四話:キツネ女に狙われる。
吾輩は、冬将軍である。
原因は不明だが、永き眠りから目覚めた吾輩の前に、二人の村人が現れた。
彼者らから、長老に会って欲しいと懇願され、吾輩は快諾する。
そうして、彼者らに先導されながら村へ向かう途中で雪崩れに遭遇するも、吾輩の力でそれを真っ二つに割り、事無きを得たのだった。
さてはて、どうなる事やら――。
あれから歩き続けて、半刻【約一時間】が過ぎた頃、ようやく谷の奥に着いた。日の高さから、巳の正刻【約十時】あたりであろうか。
もちろん、吾輩はずっと浮いており、二人が汗だくになりながら進むのを、ただただ眺めておっただけだが――。
確か――、流れからして――、
我らは、村を目指していたのではあるまいか。
だが、何も無い。
――目の前に広がるのは、真っ白い雪の壁。
そう、雪の壁なのだ――。
ふむ――、
遠くからパッと見ただけでは――、本当に何も無い雪だけの谷であるのだが、こうして近付いてまじまじと眺めれば、なるほど不自然だ。
――おや、
雪だけで出来た壁だと思っていたが、どうやら違ったらしい。
表面を触ってみると、氷のように固かったのだ。
おそらくは――、雪の表面を熱で溶かしたか、如雨露でやさしく水をかけたりして、あとは極寒の外気で凍らせたのであろうか。
続いて――、
そんな雪壁の背後には、一列ずつ、きれいに立ち並んだ杉がある。
整然としている事から、村人の手で植えられた人工林であろう。
さらには、これら杉の高さと雪壁が、だいたい同じ高さだったりする。
以上の事から、次のような推測を立ててみよう。
雪壁の芯となる部分は、一列に並べられた杉である。
そこに、四角に固められた【ブロック状の】雪を積んでゆき、杉を完全に覆いつくす。
最後の仕上げは、崩れないように表面を凍らせる。
さすれば――、村一つは余裕で隠せる規模の、巨大な雪壁の出来上がりだ。
「おかえりーぃ」
声のした方から怪配が――。
振り向けば、頭の上からキツネの耳がぴょこんと出た、村人らしき女の姿があった。
間違いなく、もののけであると、断言しよう。
何故なら――、
奴らは、“怪の力”という物を必ず持っており、吾輩はそれを感じる事ができるのだ。
もちろん、ただの人間には絶対に持ち得ない代物である。
「おぅ、ただいま、帰ったー」
「守り神様をお連れしたぞぉ」
吾輩を先導していた二人が、それぞれ応える。
しかし――、
ここに来て、初めて耳にした単語である、守り神――。
吾輩の事であろうか――。
「へーぇ……、あんたが……、守り神かい?」
キツネ女は、吾輩を上から下まで値踏みするように、つぶやいた。
やはり、守り神とは、吾輩の事であったか――。
あながち、間違ってはいないのだが――なぁ。
「もっと、お顔を、見せとくれよーぉ?」
おもむろに近寄ってきた、このキツネ女――、
足運びや身のこなし――からして、
なかなか――に、できるようだ。
年の頃は、見た目としては二十代前半であろうか。
当然ながらもののけであるからして、実際の齢は不明だ。
あと、女にしては背が高いだろうか。男の吾輩と大して変わらない背丈だ。
横幅は――、着ぶくれしているので、本当の体型は分からん。
ただ言えるのは、人間に化けている時点でも相当な実力者だ。
人間に化ける事のできるキツネは、実は、半分もいないらしいからな。
「じゅるり……、いい美少年じゃないかーぁ……っ」
一気に――、不穏な流れになった。
このキツネ女、よだれを拭いおったぞ。しかも、口から吐き出した白い息が、先ほどよりも大きくなってきており、荒い――。
「この烏帽子から漏れる、さらっさらのきれいな銀の髪ーぃ。氷のように青く凛とした目つきーぃ。それでいて線の細い、女の子にも見える面立ちーぃ。神秘的な白雪の肌に華奢な体付きは、とても男の子には思えないよーぉ」
吾輩の引立烏帽子を、がっしりと両手で掴んで、顔を近付けるキツネ女。恍惚な表情を浮かべながら、うんうん唸っている。
ちなみに、引立烏帽子とは、白い布の鉢巻が付いた烏帽子で、後ろで結んで頭に固定する。主に、兜の下に着用する、軍用の物である。
吾輩は――、
常在戦場の精神の下、何時如何なる時も素早く戦えるように、烏帽子と足回りは軍装にしているのだ。
しかし――、
それにしても――、
この状況は何とかならないのか――。
先ほどから、キツネ女の荒くも白い吐息が顔にかかって、身の危険すら感じるのだが――。
「やめてくださいよ、姐さん。長老に怒られますよ」
「そうですよ、こう見えても、我らが里の守り神様ですぞ」
こう見えても、という言葉に何かひっかかりを覚えるが、吾輩は昔から美少年と言われてきたのは確かだ。そういえば、人攫いの類に襲われたのも何度かあったな。
あと、このキツネ女。村――、いや里と言っておった中では、姐御的な存在のようだ。まぁ、口の利き方からして、そんな感じではあるがな――。
「チッ……、冗談に決まってんじゃないのさーぁ」
そう言ったキツネ女は、心底口惜しそうな表情で、吾輩の烏帽子から手を離した。
理不尽な戒めから解放された吾輩は、素早く間合いを取る。
――とりあえず無事に済んだようだ。
もし、このキツネ女が、吾輩の髪や肌を触っていたら、面倒な事になっていただろうな。
「姐さんの冗談は、いつも本気じゃないですか……」
うむ――、
即座に切り返す村人の言葉に、吾輩は思わず心の中で同意した。
さっきの舌打ちが、本気にしか聞こえなかったからだ。
「当ったり前さねーぇ、あたいは毎日を本気で生きてる女さっ」
このキツネ女め、早くも開き直りおった。
しかし、吾輩を見る目つきが、獲物を前にした肉食獣のメスに似ておるのは、気のせいだろうか。
「……と、いう理由で今夜、キミの寝所に夜這いかけるんで、よっろしくーぅ」
「な……っ?」
――何という事だ。
いつの間にやら、吾輩の、女房に捧げた貞操が、狙われているではないか。
なれば――、この里の中で寝泊りするのは、何としても避けねばならんな。
万が一、こんなキツネ女に襲われでもしたら――、嫉妬で怒り狂う女房によって、吾輩は八つ裂きにされてしまう。
「あーあ……っ、虎次郎の旦那に言ってやりましょうか。姐さんがまーた、若い男を狙ってるーって?」
「ちょっ、待っておくれよーぅ、堪忍しとくれよーぉ。あの人のお仕置きで、まーぁた子供が、できちまうよーぉ」
ふむ――、
物騒な単語が続々と飛び出してきたな。
旦那に言いつけられるという事は、このキツネ女は若い男をしょっちゅう狙っている年増な人妻で、お仕置きされると、また子供ができてしまうというのは、すでに子沢山で――。
「………………」
――うむ、これ以上の詮索は、やめておこうか。
ぐずぐずしてはおれん、さぁ――、
「お二方、参ろうぞっ」
吾輩は、面倒ごとを振り払うように、先へ進もうと促したのだった、が――。
【 】内は現代語訳、“ ”内は強調単語、重要固有名詞であるもののけの表記は、ひらがなと混じっても読めるようにする為です。