↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
登山客  作者: 混沌加速装置


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
10/86

猫

 しゃがんで触ろうとするとトラ猫はするりと私の背後へと消え、身体を回り込んで反対側からのっそりと姿を現し、だらりと垂らした左手の拳あたりにその小さな顔面をぐいぐい押しつけてきた。


「きみはどこから来たんだい?」


 熱心にぐりぐりと顔面を擦りつけてくる猫をかまっているうちに、立て続けに起こった不快な出来事などどうでもよくなってきた。意図はわからなくともその擦り寄る姿が何とも愛らしく、気がつけば私は猫を飼うためにペット可能なアパートへ引っ越すことまで考えはじめていた。


 何か食べ物をやろうとデイパックを下ろしたのだが、どうやら驚かせてしまったらしい。茶トラはふわりと数十センチメートルほど後方へ跳びのき、私が何をしようとしているのか探るようにじっと見ていたかと思うと、すぐに身を翻《ひるがえ》してトコトコと歩いていってしまった。


 人懐《ひとなつ》っこい仕草をしていたわりに去り際はあっさりしたものだ。もちろん、猫が斯様《かよう》に気まぐれな生き物だということくらいは私だって知っている。


 荷物を下ろしたついでにひと休みしようと、座れそうな手頃な倒木でもないものか辺りを見まわしながら歩く。四方には灰白色《かいはくしょく》のブナ林がどこまでも広がっており、空間は耳を聾《ろう》さんばかりの蝉の鳴き声で満ち満ちている。


 探すとなるとないもので、そこそこの距離を歩いているのに座って休めそうな倒木など見当たらない。これでは休憩する前に宿へ着いてしまうのではないか。


 そんなことを考えながら幾度目かのアップダウンを上《のぼ》りきると、樹木の生えていない平《たい》らに均《なら》された小さな広場のような場所があり、そこに腰掛けるのにちょうど具合の良さそうな大きな岩があった。


 私はいきなり汗が噴き出したような気がして急に喉の渇きを感じ、手に持ったままだったデイパックを探って水のペットボトルを取り出し、岩に座る前からキャップを外して乱暴に口元へと運んだ。ゴクゴクと喉を鳴らして無心に飲んでいたら残りが半分以下まで減ってしまった。


 天気も良くて太陽もまだ高い位置にあるし、ここまで一本道のルートを辿ってきているのだから迷ったり遭難したりは考えられない。たとえ飲み干してしまってもおそらく水の心配はないだろう。


 岩に腰を下ろして背後に両手をつき、ぐぐぐっと上体を反らして顔を空へ向けると、枝葉の隙間から漏れた光が容赦なく目に突き刺さり、私はその眩《まぶ》しさに瞼《まぶた》を閉じた。


 大自然を全身で味わいながら、今度はキャンプにでも挑戦してみようかと思いついたところで、右手の指先にザラザラしたものを感じて「あっ」と声に出して振り返った。見ると先ほどの茶トラが指先についた水をペチャペチャと舐めている。


「きみも喉が乾いているんだね」


 猫から手を引いてペットボトルのキャップに水を入れ、茶トラの前にもういちど差し出してみると、左の前足を私の手に掛けてまたペチャペチャとやりだした。舌の感触が不思議と気持ちいい。


 もうちょっと猫をかまってやろうと思い、今度は驚かせないようにゆっくりと岩から下りてしゃがみ、もっと舐めやすいようにとキャップを地面へ置いてやった。ただ水を飲んでいるだけだというのに、その姿を見ているうちに何やら満ち足りた気分になってきた。


 私は何とはなしに、猫のすぐそばにある岩の苔《こけ》むした側面へ目をやった。先ほど座っていた側は綺麗だったのだが、どうやらこちら側の下の方は日光が当たらないらしい。ぼんやりと苔の生命力の強さに感心していると、岩の側面に傷のようなものがいくつもついているのに気がついた。


 影になっていてよく見えないので、スマホを取り出してライトを点けて照らしてみる。漢字のようだが苔のせいでほとんど判読できず、かろうじて読めるのは『日』という文字くらいである。


 心ない人が自分の名前を記念がわりに刻むよくある悪戯《いたずら》といったところか。わざわざこんな見つかりにくそうな場所を選んで彫っていることに底意地の悪さを感じる。


 便乗犯もいるやもしれないと影の部分をぐるり照らしてみると、ところどころ掠《かす》れて消えかかった線や模様が文字を囲むように周りに描かれていた。悪戯を見つけた子供がその上に落書きをしたような具合だ。


 私はライトを消して猫へと視線を移し、大人気《おとなげ》ないことをする人もいるものだと思いながら、まだピチャピチャとやっている小動物の頭へ静かに左手をのせた。茶トラは耳を震わせただけで水を飲み続けており、私に触れられるのを特に嫌がっている様子はない。


 今度は喉もとを撫でてやろうと手の甲を当てると、茶トラはサッと頭を持ち上げ、耳をピンと立ててじっと動かなくなった。私は視線を上げて猫が見ているであろう正面をその頭越しに見つめた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説家になろうSNSシェアツール
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。