蛙
近道だからと藪の中を進みはじめてしばらく経ち、沈黙の不安に駆られて「あとどれくらいですか?」と私が口を開こうとしたところで、「井戸があっがら、足もど気ぃづげろ」と男が振り返った。
言われて足元を見ると、いきなり藪が途絶えてぽっかりと開いた大きな穴が地面に現れ、あやうく滑り落ちそうになって縁に尻をついた私は心臓が縮んだかと思った。それは想像していたようなコンクリートの井戸側が地上に突き出たものではなく、開口部が地面とほぼ同じ高さにある罠のような井戸だった。
「あぶっ、あっぶねぇ」
思わず乱暴な口調で悪態をついてしまったが、男は意に介した様子もなく私を置いてさらに先の藪の中へと入っていってしまった。これこそ囲いを作るなり蓋をするなりして安全対策を講じるべきだと憤りつつ、私は落ちないように注意しながらおそるおそる井戸の中を覗き込んでみた。
枯れているのか、それとも光が届かないほど深いのか、いくら覗き込んでみても水面の反射は見えない。上空ではブナの枝葉に日光を遮られ、さらに頭の高さではヤツデのような植物の大きな葉にダメ押しのように邪魔をされているので、どちらにせよライトで照らしでもしない限り井戸の中は見えないだろう。
スマホ付属のライトが頭をよぎったが、岩のそばで落下させてしまったイメージが強く残っており、無理に見る必要などないさと私は慎重に立ち上がってジーパンについた土埃を手で払った。好奇心は猫を殺す、だ。
男が消えた辺りの藪の中へ私が見当をつけて入っていくと、少しも行かないうちに藪が終わって開けた場所に出た。目の前には男がこちらを向いて立っており、その奥には素人が頑張ってどうにか建てたといった風情の、老朽化した昭和の公営住宅を思わせる小さい平屋があった。
「あれ、井戸さ落っごぢちまっだのかど思っだよぉ」
「落ちかけましたよ! 危ないじゃないですか、あんなの放置したら」
「落ぢだら毒なんが、どうでもよぐなったっぺなぁ」
縁起でもないことを言って男は「あー、ハァッ、ハァッ!」と例の笑いをやった。冗談だとわかっていても一緒に笑う気にはなれない。あの井戸が深いとしたら、もし落ちてしまった場合、死にはしなくとも骨折などの大怪我は免れないだろう。
「それどもよ、毒がまぁっできだのけぇ?」
毒がまわってきた、とはどういう意味だろう。私の身には何かが起きた感じはないし、「危ないですよ、あんなの放置したら」以外に変なことも言ってはいない。では、男は私の何を見て毒がまわってきたと思ったのか。
「僕、どこか変ですか?」
男は問いかけを無視して玄関の引き戸を開けると、「どうぞどうぞ」と家の中へ入るよう私をうながし、「豪邸っつうわげにはいがねぇげどよ」と言って「あー、ハァッ、ハァッ!」と笑い出した。
井戸に落ちかけたことやそれを軽くあしらわれたことがショックではあったが、すでに去った危険や他人の態度に一喜一憂している場合ではない。まだ毒が体内に残っているのだ。
「そんなどご突っ立ってねぇで、上がったらよがっぺよ」
のんびりとした男の様子からすると危険な毒ではないのかもしれない。少なくとも一刻を争うような即効性のものではないはず。解毒剤をもらうにしても、そもそも何の毒なのか男は知っているのだろうか。
私が敷居を跨ごうとすると「あぁ! ちょっと待でって」と男が声を荒らげ、「土足厳禁に決まってっぺよぉ」と常識外れな行動を非難するかのように言った。
敷居の先にあるのは狭いながらも土間である。式台や上がり框のある廊下などはない。土間の奥行きは成人男性の靴のサイズとほぼ同等で、その真隣はすぐに畳敷きの六畳ほどの居室となっている。
玄関の前に立っただけで生活空間の全貌がわかってしまうだけでなく、部屋を突っ切った反対側の大きな窓は開け放たれ、家の裏庭にあたる場所までまる見えとなっていた。見たくはなかったが、その一角に干された男の肌着らしきものも視界に入ってしまった。
「そどで脱ぐのが常識だっぺよぉ」
「え、でも土間」
「ああ?」
他人の家のルールに口出しはできないな、と私は言葉を飲み込み、おとなしく外で靴を脱いで「お邪魔します」と言いながら土間に足を踏み入れた。振り向いて靴を揃えようとすると、私の前に上半身をぬるりとまわり込ませた男が、「縁側で待っででもらえっが?」と顔を見上げて言ってきた。
有無を言わせぬ気迫のようなものを感じ、私は「はぁ」と頷いて男を避けるように身体を捻って畳へ上がり、言われたとおり部屋を横切って縁側へと向かった。
背後でガラガラと引き戸が閉まる音が聞こえ、干してある肌着を見ないよう奥のブナ林に沿って視線を動かした先に、さっき私が想像したような井戸側が地上に出ている井戸があるのを見つけた。
「いまおぢゃの用意すっがらぁ」
「あの、おかまいなく」
そうは言ったものの喉が渇いていた私は、地下から汲んだ水で淹れた茶は格別だろうななどと卑しいことを考えていた。すると心でも読まれたのか、「強がんなっづうの」と背後から男に指摘されてしまった。
「毒水をよぉ、飲んぢまうぐらいノド渇いでたんだっぺ。ああよ? あー、ハァッ、ハァッ、ハァッ!」
何のことはない。心を読まれたのではなく、男には私が忠告を無視して毒水に飛びつくほど喉が渇いていたように見えただけのことだ。訂正するのも面倒なので、冷蔵庫を開け閉めする音の方へ向け、「そうですね」と適当に返事をして私は縁側に腰を下ろした。
見るとはなしに井戸を見ていると、濃緑色のポンプから滴った水滴が小さな水溜まりを作っており、そのそばでちょっとばかり珍しいことが起きていた。
背中に小さな蛙を乗せたアマガエルが、こんなヤツが日本に棲息しているのかと思うような脚の長い大きな蜘蛛と、今まさに生死を賭けて睨み合っているところだった。
二匹の蛙をあわせたとしても蜘蛛のサイズは優にその四、五倍はある。体格差にものをいわせて一息に畳み掛けてしまえば蜘蛛の圧勝のようにも思えるが、両者が動かないということは、蛙の方もあれはあれで隙がないのかもしれない。
これは一瞬たりとも見逃せないぞと、もう少し近くで見ようと身を乗り出し、動画も撮っておこうとスマホを取り出そうとしたところで、「おぢゃあ入っだがらぁ、冷でぇうぢにどうぞ」とグラスを乗せた盆を持って男が縁側へやってきた。





