猫
しゃがんで触ろうとするとトラ猫はするりと私の背後へと消え、身体を回り込んで反対側からのっそりと姿を現し、だらりと垂らした左手の拳あたりにその小さな顔面をぐいぐい押しつけてきた。
「きみはどこから来たんだい?」
熱心にぐりぐりと顔面を擦りつけてくる猫をかまっているうちに、立て続けに起こった不快な出来事などどうでもよくなってきた。意図はわからなくともその擦り寄る姿が何とも愛らしく、気がつけば私は猫を飼うためにペット可能なアパートへ引っ越すことまで考えはじめていた。
何か食べ物をやろうとデイパックを下ろしたのだが、どうやら驚かせてしまったらしい。茶トラはふわりと数十センチメートルほど後方へ跳びのき、私が何をしようとしているのか探るようにじっと見ていたかと思うと、すぐに身を翻してトコトコと歩いていってしまった。
人懐っこい仕草をしていたわりに去り際はあっさりしたものだ。もちろん、猫が斯様に気まぐれな生き物だということくらいは私だって知っている。
荷物を下ろしたついでにひと休みしようと、座れそうな手頃な倒木でもないものか辺りを見まわしながら歩く。四方には灰白色のブナ林がどこまでも広がっており、空間は耳を聾さんばかりの蝉の鳴き声で満ち満ちている。
探すとなるとないもので、そこそこの距離を歩いているのに座って休めそうな倒木など見当たらない。これでは休憩する前に宿へ着いてしまうのではないか。
そんなことを考えながら幾度目かのアップダウンを上りきると、樹木の生えていない平らに均された小さな広場のような場所があり、そこに腰掛けるのにちょうど具合の良さそうな大きな岩があった。
私はいきなり汗が噴き出したような気がして急に喉の渇きを感じ、手に持ったままだったデイパックを探って水のペットボトルを取り出し、岩に座る前からキャップを外して乱暴に口元へと運んだ。ゴクゴクと喉を鳴らして無心に飲んでいたら残りが半分以下まで減ってしまった。
天気も良くて太陽もまだ高い位置にあるし、ここまで一本道のルートを辿ってきているのだから迷ったり遭難したりは考えられない。たとえ飲み干してしまってもおそらく水の心配はないだろう。
岩に腰を下ろして背後に両手をつき、ぐぐぐっと上体を反らして顔を空へ向けると、枝葉の隙間から漏れた光が容赦なく目に突き刺さり、私はその眩しさに瞼を閉じた。
大自然を全身で味わいながら、今度はキャンプにでも挑戦してみようかと思いついたところで、右手の指先にザラザラしたものを感じて「あっ」と声に出して振り返った。見ると先ほどの茶トラが指先についた水をペチャペチャと舐めている。
「きみも喉が乾いているんだね」
猫から手を引いてペットボトルのキャップに水を入れ、茶トラの前にもういちど差し出してみると、左の前足を私の手に掛けてまたペチャペチャとやりだした。舌の感触が不思議と気持ちいい。
もうちょっと猫をかまってやろうと思い、今度は驚かせないようにゆっくりと岩から下りてしゃがみ、もっと舐めやすいようにとキャップを地面へ置いてやった。ただ水を飲んでいるだけだというのに、その姿を見ているうちに何やら満ち足りた気分になってきた。
私は何とはなしに、猫のすぐそばにある岩の苔むした側面へ目をやった。先ほど座っていた側は綺麗だったのだが、どうやらこちら側の下の方は日光が当たらないらしい。ぼんやりと苔の生命力の強さに感心していると、岩の側面に傷のようなものがいくつもついているのに気がついた。
影になっていてよく見えないので、スマホを取り出してライトを点けて照らしてみる。漢字のようだが苔のせいでほとんど判読できず、かろうじて読めるのは『日』という文字くらいである。
心ない人が自分の名前を記念がわりに刻むよくある悪戯といったところか。わざわざこんな見つかりにくそうな場所を選んで彫っていることに底意地の悪さを感じる。
便乗犯もいるやもしれないと影の部分をぐるり照らしてみると、ところどころ掠れて消えかかった線や模様が文字を囲むように周りに描かれていた。悪戯を見つけた子供がその上に落書きをしたような具合だ。
私はライトを消して猫へと視線を移し、大人気ないことをする人もいるものだと思いながら、まだピチャピチャとやっている小動物の頭へ静かに左手をのせた。茶トラは耳を震わせただけで水を飲み続けており、私に触れられるのを特に嫌がっている様子はない。
今度は喉もとを撫でてやろうと手の甲を当てると、茶トラはサッと頭を持ち上げ、耳をピンと立ててじっと動かなくなった。私は視線を上げて猫が見ているであろう正面をその頭越しに見つめた。





