながら慎重に藪の中を進む。井戸がひとつとは限らないし、もし落ちてしまったら助けは望めない。
せめてタマコが道案内でもしてくれたらな、などと考えていると、ブンブンという不愉快な羽音を立てて蝿だか何だかの小虫が纏わりつきだした。
スマホを構えていない方の左手で羽虫を払いながら先へ進むと、近くに活発な蜂の巣でもあるかのようにブンブンという音が次第に大きくなってきた。
スズメバチの巣なんぞにぶち当たってしまっては堪らないと思い、私は足元だけでなく頭上の枝や顔の高さにある植物の太い茎などにも光を這わせ、音の出所を見つけてやろうと細心の注意を払いながらじりじりと進んだ。
顔の周りを飛びまわる羽虫が増えてその多さに苛立ってきたころ、より激しく翅を震わせる音が進行方向の右手から聞こえてきた。
いよいよ巨大な蜂の巣と対面かと思っていた私は、掻き分けた植物のあいだから大量の羽虫が一斉に飛び立つのを目の当たりにし、あまりの多さに後ろへよろけてひっくり返りそうになった。
どうにか踏ん張って転倒を避け、羽虫の発生源はどこかと上下左右にライトの光を振りまわしてみると、一部だけ誰かに踏みならされたように雑草が倒れている箇所があり、そこに巨峰よりもひとまわり大きいサイズの黒いボールがいくつも落ちているのを見つけた。
腐って落ちた果実だろうかと思い、スマホで照らしてよく見てみると何やら表面がうじゃうじゃと蠢いている。
おそるおそる顔を近づけてみてその全部が蝿だとわかった私は、思わず「うわぁ」と女性には聞かれたくない情けない声を上げて身体を引いた。
それでも怖いもの見たさからか気持ち悪さより好奇心が勝り、蝿たちの興味を一手に引きつける物体が何なのか、私はその正体を暴いてやりたくなった。
棒状のものが落ちていないか藪を踏み分けて周囲の地面を照らすと、簡単に折れてしまいそうな細い小枝を雑草のあいだに見つけた。
枝を拾い上げて蝿でコーティングされたボールのひとつをそっと突いてみる。数匹の蝿を残し、そのほとんどが弾けたように散り散りに空中へ飛び立った。片手で虫を払いながら、正体は何だろうと再び顔を近づけて目を凝らす。
それは皮を剥いた巨峰を思わせる半透明の球体で、全体がやや楕円状に歪んでおり、光に照らされて濡れたような質感を見せている。
やはり果実かと枝で突き転がしていた私は、一ヶ所から血に塗れた生っぽい紐状のものが伸びているのを見つけ、それが何らかの動物の眼球であることを急激に理解した。
私はそんなものがいくつも落ちていることに戦慄を覚え、抗いようのない恐怖がどこからか押し寄せてきている気がして、まるで汚染が広がるかのように全身に鳥肌が立っていくのを感じていた。





