同僚
夏といえば海。そう答える人が大半かもしれないが私は違う。
運転手に会釈をしてステップを降りる。バスが去ってエンジン音が小さくなると、蝉たちの喧しい鳴き声が辺りに湧き上がった。
ディーゼル・エンジンの吐き出したガス臭さと黒煙が消えてから深く息を吸い込む。様々な化学物質で汚染された都会の空気ではない、密生する樹木や自生の植物から発せられる清浄で爽やかな空気が肺に満ちていく。
木々の作る影のおかげでさほど暑さは感じない。それでも額を拭うと手の甲が汗で湿った。帽子を脱いで髪に手ぐしを入れて被りなおす。風がそよいで肌寒さを感じ、背中のデイパックから長袖のネルシャツをひっぱり出して半袖の上に羽織った。
中村はああ言っていたが、海水浴客でごった返すどこかのビーチがテレビに映るたび、何が悲しくて休みの日にまで人だらけの場所へ行かなければならないのかと思う。
視界に人の姿がまったくない、周りに溢れている自然を見まわす。
やはり夏は山だ。
「トレッキングですか」
社員食堂で昼食を終え、今度の連休の過ごし方について同期の巻田と話していると、近くに座っていた同僚の中村が身を乗り出して聞いてきた。
趣味がアウトドア・スポーツ全般だという中村は、ジムにも通って身体を鍛えているらしく、スーツの上からでもわかるほどの盛り上がった胸板をしている。そんな彼が「トレッキング」と言うと、何か別の過酷なスポーツのように聞こえて思わず否定の言葉が出そうになったが、「まぁ、そんなところです」と私は曖昧な答えを返した。
どこか本格さが漂う「トレッキング」という言葉よりも、私のそれは山道をぶらぶら散歩するという程度のものなので、どちらかというと日本語で「山登り」と言った方がニュアンスが近い。
スカイボードやロッククライミングなどのエクストリーム・スポーツを普通のアウトドアだと思っている中村に、たとえトレッキングと山登りの違いを説明しても「それって何か違うんですか」と混乱させるだけだろう。
「自分は海ですね」
中村はしれっと私たちの会話に入ってくると、やれ潮風は母なる海の息吹きだの、やれ波に身を委ねて揺られることは母の胎内への回帰と同義だのと、他ではちょっと聞かないような海の褒め方をしはじめた。
そのまま喋らせていると、ブルーホールへのダイビングは己の深層へ潜る瞑想に似ているとか、グレートバリアリーフは地球の中で爆発し続ける小宇宙だとか哲学的なことを言い出したので、どうしたものかと巻田へ顔を向けると彼も目だけを動かして私を見てきた。
「それに裸のオネーチャンも見放題だし」
私たちの様子に気づいたのか、中村はこじつけるようにそう言うとそこで自分の話を切り上げた。私は裸ではなく水着だろうと指摘しようと思ったが、代わりに「中村さんは鍛えているんでしょ?」と訊ねてよくわからなくなった空気を変えようとした。
「そうですね。週四でジムに通ってますね。自宅にもマシン置いてありますけど」
「週に四日も? たいしたものですね」
「スプリットなんで普通ですよ」
なぜスピリットが出てくるのかと不思議に思いながらも、変な精神論を持ち出されても困ると私は別な質問をしてみた。
「あの、あれですよね。ドーピングとかも飲んでるんですか?」
「え、ちょっと勘弁してくださいよ。自分は薬物とかやってませんから。何と勘違いしてるんですか?」
中村は「もう、ほんと、周りが誤解するじゃないですか」と言って周囲を気にするように目を泳がせている。私が救いを求めて巻田へ目をやると、「プロテインのことじゃないのか」とボソッと言った。
私は巻田の言葉を聞いて自分の思い違いのせいで恥をかいた気分になったが、まあこれでひとつ賢くなったじゃないかと心のうちで己を慰めた。
「あぁ、プロテインね。もうびっくりするじゃないですかぁ」
そう言って中村は「当然」と言葉を切り、両手を前に出して巨大な容器を挟むようにし、「ガブ飲みですよ」と見えないプロテインを一息にあおった。無知ついでにプロテインとは何なのかを訊ねてみようとも思ったが、あとでインターネットで調べればいいかと思い直した。恥の上塗りになりかねない。
「ところで、巻田さんはどちら派ですか」
中村とは対照的とも言える線の細い身体をした巻田は、「僕はどちらでもないんですけどねぇ」と悩み事を吐き出すような口調で呟き、「強いて言えば海ですかねぇ」と小さな声で続けた。
「そうですよね。やっぱり夏は海ですよ」
まるで自分の意見の賛同者を得たかのように、興奮した中村が快活な声を上げた。巻田はまだ何か喋っていたが、中村が「夏は海。海、最高」などと一人で悦に入って騒いでいたので、私はよく聞き取ることができなかった。
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