三十一話:宿場町のお代官さま。
吾輩は、冬将軍こと評 利光である。
暦では、凰平二年の一月三十日、水曜日。
今居る場所は、鎮西【地方】の寒路国【県】にある、北汰分宿という宿場町だ。
――以上。
澄んだ青空の下で、こんもりと積もった屋根の白い雪を下ろしている、年端も行かない雪ん子。そんな少女が履いた薄茶色の女袴【プリーツスカート】の中身を気にしつつ、我らはその建物に近付いてゆく。
(あの子の、白いもっこ褌【ひもパン】が見たいのは、変態のお兄さまだけなのです。わたしまで巻き込まないで欲しいのです)
大きく『よろず屋』の看板が掲げられているが、どう見ても代官所の一部にしか思えない造りになっている。代官所の大通りに面した、蔵にしてはかなり大きめの建物の壁に出入口を設け、店として開け放った感じである。
(無視【スルー】ですか……。そうですか……。あとで絶対、お仕置きしてあげますからね?)
二つある出入口の片方には『口入れ』の文字が暖簾にあるが、もう一方は看板と同じように『よろず』と、これまた暖簾に記されている。
屋根の上の白い褌から目を離すのは、はなはだ惜しい気もするが、これ以上見ていたら雪音が嫉妬に狂って何をしでかすか分からんので、早々に暖簾をくぐるとしよう。
(抱っこして欲しいのですっ)
暖簾をくぐる寸前に、雪音がいきなり抱き着いてきた。
それとほぼ同時に、吾輩の浮いていた身体がストンと落ちる。両足に急激な負担が掛かったが為に少しよろめいてしまった吾輩だが、何とか転ばずには済んだ。
うっかり失念していたが、雪や氷の上だからこそ、我らの身体は常に浮いていられる。しかし、建物の中までが雪や氷で覆われている事など、まず有り得ない。
すなわち、暖簾をくぐって建物の中に入った途端、表の通りを覆っていた雪も途切れてしまったので、我らは浮いていられなくなったという訳なのだ。
しかも、店内は土を平らにしただけの床だった。それに、人の出入りも結構あるようで、雪解け水が混じった泥の足跡も目立つ。雪音がとっさに抱き着かなければ、こやつが着ている派手な紅い着物の、足までもすっぽり覆っている長過ぎる裾が、泥だらけになっていただろう。
「おやおや……、見かけない顔ですね?」
声を発したのは、一番奥の番頭台に座る男子。
白い狩衣【平安貴族の普段着】に、赤色の指貫【平安貴族の袴で赤色】の、小綺麗できちんとした身なりの服装。立烏帽子が乗った頭髪は銀に輝き、露出した肌は青白い。
見た目からして、吾輩と同じ型のもののふ、氷人なのは間違いない。
ただ……、何よりも印象的なのは、三十路は過ぎてそうな風体に、整えられた白い口髭と、左目の片眼鏡である。
「あと、それは……、蘭狐殿の着物ですかね?」
聞き覚えの、まったく無い名前が出てきた。おそらく雪音が今纏っている、派手な紅い着物の持ち主を指しているのだろうが……。
そんな時、両手で抱きかかえている雪音から、素朴な疑問が飛んできた。
(ねぇねぇ、お兄さま。名前で思い出したのですけど、業者になる為の、偽物のお名前はお決まりでしたか?)
――むおおおおおおっ。
しまったああああああっ、吾輩とした事が、すっかり忘れておった。
肝心要の偽名が無ければ、登記など出来ようはずもない。まさに痛恨の極みである。
至って平静を装いながら、一刻も早く決めて名乗らねば怪しまれてしまう。なれど、それをこなすのは非常に難しい。
せめて、ほんの少しでも、考える猶予があれば……。
「ほむ……、某が予想するに……、あなた方は虎次郎殿の紹介で、ここに来られたのですかね?」
紹介………………、そうだっ、虎次郎からもらった紹介状だっ。これを口入屋に出せば、可及的速やかに事が運ぶとか、確か言っていたなっ。
「そうなのです。虎次郎さまから、これを出すように言われているのです」
抱っこで両手が塞がっている吾輩に代わって、かわいい笑みを浮かべながら紹介状を差し出す雪音。かゆい所に手が届く、本当に出来た女房である。
「ほむ……、確かに虎次郎殿の字ですね? では、拝見仕りましょうか?」
片眼鏡を光らせた氷人の男子は、雪音から受け取った封筒を開いて、文面に目を通し始めた。
(これで時間を稼げたのです。今の内に、お名前を決めましょう)
うむ、そうだな。
虎次郎が長を務めていた隠れ里にて、我らは終始本名を名乗っていたからして、今ここで新しい偽名を決めても、何ら問題はあるまい。
さてはて、どのような名前にするべきか……。
「氷戸 俊通殿に雪音殿と、申されるのですね?」
なぬうっ?
すでに、吾輩の偽名が紹介状に書いてあっただと……。
あの隠れ里で名乗った覚えは………………、あった。そうだっ、あの時だっ。
あれは確か、長老親子と一番最初に対面し、吾輩が素で本名を名乗った時だったな。訝し気な顔をされたので、ごまかした方が良いと判断した吾輩が、とっさに思い付いた偽名。それが、氷戸 俊通であったのだ。
てっきり、誰の耳にも届いていないと思ったのだが……。まさか、虎次郎がしっかり聞いていて、しかも覚えておったとはな。まったくもってどこまで有能なのだ。さすがは、名の知れた業者【冒険者】という所か。
ちなみに、雪音は本名のままであるが、これはこれで何ら問題ない。有名なのは“雪姫”の地位なのであって、雪姫の本名を知る者は、ほんの一握りの関係者のみ。ついでに、雪音という名前を持つ雪ん子は、そこらにごろごろといる。
「うむ、その通りだ」
「なのです」
極めて平静を装い、我らは肯定する。
「では、業者【冒険者】登記【登録】の手続きに入りましょうか。申し遅れましたが、某、この北汰分宿の一切を取り仕切る代官の、氷越河 斉隆と申します。以後、お見知りおきを」
ふむ……、一切を取り仕切る代官とな……。
さらに、代官と名乗る者が、よろず屋に口入屋も営むとは……。
しかも、御三家すべての真名【漢字】を組み合わせた氷越河の姓を名乗りつつ、評一門すべての血筋を継いでいる高貴な家柄と公言して憚らず、幕閣から大顰蹙を買った曰く付きの一族であると……。
やはり、北の最果ての宿場町であるからして、深刻な人材不足なのか。しかも、代官という言い方からして、官職もいくつか兼任しているに違いない。
「あと、登記にはいくらかの金子が必要ですが、よろしいですかね?」
「うむ、問題ない」
吾輩は、深緑の直垂【平民の普段着】の袖を揺らし、かすかな金属音を確かめる。抱っこしたままの雪音も一緒に揺れて変な声も上がったが、いちいち気にすまい。
「斉っちゃん、呼んだーぁ?」
そんな時、奥から幼い少女のもののけ、雪ん子が出てきた。
年の頃は六歳ぐらいか。短く切り揃えられた水色の髪に、やんちゃそうな顔立ち。誰とでも仲良くなれそうな、明るい感じの子である。
ただ………………、違和感があるのは、胸である。六歳にしては、やけに目立ってないか。
「そちらの、雪音殿に似合う着物を、見繕ってくれないかね?」
「あいさーぁ、分かったよーぅ」
とりあえず話の流れに沿って、吾輩は抱っこしていた雪音を番頭台の近くに降ろした。
番頭台から向こうは、一段高くなって畳敷きの床になっていたからだ。ここなら、雪音の着物が泥で汚れる事もない。
「これこれ、そこなせっかちさん。あいさつは基本ですよね?」
「はぁーい、あたち雪華ってゆうのーぅ。斉っちゃんからはーぁ、よくせっかちさんって呼ばれてるぐらい、せっかちなのーぅ。よろちくーぅ」
若干、舌足らずな口調で絶えずそわそわしている感じだが、六歳ぐらいなら相応であろうか。
「吾輩は、こ………………っ、こほんっ。氷戸 俊通と申す。よろしく頼む」
「女房の雪音なのですっ、よろしくなのですっ」
間一髪、危うく本名を名乗る所であった。これから名乗る時は、気を付けねばならんな。
「あぁー、忘れてたーぁ、あたち、斉っちゃんのお嫁ちゃんですーぅ、よろちくねっ」
――ピシッ。
満面の笑みで無邪気に明かされた衝撃の事実に、空気が凍り付いた。
六歳の見た目をしている雪華が、実は雪女だったとは……。
(えっ……、ええっ……、それって………………?)
未だ混乱している雪音に代わって、吾輩が極めて冷静におさらいしてみよう。
雪女の姿形は、その旦那である氷人の理想を忠実に具現化したモノである。すなわち、三十路を過ぎて氷人になったと思われ、一見して紳士然としている氷越河 斉隆は、吾輩以上の、正真正銘の幼女趣味【ロリコン】であり、夜な夜な見た目六歳にしては胸の大きい嫁を抱いているという、まさに雪音の感覚では変態の中の変態。
うむ、人は見かけによらずとは、よく言ったものだ。
【 】内は現代語訳と省略用語、理想を忠実に具現化などや“ ”内は強調単語、重要固有名詞であるもののけともののふの表記は、ひらがなと混じっても読めるようにする為、『 』内は紙などの媒体に記されている文字を表し、( )内は口に出さないセリフ、つまり心の声です。




